喪失
春が自宅に帰ったのは次の日の夕方だった。坂口と過ごした時間はあっという間で、春は夢見心地のまま帰路を歩く。家の近くまで送ってくれた坂口と別れてから、これから家に拓馬がいる生活を送ることは許されないのだと春はようやく気が付いた。
拓馬との関係を坂口に話し、拓馬の引き取り手が見つかるまで家に置いておきたいと告げることは許されるだろうかと春は自問自答する。
鍵を鍵穴に刺すと鍵が開いていることに気が付いた。無我夢中で鍵を開けたまま出かけてしまったのだと春は自分を恥ずかしく思う。
「ただいま」
春はもやもやしたまま家の中に入った。異様に静かな部屋の様子で拓馬が寝ているかもしれないと思った春は静かに戸を閉める。忍び足でリビングに入ると布団は綺麗に畳んである。心なしか家の中が綺麗だと思ったその時、最悪な予測が春の脳を掠める。
「拓馬!?」
名前を呼んで家中探しても拓馬はどこにもいない。リビングにあるのは花瓶に活けられた花と整理整頓された物たちだけだった。拓馬の衣服はなくなっていて、拓馬がいた痕跡は何もない。
春は血相を変えて外へ飛び出す。
「拓馬!!」
辺りを探すも拓馬の姿はない。前に一緒に行った公園や川、スーパーやコンビニを探し回ったが、結局どこを探しても見つからない。
春はへなへなと地面に腰を下ろした。拓馬は自分の存在が私の恋愛において邪魔だと悟り出て行ってしまったのだ、と春は落胆し絶望感に襲われた。一緒に過ごした日々を思い出し、何故音沙汰もなくいなくなってしまうのだ、と拓馬を責め涙を流す。
もしかしたら入れ違いで家に帰って居るかもしれないと思い家に帰るが、やはり拓馬はいなかった。何故、どうしてと何度も思い返すが拓馬の取った行動が自分にとって都合の良い結果となってしまうことが、春は何より苦しかった。
また記憶喪失になって彷徨い歩いているかもしれないと春は一瞬不安になるが、部屋の綺麗さを見ると、拓馬は決心して出て行ったとしか思えない。
体育座りをして、春は拓馬のことを思い返す。ひもじい思いをしていないか、今頃どこにいるんだろうか、出て行くと分かっていたら少し位お金を持たせることだって出来たのに。そんな後悔ばかりが春の心を渦巻く。
ふと拓馬が置いて行った花に目が留まる。花の種類には詳しくない春はその花を画像検索し名前を調べた。
「イカリソウ?」
何か思い出があったかな、と思い返すが春には何も思い当たる節がない。その花を春はじっと見て、拓馬が帰って来るのをただ待っていた。拓馬がいなくなることを止める権利は自分にはないのだ、と春は暴走しようとする自分を宥める。
拓馬が出て行って一か月が経った。春の部屋に飾ってあるイカリソウは枯れてしまい、もしかしたら拓馬との出来事は全て夢だったのではないかと春は思い始めていた。
しかし仕事から帰宅し誰もいない部屋にただいまと告げる春は、もしかしたら返事が返ってくるかもしれないと心のどこかで思っていて、そんな自分を春は嘲笑った。
プルルルルとスマホから着信音が鳴り、春がスマホを取り出すと坂口からの電話だった。
『夜ご飯の食材を買いに近くまで来たんだけど、春の家に行ってもいいかな?』
最愛の人の声に安堵して春は笑みを零した。
『散らかっていてもいいなら』
『勿論』
春は少し散らかっている部屋を片付けながら拓馬との思い出を脳内で蘇らせていた。
――早く行きなよ、行動するなら早く。
(夢のように楽しかったあの頃を、今でも鮮明に思い出せる)
拓馬を思えば思うほど一か月という時が経ったにも関わらず涙が溢れてきそうで、これから恋人に会う自分には似合わない思考だと春は考えることを止めた。今まで自分に癒しを与えてくれた男を捨て、自分に正しい愛をくれる人を選んだ自分を春は忌み嫌う。
あの時拓馬を必死に探し出していたら、今頃どうなっていたのだろう。恋人が家に来る、そんな嬉しい出来事に冷汗をかく生活を送っていたのだろうか。今のこの生活が正解だ、そう春は自分に言い聞かせ、そしてチャイムの音に笑顔で反応した。
「相変わらず綺麗な部屋だね」
坂口はそう言って春の部屋に入って来る。
「ありがとう」
春は麦茶をコップに入れて坂口に差し出した。
坂口が買ってきた夜ご飯の食材を春は受け取る。
「これで夜ご飯作るね」
「いいのかい?」
喜ぶ坂口の仕事用のカバンを春は見てクスリと笑った。
「このバックを会社から持ち出しているってことは、仕事持ち帰って来たんでしょ」
春の予想に坂口は参ったなと言わんばかりの表情を浮かべて後頭部を掻いた。
「そうなんだよ。なんせ小説コンクールが僕の会社主催であってさ。僕がほとんど読まなきゃいけないんだ」
坂口はため息をつきながらカバンからパソコンと紙の束を取り出す。
「ウェブ応募してくる人もいれば原稿用紙に書いて送って来る人もいるから大荷物だよ」
どこか嬉しそうに困り顔を浮かべる坂口の頬に春はキスをして、台所に食材を持って行った。拓馬が居なくなってからも濃い味付けのままの春の手料理は、坂口から好評であった。
(この食材は、肉じゃがかな)
春は冷蔵庫に食材を入れながら思った。
「輝さん、肉じゃがでいい?」
台所から春は声を上げる。
「うん、そう思って買ってきた! 流石ハニー」
帰って来た返事に吹き出して、春はジャガイモを洗う。
春の夕飯の準備が出来て各々が風呂に入り、そして二人は食事を始めた。坂口の顔はどこか神妙で、坂口の脳内は仕事中のモードのようだったため、春は他愛もない話をするのを憚った。
「春、そういえばさ」
「うん」
坂口は顰めていた眉を穏やかにして顔を上げた。
「出会ったばかりの頃に僕に見せてくれた小説の作者さんと最近連絡とってる?」
春はドキッとして箸の動きを止めた。
「いや、全く」
「そっか」
なぜ坂口が自分にそんなことを聞くのかと、春はいろいろな憶測が脳内を飛び交う。
「なんで?」
春は持っていたご飯茶碗を机に置いて聞いた。
「いや、今読んでいる応募作品が春が見せてくれた小説の作者の書体に似ているし、雰囲気も似ているんだよね」
もしかしたら、拓馬の作品かもしれない。春は胸がかぁっと熱くなるのを感じた。
「その作品、なかなか良いんだけど多分僕の部長が気に入らないんだよね、こういうテイスト」
坂口ははぁっとため息をついた。
「何が気に入らないの?」
春は心を落ち着かせるために麦茶を飲んだ。
「例えば、作中にイカリソウっていう花が出てくるんだけど」
(イカリソウ?)
春は目を見開き坂口を見る。
「それの花言葉を勝手に『死にたくなったら思い出して』っていうことにしているんだ。本当は『旅立ち』とか『君を放さない』という意味なんだけど」
――死にたくなったら思い出して
それはあの時春が拓馬に言った言葉だった。
春は嬉しさと切なさに胸が締め付けられ、体の奥底からこみ上げてくる嗚咽を抑えようと口元を抑える。坂口に表情が見られないよう咄嗟に俯いた。
(嗚呼、私が渡した愛情は、貴方がくれた愛情でもあったんだね)
春の目から大粒の涙が溢れ出し、不規則的に春の肩は震えだす。
「え、どうしたの?」
坂口は慌てて春の隣に行き、体を抱きしめた。
(貴方が愛をくれたおかげで、私は今幸せになれたんだ)
坂口の肩に額を置いて、春は愛しい人の温もりを感じる。坂口は春の顎を軽く持ち上げ春の涙を拭った。坂口の心配を吹き飛ばそうと口角を上げるが、春の涙は止まらない。
(大丈夫だ、拓馬は絶対に生きる)
――俺の心配なんてしないで、幸せになって。
今はもうそばにいない拓馬の声が、春の耳には聞こえて来るような気がした。
春は坂口の首筋に顔を埋める。
「一緒に生きよう、何があっても」
(拓馬も私の心の中で一緒に生きてくれる)
坂口は戸惑いながらも小さく返事し、春の背中を摩る。春は坂口の首元から顔を離し、坂口を見た。
「愛しているよ」
突拍子のない春の言葉に優しく微笑む坂口は必要以上に詮索はしない。そんなところにも春は愛情を感じずにはいられなかった。
「僕も、愛しているよ」
大丈夫、幸せになれるよ。そう耳元で拓馬が呟いていてくれるような気がした。貴方と一緒で幸せだった、だからこれからも幸せなんだ。春はこれからの拓馬の人生の幸せを願い、そして愛しい自分の彼氏に最高の笑顔を見せるのだった。
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