早く行きなよ、行動するなら早く。
「ただいま」
春は小さな声で自分が帰宅したことを拓馬に伝える。
「おかえり」
拓馬はテレビを見ていたようで、顔だけ春に向ける。テレビを消して春の元に拓馬は駆け寄った。
「疲れたぁ」
拓馬の横を通る春の背中を拓馬は凝視する。リボンの結び方が変わっていないことを見て拓馬はほっとした。
「どうだった?」
リビングに座り込み、疲労感を見せる春に拓馬は聞いた。
「うーん、なかなか」
化粧落としとコットンを手に取って春は鏡の前に向かう。
「いい男だったわ」
前髪をピンで留めて春は化粧を落とし始めた。
「へぇ~」
化粧を落としすっきりとした顔をして春はフゥッとため息をつく。
「付き合うの?」
春は飲みなおそうと冷蔵庫からビールを取り出した。
「うーん」
プシュッといい音をさせてビールは開いた。
「告白はされたよ」
ビールを勢いよく飲む春。そしてぶはぁと息を吐き、机に缶を置いた。
「でも付き合うかは決めてない」
「なんで?」
頬杖をついて春は眉間に皺を寄せる。
「信用できないから」
「また浮気されるかもって?」
「うん」
拓馬はため息をついて春の隣に腰かけた。
「そうやって一生逃げて過ごすの?」
きっと春の性格上、好きでなければすぐに告白を断るだろう、だから告白の返事を待たせているということは、満更でもないのであろうと拓馬は容易に想像できた。
「それでもいいかなぁ」
自分の気も知らないで、と拓馬は現実逃避をする春に呆れる。
「それで、一体何が得られるの?」
「え?」
春は拓馬の言葉に驚いて拓馬を見た。
「一生元彼と過ごした日々を想って、ぐちぐちくだらないこと考えて生きていくのかって聞いてんの」
春は珍しく厳しい言葉を放つ拓馬を唖然と見ている。
「今日デートした人は春さんの何かを否定したの?」
春は坂口のことを思い出し、首を横に振った。
「だったら大丈夫。もしおかしいなって思ったら別れればいい。恋愛においての失敗なんていくらでも人を変えてやり直せるんだから」
そう簡単に言うなよ、と春は拓馬を睨む。
「でも踏みにじった人の心はどうやっても取り戻せない」
ハッとして、坂口が自分に告白してきたときの表情を春は思いだした。
「このままでいいの? 家に帰って他の男に、逃げて過ごしてもいいかなぁなんて話しているようじゃ、その人のことこれから先傷つけたりしない?」
何か覚悟を決めたかのような春の顔を見て、拓馬はもう自分が春の心の中に居場所がないことを悟る。
「早く行きなよ、行動するなら早く」
これから春の行動を想像して、咄嗟に拓馬は春から目を逸らす。
春は坂口の悲しげな表情を思い出す。自分の好きな人に自分の都合であんなに辛い想いをさせてしまった、そう思うと春はスマホを取り出し坂口にメールを送った。
「ちょっと、行ってくる!」
すっぴんであることを忘れて春は家を飛び出して行った。
春が居なくなった家で、拓馬は頭を抱える。
「俺何してんの?」
自分を嘲笑い、拓馬は鏡で情けない自分の顔を見る。春が残して言ったビールの缶を拓馬は持ち上げ、そしてそれを一口飲んだ。失恋の苦みが体中に染み渡る。きっと今自分の視界が潤んでいるのは苦いビールのせいだと拓馬は自分に言い聞かせた。
坂口に伝えたいことがあると連絡し春は急いで坂口の元へ向かう。教えてもらった最寄り駅に着くと坂口がこちらに駆け寄って来る。
「西田さん、どうしたんですか」
「ごめんなさい、急に来ちゃって」
「いえ、良いんです」
春は人通りの多いこの場所で告白するのは恥ずかしい、と辺りをキョロキョロと見渡しそして暗がりを見つけ坂口の腕を引っ張った。
坂口は春の誘導に抵抗せず黙って春に従った。
「さっきはすみません」
春は立ち止まるや否や坂口に頭を下げた。
「何に謝っているんです?」
坂口は春の言動と行動の理由が分からずにいた。
「告白してくださったのにあんな態度とってしまって」
顔を上げて春がそう言うと坂口は恥ずかしそうにそっぽを向いた。
「いや、こちらこそ急にあんなことを言って困らせてしまって」
「違うんです」
春は坂口に詰め寄る。すっぴんでも可愛いなと坂口は場違いなことを思っていた。
「私も貴方が好きで、でも昔付き合っていた人に裏切られたことがあって男性不信なんです。だからすぐに好きとは言い出せなくて」
春はそこまで言うと急に恥ずかしさに襲われて口を噤んだ。
「裏切られたんですか?」
坂口の問いに春は頷く。
「それで、男は浮気するなんて言っていたんですか?」
また春は頷いた。
「なるほど、貴方から感じる哀愁はそれが原因だったのですね」
坂口は優しく微笑み、春の頭に触れた。
「私、哀愁漂っていますか?」
春は苦笑いをした。
「ええ。でも悪口ではないですよ。たまに貴方から感じるどこか寂しそうな表情を、僕は最初から魅力的に思っていたんです」
坂口は春の後頭部に手を置き、春を抱き寄せた。
「僕は貴方のことが好きです。信用して、なんて軽率には言えないですが。それでも僕は貴方のことが好きです」
春は坂口の胸の中で、異様な安心感を得た。この人とならどこにでも行けるし何があっても大丈夫、それは気のせいかもしれないが、確かに春が感じた坂口から初めてもらった愛情だった。
「私も貴方が好きです」
涙が出そうなほど、春は嬉しかった。額を当てて二人は微笑みを交わす。触れた部分から感じるお互いの体温がお互いの心を芯から温めた。
「今夜は、家に来ませんか」
坂口は春の頬に触れながら言った。
「離したくないんです」
春は頷いて恥ずかしそうに笑みを浮かべる。
春の手を取って坂口は歩き出した。今にも混じり合いそうな二人は暗闇の中に消えていく。久しぶりの羞恥に春の心はふわふわと空に浮いている。その間、春は一瞬たりとも拓馬のことを思い出さなかった。
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