第51章 精霊の館

 小人の森を離れて数分、上へ上へと飛び続けると、昨日の島の景色に似た巨石が転がる場所が見え始めた。その少し下に芝生に一面覆われている場所が見える。昼間だというのに暗く、上空には灰色の雲に覆われた景色が広がっている。

 小人たちが自分の言葉を理解していた様子であることに、ルークは軽いショックを受けていたようだった。ペガサスの上で、ルークの周りにはどんよりした空気が漂っている。スノーマウンテンの頂上を超え北側の峯を下へと降下すると、あたりに濃い霧が立ち込め始めた。

「そろそろだよ」

 ジャックが嘶き、スノーマウンテンの頂上付近に降り立った。ジャックとレオのふたりが姿を現すと、その霧はハンナたちの周りをあっという間に取り囲んだ。よく見ると、霧の中には、沢山の妖精たちがいる。妖精たちは、小さな羽をひらひらさせながら、ハンナに挨拶をしてきた。その表情は乏しいが、怒ってはいないようだ。ハンナが挨拶をしている様子を見て、ルークは呟いた。

「もう何十年も前から知っているようだね、君は。霧の妖精がこんなに歓迎するのは珍しい」

 ルークは、妖精たちに道案内をありがとうと言うと、霧はすうっとたなびいて、山の上で白い矢印を作った。

「レオ、どうしたの?」

「うん……あれは、虫?」

「妖精たちよ。優しくしてね。仲良くね」

 レオはうんと言い振り返った。ハンナの前を歩いているレオの背丈は、少し伸びているようだ。ジャンプスーツはすっかり小さくなり、いつの間にかあちこちが汚れ擦り切れている。この服はそろそろ寿命だよなと考えながらハンナはレオの後姿を見つめていた。しばらく前に進んで行くと、目の前に三階建ての白亜の豪邸が突然姿を現した。空からは見えなかったがと、ハンナは不思議な気持ちで立ち止まった。窓の数が左右に二十以上はある。学校みたいだなと見上げているハンナの隣で、ルークは呼び鈴も押さずにドアの外から声をかけた。

「戻りました」

「遅かったね」

 ドアの向こうから声がして、重そうな灰色のドアがゆっくりと開いた。ドアの反対側から光が漏れる。中に入ると広い玄関ホールがあり、中央のテーブルに野草のブーケがかごに生けてあった。正面には天井まで届くガラスの窓があって、その向こうには緑色の短い草に覆われた地面が見えている。野草が風に揺れ、そのはるか向こうには空と連なる山が見えていた。さっきまで歩いていた岩だらけで苔だらけの景色とはずいぶん違って見える。大きな玄関ホールの右手には螺旋階段があり、上から誰かが階段を降りてくる姿が見えた。ライラだった。

 ハンナには最初それが誰なのか分からなかった。ライラは紫色のマントを羽織ってはいなかった。ここがリラックスする場所なのだということが分かるような楽そうな格好をしている。柔らかそうな素材のワンピースだ。その上からチェック柄の大きなエプロンを付け、両手にはバケツとほうきを持っている。

「よく来たね。馬鹿娘」

 その声にハンナは一瞬身体を固くしたのだが、レオは明るい声で、こんばんは、と挨拶をしている。ライラはハンナの姿をまじまじと見ると、妖精たちに指示を出し、ハンナを部屋へ連れて行くようにと言った。

「良くこっちの世界へ戻れたもんだ。綺麗な姿になったら、そこのダイニングへ来るように」

 玄関ホールの左手に見える大きな扉を指さし、ライラは階段の向こう側にあるドアから姿を消した。バタンという音の後、玄関ホール正面のガラス窓の向こう、中庭で大きなシーツらしき布を取り入れようとするライラの姿が見えた。シーツの両端を妖精が持ち上げて、一生懸命に引っ張って、綺麗な長方形に畳んでいる。その向こうには、ガラスでできたようなドーム状の小屋が見えていた。

 ルークは、ライラに頭を少し下げた後、無言で二階へ上がっていった。急によそよそしくなったような姿の二人の様子に、ハンナは言葉にできない微かな違和感を覚えていた。

 妖精たちに連れられて二階へあがると、ハンナはレオと別の部屋に連れて行かれ、無数の妖精たちに風呂に入れられ泡まみれになった。その後、これまで身に着けたことが無い繊細なレースがちりばめられた真っ白なドレスを着せられた。ハンナは鏡に写った自分の姿を見て気恥ずかしくなった。けれど、やはり女の子のハンナは、その姿が嬉しくもあった。少し伸びた髪は、妖精たちが綺麗に結い上げて、白いリボンを付けてくれた。妖精たちの表情は、心なしか固そうに見える。唇を固く結んで、ハンナの声にもほとんど反応せず、笑顔を見せないのだ。

 経験者となってからというもの、目の前にあることを乗り越えることに必死で、ハンナはゆっくりと休んだ記憶が無かった。いや、本当は数か月のはずだ。髪が伸びていることがその事実を示している。

 わたし……これからどうなるの? ママに会いたいな。こんな格好見たらきっとびっくりするだろうな。

 鏡に写った自分の姿は、精霊のしもべでも、ユラ神の末裔でもない、普通の女の子だ。妖精たちは、その姿をチェックしてから満足げに部屋から出ていった。まんざらでもない思いでハンナが鏡を見ていると、背後に気配を感じた。

「ノックしたんだけどね」

 そこには、ジャックが立っていた。

「素敵だね」

 そう言うと、ジャックはハンナの周りをぐるりと回りながら上から下まで見つめた。

「全然違う人みたいだ」

「ありがとう。ジャックは着替えないの?」

「え? ああ……ちょっと用があってね」

「そうなの。残念」

 ジャックは、少し斜めに俯いてから顔をあげ、作ったような笑顔で手を振った。

「じゃ、僕もう行くね。うまく言えないんだけど……僕たちには、選ぶこともできるんだ。だから……」

 ジャックがそこまで言いかけた時、後ろからルークが顔を出した。真っ白なコートを身に纏い、白いロングブーツを履いている。上から下まで真っ白だ。

「ハンナ、下へ行こう」

 ルークはそう言うと、ジャックを睨み付けた。ジャックもルークを睨んでいる。どうやらまだ喧嘩が続いているようだ。ハンナは階段を降りていくルークに慌ててついて行った。階段の中ほどまで来ると、懐かしい香りがした。ママが作るガレットと香草スープの香りだ。ハンナは思わず階段を駆け下り、前を行くルークを追い越してダイニングへと駆け込んだ。

「ママ!?」

 ダイニングの中央には大きなテーブルがあって、そこにポツンとひとり、レオが座っていた。擦り切れていたジャンプスーツではなく、白いトレーナーのようなものを着ている。

「ハンナ!」

 ダイニングを見回すハンナにレオが声をかけた。

「僕ね、もう食べたよ。ルークと一緒に食べたんだ。お代わり三回もしたんだよ。ハンナのママのスープの味だよ、やっぱり美味しいよ!」

 レオは、空っぽになったお皿を前に嬉しそうにほほ笑んでいる。ハンナは、ダイニングの奥へと続いているキッチンの入り口と思われる場所へと駆け寄った。

「ママ!」

 そこに立っていたのは、トレーにスープ皿を乗せたライラだった。ハンナはその後ろを覗き込むようにしたのだが、他に誰かいる気配が全く無かった。

「邪魔だね。さっさと食べなさい」

 ライラはテーブルに音を立てトレーを置くと、ダイニングの外へと出ていった。

「出かけるから急ぐんだよ」

 ハンナは気が抜けたように、トレーが置かれた前の椅子に腰をかけた。

「ママ……」

「ハンナどうしたの?」

 ハンナの隣には、レオが立っていた。心配して顔を覗き込んでいる。腕組みをしたまま部屋の入り口にもたれかかっていたルークが、ハンナに声をかけた。

「君のママが料理上手だってことは、僕も知っているよ。ジャックが騒いでいたからね。また出かけるから、早く食べなさい。君は、後からライラと来るんだ」

 ハンナは、その声を聞いて顔をあげ、ゆっくりとスープを口に入れ始めた。大好物のガレットもママの味そのものだった。その姿を見て、レオは笑顔になった。

「ね、美味しいでしょ?」

 口をいっぱいにして、ハンナは笑顔でレオに何度も頷いた。ルークはいつの間にか部屋の入り口を離れている。ルークが『行くぞ』と、ジャックを呼ぶ声が遠くから聞こえている。

 懐かしい味を噛みしめ、ハンナはあっという間にスープを飲み干した。小さな妖精たちがトレーやポットの上に腰かけて、脚の上に肘をつきながらハンナの様子を見つめていたが、あまりの早食いに、最初落ち着いてみていた妖精たちは、口を開けて驚いた様子を見せていた。

「ごちそうさま!」

 ハンナが立ち上がろうとすると、頭の中に声が響いた。

『食器を片付けたら、玄関前に来なさい。外で待っている』

 ライラの声は、相変わらず愛想が無かった。ハンナはレオとふたり分の食器を洗おうと奥へと運んだところで、妖精たちが、『かまわないから行きなさい』と、身振りで伝え始めた。ハンナからお皿を取り上げると、ハンナの身体を洗ってくれた妖精たちが、皆でお皿を洗い始める。

「ありがとう。今度何かでお返しするね。レオ、行こう!」

 ハンナはレオの手を引き、バタバタと外に出ようと走った。広いお屋敷は部屋を横切るにも時間がかかる。広い玄関ホールの中央にある花を横目に見て、ハンナの頭に何故かふと、ニーナのことがよぎった。あの広いお屋敷を走り回ってかくれんぼしたことや、可愛げのないもう一人のレオ……。手を引いていたレオの顔を見たハンナは、このレオもニーナの弟だ、という当たり前のことに今更気が付いた。もうひとりの弟を可愛がっていたニーナの姿が、ハンナの記憶の中で蘇る。

 ホールのガラス窓から見える景色は、もう真っ暗な空の色に変わっていた。無数の星がラメのように煌めいている。ハンナが記憶を飛ばしたのは、ほんの一瞬のことだった。過去を回想するハンナの胸の上で、小さな黄色水晶から弱い光が揺らめいた。

 最期に見たあのお屋敷は、まるで廃墟のような建物だった……。

『早くしなさい。馬鹿娘』

 突然頭に声が響き、ハンナは慌てて外に出た。外に出るとライラが立っていて、もうルークとジャックの姿は見えない。ライラはルークと同じような白いマントを羽織っていた。

 レオとハンナの姿を横目に捕らえると、ライラはハンナたちから目を逸らして言った。

「どれ、レオの乗り心地を試そう。レオ、パンパスグラスの丘へ行くよ。覚えてるかい?」

 その声にレオの顔は、ぱっと明るくなった。

「うん! 僕、覚えてるよ。セバスチャンがね、僕そこに行かないと死ぬんだって言ってた。

 でも、ハンナはセバスチャン嘘つきだって……嘘つきって、本当じゃないことを言うことだって、リベラから聞いたよ。リベラって知ってる? すごくすごく綺麗なんだよ!」

 相変わらず思ったことをどんどん口にするレオの口をハンナは塞いだ。レオは、しまったという顔で口を閉じる。

「……僕、お利口さんにしてる……」

「そうね。いいって言うまで、お利口さんにしていてくれたら嬉しいな」

 レオは、ハンナの顔を見ながら、無言でうなずいた。ハンナは、無言でいることを『お利口さんにする』とレオが理解していることを知っていた。こんな夜更けにライラが何処へ連れて行くつもりなのかは分からないが、レオが邪魔にならないようにしなければと思ったのだ。ハンナがレオの石に触れようとする前に、ライラが叫んだ。

「精霊よ、レオをあなたの元に!」

 ライラが、天に両手を広げると、レオの姿は巨大な龍へと変わった。

「こりゃたまげたね。えらい成長速度だ。何でも吸収しちまうんだろうね」

 ハンナは、毎回大きくなる龍の大きさは想像できていた。それよりも、自分以外にレオを変えることができる者がいることに驚いていた。それ以上に驚いていたのは、恐らくレオの方だろう。レオの意思に関係なく、姿を変えさせられるという意味では同じなのだが、驚いたように瞬きを繰り返している龍を見ると、ハンナの心は複雑だった。

「さぁ、行こうか」

 ライラは、龍の前足を足掛かりにその背に飛び乗った。

「あんたは前だ。残念ながら、あたしゃ操縦は出来ないものでね」

 そう言われてハンナは、慌てた。龍は大きな目を横に動かしてハンナを見ると、髭を使い器用にハンナを持ち上げる。

《パンパスグラス、ロゼの丘へ!》

 ハンナの思考とリンクすると、龍は真っ暗な空へと飛んだ。月はほとんど見えない代わりに、無数の星が見えている。

「新月……相応しい日だね」

 ハンナの背後でライラのつぶやきが聞こえた。眼下には一面にパンパスグラスが揺れているのが見える。到着までの時間はあっという間だった。精霊たちがロゼの丘と呼ぶ、パンパスグラスの丘の端に広がる広い場所に龍は降り立った。以前にライラが経験者と守り人たちを集めた場所だ。龍から降りると、龍はやはりハンナが龍の赤い石に触れるまでもなくその姿を変えた。レオが姿を現したのを確認すると、ライラは無言で歩き出した。

「来なさい。馬鹿娘」

 ハンナとレオは、急いでその後に続いた。しばらく進んんでライラが立ち止まった場所には、長い棒が突き立ててあった。先端には薄汚れた布が結びつけてある。ハンナがどこかで見たと記憶をたどっていると、その棒の横に大きな白い物体がいることに気が付いた。

 薄い月明かりと草木を揺らす風のせいで、パンパスグラスとその物体との境目があいまいだ。ハンナとレオがそれを見定めようと目を凝らしていると、ライラが声をかけた。

「ご苦労だったね」

 白い影が前に進んでくる。

「それでは、我々はこれで。何かあったらいつでも」

 その声で、それがルークであることにハンナは気が付いた。大きな風が吹き、翼を広げたペガサスにルークは飛び乗った。ペガサスとなったジャックは、すぐにはその場を離れず、何度も何度もハンナの頭上を旋回し、嘶きをひとつあげ、空高く消えていった。

「え?」

 ハンナには、その嘶きの意味が理解できたのだが、頭が理解しようとはしなかった。たった今、ジャックはこう言ったのだ。

『ハンナのママ、精霊と共にどうか安らかに……』

「……え?」

 呆然とし続け、それ以上言葉が出ないハンナを気遣う様子も見せずに、ライラは前に進んだ。そして白いパンパスグラスの前に跪いた。長い棒がその横で汚れた布をたなびかせている。

「あんたの宝物、連れて来てやったよ。これでいいんだろ?」

 長い棒の刺さった横に、同じ大きさのパンパスグラスの小ぶりな穂が揺れている。その穂の色だけが真っ白だった。その前に、真新しいシーツが被せてある箇所があった。盛土になっていて、そこだけがドーム状に盛り上がっている。ライラは振り返ると、ハンナに告げた。

「挨拶しなさい。あんたの母親、ミチコ・フレデリック・ルベウスの墓だ」

 ハンナの頭の中は真っ白になった。身体が後ずさりして、後ろにいたレオとぶつかった。レオは無言のまま、遠く前方を見つめている。意味が分からないという顔で、ハンナの顔を見ながら、レオは自分のバングルに触れた。

『ねぇハンナ、ハンナのママ、どこにいるの?』

 嘘だ、嘘だ、嘘……。

 ハンナの頭の中で、同じ言葉が繰り返される。

「嫌っ!」

 走って逃げようとするハンナの背後からライラの声が飛んだ。

「逃げんじゃないよ! 馬鹿娘!」

 突然ハンナの行く手がパンパスグラスで遮られた。自分の方へずるずると奇妙な音を立てて、向かって来るパンパスグラスの大群に怯え、一歩、一歩とハンナは元の場所へと戻ってくる。

 ライラはハンナの襟を捕まえると、白いシーツを被せてある盛土の前に座らせた。

「ここが、あんたの両親が、眠る場所だ。けどね、ここにあるのは、ふたりの思い出と外側だけだがね」

 そう言いながら、ライラはハンナの横に屈み、ハンナの背に手を置いた。整理できない頭で、ライラの方を向いたハンナの目に、信じられないものが映った。ライラの胸に光る水晶だ。それは紛れもなく、ハンナのママが肌身離さず身に着けていた未来を見る水晶のネックレスだった。うっすら微笑むライラの横顔が、ハンナにはあざけるような顔に見えた。頭に血がったハンナは、立ち上がると、ライラが首からかけているネックレスごと、その胸ぐらを掴んだ。

「あなたが……。あなたが、殺したの!」

 ライラは無表情でその手を払いのけた。

「やれやれ、馬鹿に付ける薬はないね……」

「ママに、何をしたの! ママを返して!」

 ハンナは何度もライラの胸をその小さな拳で殴りながら泣き叫んだ。その姿をレオは無言で見つめている。その表情はこわばった様子だ。見たこともないハンナの表情に怯えているのだ。

 ライラは、ハンナの両手を力いっぱい掴むと、こう言い放った。

「いいかい。あんたの母親に会いたいんなら、言うことを聞くんだ。あたしの言ったこと聞いてただろ? ここにいるのは、この世界で見ていた外側の、役目を果たした外側と、その思い出の墓だ。今から、あんたの母親に会えるから、あたしの言うことをよく聞くんだよ!」

 その剣幕にハンナは泣くのを止めた。ライラは固く握りしめていた手を緩めると、ハンナの左手を薄明りの月光の前に持ち掲げた。それからその左手の指にはまった指輪の石を月光にかざした。

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