愛おしいつむじ

 それから3年が経った。


 春と坂口の交際は順調に進み、付き合って2年ほどで結婚しそして間もなく春は妊娠した。春は元気な女の子を産み、育児休暇を取りながらも、育児と家事に忙殺される毎日を送る。そんな忙しい日々の中でも春は時たま拓馬を思い出し、元気にしているかと案じていた。しかし連絡手段もなく、それを確認する術が春にはない。


 ある日、まだ一歳に満たないわが子を抱っこ紐で前抱っこし、春は食材を買いに出かけていた。いくら可愛いわが子でも両手に重い荷物を持てば、元気に生まれて何よりだがちょっとは軽くならないものか、と願ってしまう自分はなんて幸せ者だろうかと春は苦笑した。


 俯くと見えるわが子のつむじはなぜこんなにも可愛いのだろう、見覚えがあるだからだろうか。既視感に春が首をひねると、リビングの絨毯に腰かけ劇愛するわが子のおむつを替える旦那のつむじを春は思い出し、笑みがこぼした。


 天気もいいし散歩していこうか、とわが子に話しかけ、いつか拓馬と歩いた橋から見下ろした川の河原を春は歩いていた。懐かしい思い出に浸りながらも春は重い足を動かし続けていると、遠い橋の下に人影がいるのが見えた。昼間であるため特別不思議には思わなかったがなんだか見覚えのあるシュチュエーションに、春の心臓は跳ねる。


 拓馬であるわけはないと春は自分に言い聞かせながらも、期待を拭えず春はその人影に近づいていく。その人影は橋の影から脱しこちらに歩いて来る。


 生憎の太陽の光でその人影の顔は確認できない。ようやく顔が見えるぐらいの場所まで来たと思ったら、突然大きな音を立てその人影は地面に倒れた。ドサッという鈍い音に驚いて、春は咄嗟に買ったものを地面に置いて急いでその人影に近づく。


「大丈夫ですか?」


 あまりにも酷似した状況に、驚きを隠せず近寄ると前よりも早くその人影は起き上がる。そしてその人影の正体を一目見て、春は嬉しさのあまり笑みを隠せなかった。


「僕は、なんなんだろう」


 そう呟いた拓馬はニヤッと笑って春をじっと見つめた。その眼差しは確かに懐かしいが、けれど拓馬の顔は大人びて少し老けたようでもある。体型は細見のまま変わらず作業着を着て、少しひげが生えていた。


「元気?」


 拓馬の頷いて愛らしい笑顔を浮かべる様子は前とは変わっておらず、春は安心した。拓馬は春の胸元に居る赤ん坊を覗き込む。


「女の子?」


「そうだよ」


 春はわが子の顔が拓馬によく見えるように、胸元にあるわが子の顔を拓馬の方へ向かせた。


「お酒我慢できたんだ」


「当り前じゃない」


 春の子供を愛おしそうに見つめる拓馬。


「可愛いね」


 赤ん坊の白い頬に拓馬は人差し指で軽く触れた。


「私の子だもの」


 心底嬉しそうな拓馬は、どこか切ない表情も浮かべている。春の左手の薬指が拓馬には眩しくて仕方ないのだ。


「やっぱり、命は軽くて重かった?」


 赤ん坊から目を離し拓馬は春を見て聞いた。


「勿論」


 春は赤ん坊の柔らかい髪の毛を撫でる。不思議そうに見上げるわが子の瞳は何よりも美しい、と春は春風のように柔らかい微笑みを浮かべた。その二人の可憐さに母と子の絆を見出した拓馬は、この世にこれ以上守るべきものはないのだと実感する。


「でもね、すごく温かいの」


 春の言葉に拓馬は何も返答しない。ただ春の言葉を噛み締めて、春の幸せを心から祝福する。あの時自分のした行動は正しかったのだと拓馬は安堵した。二人は心底嬉しくて、なんだか泣きそうになった。拓馬はその泣き顔を春に見られたくなくて、持っていた帽子を深くかぶる。そして帽子の横に書いてある「南鉄工場」と言う文字を指さした。


 ニヤッと笑って拓馬は何も言わずに背を向けて歩き出す。春は嬉しくて堪らず、一滴涙を零した。色々聞きたいことがあったのに、なんだかもう、充分であった。

 拓馬の逞しい背中を見送って、そして春は柔らかいわが子の頭の匂いを嗅ぐ。


 この子は一体、どんな人生を歩むのだろう。どうか愛されたことを忘れずに、誰かに愛を渡せる人になって欲しい。そのために私は自分の命をも顧みず、何があってもこの子を愛し続けよう。

 そんな春の抱く想いは風に乗って、拓馬の元へ届く。

 キラリと一粒の光が、拓馬の目から流れ落ちた。


「生まれてきてくれて、ありがとう」


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オキナグサ 狐火 @loglog

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