風邪をひいたらいけない。
少し汚い居酒屋で夕食を済ませ二人は最寄りの駅まで歩いていた。
「秋だから、月が綺麗だね」
坂口はそう言って空を見上げる。心地の良い温度の風を感じ、いつの間にか夏が終わろうとしていることに春は気がついた。
「そうね」
仲良く月を見上げて歩く二人は傍から見たら恋人同士に見える。けれど二人はまだお互いの気持ちを打ち明けていない。坂口は風で靡く黒髪を耳にかける春の横顔を見て、抑えきれない想いを伝える覚悟をした。
「西田さん」
今日待ち合わせ場所に使った噴水に辿り着いた時、坂口は春の名前を呼んだ。
「はい?」
噴水の前で足を止めた坂口を見て、春も足を止める。
「僕、貴方が好きです」
夜とはいえ噴水前には待ち合わせに使う人が数人いて、坂口をチラチラと見ている。しかし坂口はその視線には気が付いていない。ただ真っすぐに春を見ていた。春は周りからの視線を感じ羞恥心から坂口から目を逸らしてしまう。
「でもまだお互いのことを知れていないし、きっと返事しづらいと思うので」
春の反応に悲しげな表情を浮かべ坂口は言葉に詰まりながらも、懸命に春に自分の想いを伝えた。
「また今日みたいに、僕とデートしてもらえますか」
私も貴方が好きだと、春は坂口に伝えたかった。しかし何故か声が出ない。頷いて坂口を上目遣いで見ることが精一杯だった。
「良かった」
坂口は嬉しそうに微笑み、春は今すぐにでもその頬に自分の頬を近づけて耳元で好きだと囁きたかった。しかし過去の出来事が坂口と関係を築くことを春に回避させようと、春の中でトラウマとなった記憶を鮮明にさせる。
「じゃあ今度はいつデートします?」
意気揚々と坂口はスマホの予定帳を開いた。
「土日なら、いつでも」
「明日は?」
「あ、明日?」
「ダメですか?」
大体この流れなら来週の土曜日にするだろうと春は予想していたため、驚いて聞き返した。ダメですかと聞かれると、断ることが申し訳なく感じてしまうのは春の悪いところだ。
「特に、用事はないです」
「じゃあ明日は水族館なんてどうです?」
春は坂口の勢いに顔を引きつらせながらも、明日も坂口に会えることが内心嬉しくて仕方ない。
「楽しみです」
笑顔で答える春の表情を見て坂口は安堵の表情を浮かべる。
「良かった」
「え?」
坂口の言葉に引っ掛かりを覚え春は首を傾げる。
「僕、嫌われていたらどうしようかと思って」
「そんなわけないです、好き……」
そう言いかけて春はハッとして言葉を止めた。
「え?」
坂口は春の顔を覗き込む。
「いや、なんでもないです」
パッと顔を坂口から春は顔を背ける。坂口の好意を受け取り関係を築く勇気はまだ春にはない。
「西田さんのお家まで、僕送っていきます」
坂口はそう言って歩き出した。
「明日もここに10時待ち合わせで良いですか?」
隣に並んだ春に坂口は聞いた。
「はい、大丈夫です」
「僕水族館、好きなんだよね~」
シリアスな雰囲気は一気に崩れ、坂口の敬語もなくなった。
「西田さんは行きたい所とかない?」
他愛もない話は尽きず、二人は春の家の近くまで会話を続けた。
「送ってくれてありがとう」
家がすぐそこになった時、春はぴたりと足を止めた。
「家、此処なの?」
「もう少し先にあるよ。でもここで大丈夫」
「そっか」
坂口は春と向かい合い、何かを言いたげな表情を浮かべた。
「明日も、ここまで来ようかな」
「え?」
「よく考えたら水族館に行くには、噴水前じゃ遠回りなんだよね」
ポケットに手を突っ込み坂口は言った。
「だから10時にここで待ってる。こんな時間まで連れまわしちゃったし、眠かったら10時過ぎても良いからね」
優しい口調の坂口に、自分は大切にされていると春は感じてしまう。
「う、うん、ありがとう」
春は微笑んで俯いた。沈黙が、二人の時間を伸ばそうと空気を重くする。坂口は遠慮がちに春に近づいた。そしてゆっくりと春の頬に右手を伸ばす。
春は目線を上げて坂口を見つめた。坂口の右手のひらが春の輪郭を包み、親指で春の頬を撫でる。交わる視線が熱を帯びて、春の身体は熱くて仕方ない。
この体温を伝えたくてもっと一緒に熱くなりたくて、春の心より奥が痛んだ。じわじわと久しぶりに感じる欲に、二人で浸かっていたくて、溺れていたくてしょうがない。
熱っぽい春の眼差しと体温に坂口は気が付き、自分の中のメラメラと沸き立つ情熱が激しさを増すのを感じた。己の欲求がコントロールできなくなってはいけない、と坂口は春の頬から手を離す。
「風邪をひいたらいけない。帰りましょう」
こんないい天気で気持ちの良い風の吹く日に一体何を言っているんだ、と春は思わず笑みを零した。
「そうですね。明日もまた会えますし」
坂口は春に一礼した。
「では、また明日」
「はい、また明日」
歩き出す坂口の後ろ姿を春は見送る。一度だけ坂口は春を振り返り、春が自分を見送ってくれている嬉しさに笑顔が綻び手を振った。春は手を振り返し坂口が見えなくなると自宅へと入った。
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