第52章 ライラの夢
白い小さなパンパスグラスの前で、ライラは泣き叫ぶハンナを抱きかかえていた。新月の光を浴びた紫の石は、まっすぐな光を放ち、ついさっきまでその中にハンナのママの姿を映していた。ほんの一瞬だった。その透き通るような映像は、ハンナに最後のメッセージを告げ終わると、小さな光となって共に空へと登っていった。ハンナの背をさすりながら、ライラはハンナのママ、ミチコの生涯を思った。
ライラが初めてハンナにあったのは、十二年ほど前の事だった。産まれてまだ三か月と少しの赤ん坊が突然従妹と共にやって来たのだ。ライラはその従妹が大嫌いだった。特に何かをされたわけではない。ただ、自分が欲しかったものを全て持っていたからだ。そして、その中で一番大きなものが、ライラがどんなに願っても手に入れることのできない未来を見ることのできるユラ神としての力だった。そんな素晴らしい力を得られるというのにもかかわらず、従妹のミチコは辛い修行から逃げるように忽然と姿を消していた。
それでもライラは、それを心配する振りをしながらも、戻ってこないことに少しばかり安堵もしていたのだ。従妹が戻ってこない限り、自分はユラ神様に必要とされる。新たなユラ神などいらない。もしかしたら、このままいけばいつか自分が、そうも思っていた。
けれど、全てが自分の思い通りになるかもしれないという淡い期待は、突然の従妹からの手紙で打ち砕かれた。その日から、自分の事だけを頼りにしてくれていたユラ神様は、自分の娘であるミチコと孫のことで頭がいっぱいになった。自分のことは召使いとしか思わなくなったように思えた。
そうしてその手紙からわずか数日で従妹は赤ん坊と共にウエストエンドへと舞い戻って来た。ユラ神様は、このことを私たちだけの秘密にすると言った。ライラの家族にも決して伝えてはいけないと言う。ユラ神様を崇拝していたライラには、選択肢はなかった。ただ、従順にユラ神様の言葉の通り、煮えくり返る思いを隠して、その言いつけを守った。
けれど、何もできない従妹に料理や掃除や洗濯を教えながら、今更何様のつもりかと、嫉妬と不満の念がライラを支配し、その思いは日増しに大きくなっていった。ライラはユラ神様のいないところで、戻って来たミチコに執拗につらく当たった。
《いじめをする側の方が心に闇を抱えている》というのは本当だとライラは実感した。いじめられている側は、その理由など分からないのだろう。きっといじめられている側の方が、いじめている側よりも優れていて、多くを持っているのだ。毎日毎日、執拗にいじめればいじめる程、自分の方が劣っていると証明するだけのみじめな日々だった。それでも、自分の方が何でもできるのだと見せようとライラは必死だった。
ユラ神様は、昼間には家事全般をミチコに教えるようにとライラに頼んだ。そして、夜になるとミチコにユラ神としての技術を教えると言い、数時間だけ小さな赤ん坊の世話をライラに押し付けた。かといって何をするわけでも無く、赤ん坊は術で眠らせているので、危険が無いように見張っているだけでいいという事だった。
毎日、家に帰る時間が遅くなり、家族は心配した。それでもライラは、ユラ神様に色々教わっているのだと嘘をついてまでユラ神様に協力をした。
私は、一度だって、その技術のひとかけらも教えてもらえなかったのに。
ユラ神様に協力する一方で、憎悪と妬みの炎がライラの心を焼き続けた。その憎悪の心の中で、ユラ神様の予言の言う、『遠い東の果ての国からやって東から来る災いをもたらす子供』は、もしかしたらこの赤ん坊ではないか、そういう疑念が日増しに大きくなっていった。何としてもそう思いたかったのだ。そうしてある日、ライラはついに行動に出た。
その日もいつも通り、ユラ神様は、奥の部屋で何かをミチコに教えていた。従妹が村に戻ってきて二週間たった頃だった。奥の部屋にお茶を運んだ時、ドアの隙間から、ユラ神様とミチコが大きな水晶を楽しそうに見つめている様子を見たライラは、頭に血が上った。
未来を見る力、それを操る能力、それらは全て自分ではなく、あの女に奪われていく。
ライラは、家の裏手のドアから出ると握りしめていたバケツとほうきを地面にたたきつけた。芝生の上で転がる乾いた音が響いたが、中から人が出てくる気配はない。それほどにあのふたりが集中しているのか、それとも自分のことなどどうでもいいと思っているのか、ライラは誰にも気遣ってもらえない事実に声を殺して涙を流していた。
バックヤードから室内に戻ると、キッチン横のゆりかごに眠る赤ん坊が見えた。夜に世話を頼まれたとはいうものの、全く手のかからない子で、実際は放っておいても構わないほど昼も夜もすやすやと眠っている赤ん坊だった。昼間にライラが家事をミチコに教えている時は、ユラ神様がその孫を溺愛して抱き続けていた。
そうして夜になると、ライラは面倒を見るように言われた赤ん坊をほったらかして、その間に翌日の献立を考えたり、ミチコが失敗した料理を手直ししたりして時間をつぶした。ライラには大嫌いな従妹の赤ん坊など、全く可愛いとは思えなかったのだ。
実際、一度も泣き声をあげない赤ん坊がうす気味悪くもあった。もし災いを運ぶ子供だとしたら触れたくもない。そう思ってまともに触れたことさえ無かった。
けれど、妬みと嫉みの想いがピークに達したその日、ライラはこの赤ん坊に危害を加えればどうなるのかという恐ろしい考えに支配された。一度も見たいとは思わなかった従妹の子供に近づき、頭の上に覆われていた布を外して初めてその赤ん坊の顔を覗いた。どうやって痛めつければあの女は悲しむのか。そんな狂った心は赤ん坊の姿を見た瞬間に冷め切った。赤ん坊の姿が可愛かったからではない。何故ならその耳は、遠い東の果ての国の者の容姿そのものの姿をしていたからだった。
間違いない。やはりこの赤ん坊は呪われた子だ。私がなんとかしないと……。
一度後ずさりしたライラは、自分自身を正当化しながらゆっくりゆりかごへと近寄った。赤ん坊の細い首へと両手を伸ばし狂気の行動に出ようとした時、音も無くキッチンのドアが開いた。
「その子を始末すれば、この国は守れるかもしれないわね」
ユラ神様の声がライラの背後に聞こえた。ライラは膝から崩れ落ち、がっくりとうなだれた。
「どうして、東の果ての国の子が?」
ライラは、ゆっくりと振り返った。暗いキッチンでろうそくの明かりが細かく揺れている。
ユラ神様は、ライラの肩に手を乗せると、一言、『申し訳ない』と言った。
「私を、責めないのですか?」
ライラの頬には涙が伝っている。ユラ神様は、首を横に振るとライラを立たせ、その手を両手でぎゅっと握りしめた。
「お前に、そんなことをさせる程、追い込んだのは私だ。ライラ、お前がそんなことをする必要はない。本当は心優しいお前はきっと、ずっと何年も心を病んでしまう」
「そんなことはありません。災いに繋がる子なら、私が、この国のために……」
「それはね、私の役目だと思っていた。だから……」
ユラ神様は、暗い目をして微笑んだ。
「……許しておくれ。この子が、予言の子だとしても、私にはできなかった。もし仮にこの子のせいでこの国が亡びるとするならば、それは、この子を招き入れた私のせいだ。けれどミチコが覚醒するならばユラ神の歴史は途絶えることは無いかもしれない。どうか、ミチコを支えてやっておくれ」
ライラは、あふれ出してくる非難の言葉を全て投げつけたかったが、一言も投げつけることは出来なかった。その代わりに出て来た言葉は、たったひとつだった。
「どうして、私ではないのですか?」
ユラ神様は、一瞬、意外そうな顔をしてからほほ笑んだ。
「それは……あなたには、別の幸せな未来が待っているからです」
ライラには、その言葉の意味が理解できなかった。ユラ神様となる以上に幸せな未来など想像が出来なかった。目の前には、すやすやと眠る赤ん坊がいた。その耳の形は異様だ。その耳で、遠くの音を聞き取ることが出来ると聞いたことがあった。そんなものが何の役に立つのかは分からないが、とにかく不気味にしか思えなかった。この種族が現れてからというもの多くの国が消えている。この国も恐らく例外ではないかもしれないのだ。
「私には、幸せなど……。私にも、教えて欲しかった……」
ライラはそれだけ言うと、泣き崩れた。その背中をユラ神様は優しくさすった。
「あなたの未来は、とても明るいのです。未来の断片を見ることなど、あなたには必要ないのですよ、ライラ。もっともっと大切なことがあります。手に入れるべきではないことだから、手に入らないだけなのです。自分ではない誰かの未来と自分の未来を比較してはいけない。あなたは多くの者に囲まれて、愛されるのです。そして、それはこの国ではありません」
ライラは驚いた顔でユラ神様を見上げた。蝋燭の火が揺れ、ふっと消えると、今まで一度も聞いたことのない赤ん坊の声が聞こえた。泣いているのではなく、笑っている。ユラ神様が赤ん坊を抱きあげ、ライラに見せるように近寄った。ライラがその顔を覗き込むと、その赤ん坊は再びライラに向かって笑いかけた。
「ハンナと名付けられたそうです。お父様はあなたの想像通りグリーングラスの方で、ミチコの命の恩人です。そうして私たちの、ユラ一族の能力も、きっと皆と同じように受け継ぐはずです」
「ハンナ……」
これまでただの物体だと思っていたものが、ひとたび名前が付いただけで、血の通った命だと思えた。そうだ、この子は自分と繋がっている。どんな姿であったとしても……。自分が何をしようとしていたのかと考えてライラは今更足がすくんだ。
ライラが何も言えず見つめていると、ハンナは再び笑いながら嬉しそうにライラの方へと手を振った。もう目が見えているのだろうか、とライラは驚いた。ハンナの指先には、ユラ神様に懐いている小さな妖精が飛んでいた。新月の妖精だ。
「あの……ミチコは?」
「ああ、今ね、最後の訓練をしているの。ようやく、あの子も水晶を使えるようになったようでね。私の手助け無しに独りで見られるようになれば、もうこの国も安泰です」
ライラは、その言葉に、諦めと安堵と悲しみが入り混じった気持ちになった。けれど、この子は決してこの国で受け入れられないだろう。この子はこの先どうするのだろう。複雑な気持ちでほほ笑みかける赤ん坊を見つめていると、奥の部屋からミチコが姿を現した。
ライラが見つめている先を見たミチコは、はっとした顔になった。
「ライラさん、今日も遅くまでありがとうございました」
それは決意のこもったような声だった。
「水晶で未来は見えました?」
俯いたままライラが尋ねた。
「ええ……」
「それは良かった。では、明日にでもこの国の新たなユラ神をお祝いしなくてはね」
ライラは無理に作った笑顔でミチコを見た。ミチコの目には強い意志が感じられた。昼間とは別人のようだった。ライラの問いかけに応えることなく、ミチコは赤ん坊を抱え、再び奥の部屋へと戻って行った。
「夢が叶ってよかったですね」
背後から再びライラに声をかけられたミチコは、振り返り笑顔で頷いた。
「私の夢?……ですか」
ミチコの声のトーンは低く、何故か悲しそうな表情だ。
「……ライラさんの夢は何ですか?」
聞かれたことのない質問に面食らい、暗いキッチンの片隅でライラは咄嗟に言葉を探した。
「そうねぇ。ここをお払い箱になったら、パン屋さんでもするかな」
「それなら、大盛況間違いなしね」
そう声をかけながらライラに優しく微笑むユラ神様の目に、涙が溢れていたことに、その時のライラは気が付いてはいなかった。
その夜、ミチコは子供を連れ、突然姿を消した。あれから十数年、ユラ神様の予言通り国は滅んだ。必ず復讐してやる、あの子をユラ神になどするものか、そんなことになるくらいならこの手で抹殺してやる、やはりあの時手にかけるべきだったと、その思いだけでどんな苦境も生き延びた。けれど執念で探し当てたミチコは、気の毒なほど哀れな姿となっていた。放っておいても間もなく命の灯が消えることは明らかだった。覚醒したはずのあの子供はユラ神にはそもそもなれないことが分かった。つまり、ユラ神一族の血は完全に途切れたのだ。ライラは、突然に生きる目的を失った。
今でも、その事を考えるとライラの心は怒りで支配されそうになる。けれど、ようやくそれも終わりを迎えそうだとライラは思っていた。それが運命ならば受け入れるしかないのだと、自分に言い聞かせていた。
自分が今この国にいるように、ミチコも運命をそのままに受け入れるしかなかったのだ。
こうやって泣き崩れてくれる人が何人もいるということは、あんた幸せだったという事じゃないか。少なくともあたしよりはね。ミチコ、あんたは何もかも手に入れたんだ。
どこまで行っても、あんたはあたしより恵まれてるよ。羨ましい限りだよ……。
ライラは立ち上がると、遠ざかって行く光る紫のきらめきを目で追った。
「いつまでも泣いてんじゃないよ、馬鹿娘。あたしゃ疲れたから先に帰るからね。明日は早いよ。これから、西の国へ行かなきゃならん。お前がどうするかは、自分で決めるんだ。さっさと帰って来るんだよ」
月光の妖精たちにハンナを託し、いつまでも泣くハンナの背から手を離したライラは、大きくひとつため息をつくと、首にかけていた水晶のネックレスをハンナの掌の上に載せた。
ストロベリーフィールド ー 消えゆく世界 ー 永易侑真 @Yu-ri-N
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