昼を待つ夢に

桜葉櫁和

秋雨と冬時雨の街

 恋人達の謳歌する日を控えたある日、丸ノ内の煉瓦駅舎に一人の男がいた。粉雪が舞うオフィス街を横目に彼、凪原善和は外套一枚羽織ってある女性を待っていた。三十路を駆ける彼は、社会人になって付き合えた試しがない。彼は学生時代に唯一付き合っていたその彼女を待っていた。

 高校時代は楽しかった。多少の悪戯はしたし、僅かながら二月の贈り物も貰っていた。正しく青春を謳歌していた彼を支えた唯一の女性、静宮本香とはそこで出逢った。初登校の日に彼女を目にして、彼は自分の鼓動が高鳴るのを感じた。抑えられない想い、彼は彼女に一目惚れした。最初は実る訳が無かった。だが時が流れていって彼女との壁も無くなり、一年半後には互いに手を重ねていた。だが受験、就職活動が本格化してしまい、二人は互いの未来の為、別の道に分かれることを選んだ。だが、別れても一年に一回は顔を合わせるようにしていた。都合が良ければもっと、酷いときは一週間おきに会っていた。実際、卒業してもそれを実感したことは早々無かった。

 だがそれぞれに歩み別れて十年も経てば、二人だけの時間は徐々に削られていった。そして一年前に彼女が札幌に行ってしまうことが決まって以降は、お互い遠慮してか会う約束もパッタリと切れていた。彼女の旅立ちに立ちあえれなかった後悔を胸に抱きながらも、季節は一巡し、先月、久々に会おうと彼女側から提案が来た。

 場所は東京駅丸ノ内改札を出たスグのドームの下。久々の約束に思い上がった彼は二つ返事で了承し、東海道を飛んで遥々東京までやって来ていた。今となっては出費が異常に嵩んだので、来なければ良かったと後悔している。

 待ち合わせの日まで待ちきれず、一昨日に自宅を空けた。伏見の駅からJRを乗り継いだ。だが出発が遅かったからか、それとも新幹線代をケチったからか…。ともかく鈍行で静岡の清水までは来れた。ただそこから先はもう終わっており、仕方なく港の近くの空いてた宿に一泊した。そして目覚めの朝日に清水港、松原に富士の高嶺と、彼は目覚めから駿河の美しさに心を打たれた。ただ彼は東京に向かう道中である。離れがたさを胸に、朝日の照らす清水の街を後に、先を急いだ。途中、伊豆の湯船に身体を洗い、相模湾に心を洗われ、正午過ぎに多摩川を越えた。

 流石に今からずっと立ってても不審者に間違われては困るので、丸ノ内を越えて上野・浅草・湯島・神田と巡った。特に東京に久しく縁の無かった彼にとっては、墨田の摩天楼は未だに強く、脳裏に鮮明に焼き付いている。

 そうした東京観光を、本郷の宿に泊まる形で締めくくった。そんなこんなで東海道を駆けた彼は、日も南を越えた十二時過ぎに丸ノ内に到着した。十数年ぶりのオフィス街に圧倒されたのが、彼の丸ノ内に到着しての初発の感想だろう。更に黒が霞んだ雪雲、粉雪に飾られた大手町に、清水に似た感動を再び覚えた。

 その感傷的な気持ちを抱き、彼は一人丸ノ内に立っていた。彼女が大宮・羽田・成田のどれかから来るかは分からない。ホームで出迎えたい気持ちを必死に堪えて、寒空を煉瓦造りの中で過ごしていた。

 約束した十三時まであと何分だろう。小学生のようにははしゃがなかったが、それぐらいの弾んだ気持ちに影が差した。

「お客様にお知らせします。東北新幹線は東北地区大雪の為、速度を落として運転しております。その為、列車到着時刻が…」

 そんな…。それじゃ、十三時に来れないんじゃ…。浮かれた気持ちは徐々に焦り、そして冷静と化した。

 彼が東海道を駆けたように、疾風の如く時間は去った。時計は既に十四時を過ぎ、東北新幹線も遂に運休となった。もう帰ろう。そう思って青春18きっぷを手にした、その時だった。

「ハッハッハッハッ。あっいたいた。お~いよしかず~。」

 微かだったが、確かに彼を呼ぶ声が聞こえた。懐かしくも未知のような、そんな感じがした。顔を上げた先に、彼女は駆けた様子で現れた。


「本香。」

 微笑んで彼女の呼びかけに応じた。何年ぶりだろうか、凄く時が流れたように感じた。実際には二年も経っていないし、ここに立っていたのも精々二時間半程度だ。なのにとても長い月日が流れたかのように感じれた。これ程までに待ち焦がれたのには、彼にまだ、彼女への未練があるからなのだろうか。

「待った?」

「二時間くらいかな。」

「そんなに!?ゴメンゴメン、呼び出したクセに遅刻しちゃって。」

「俺も昔そんなだったし、気にしてないよ。それより、寒くないの?」

「寒くない、って言ったら嘘になるけど、北海道に慣れちゃったから、そこまで。」

「…。そうか。」

 正直言って、彼は物凄く寒く感じていた。それを物ともしない彼女に、気持ち悪がる半面、畏ろしさを抱いていた。

 丸ノ内から大手町へ渡り、適当な喫茶店に入った。染々とした趣深い明るさに感銘したから、が選んだ理由だそうだ。こう言った所が適当であるのは、流石彼であると思う。

 店員がオーダーを取りに来た。昼飯がまだの彼は小倉トーストとコーヒーを頼んだ。ただ彼女は駅弁を食べたらしく、紅茶だけを頼んだ。

「…、懐かしいね。」

「…。そうだな。」

 昔、青春18きっぷで北海道に行ったことを思い出した。真冬で大雪の最中に、半月もかけて北海道を乗り回した。今となっては懐かしい話だが、当時は大の旅好きだった彼が彼女を連れ出して、彼女も旅のトリコにさせた。それ以来、二人で遠出することが増えた気がする。

 あの時は日本海回りで青森を目指したが、青森まであと一歩の弘前で足止めを食らった。仕方なく、まだ生きてた五能線に乗ったが、スグに五所川原で降ろされ宛先もなくうろついてた時に、昔ながらの雰囲気の喫茶店を見つけた。入店して席に着き、メニューが珈琲一択と、紅茶脳の彼女には厳しかったが、出る頃には彼・彼女共に気に入っていた。今では彼女も克服して足繁く通っているらしい。

 そう回想していると、注文の品が届いた。焼きたて、湯気も薄らに立つトーストに、バターと餡を塗る。食べる前から既に美味しさが彼の脳を駆けた。塗りたくって、遂に頬張った。トーストの香ばしさ、小倉の甘さ、そしてバターの塩味が舌を刺激する。広がり駆けた香りが、更に彩る。

「美味しい。」

 食いながら喋るのははしたないと、心の中で呟いた。すると顔に出ていたのか、彼女は微笑んだ。

「ホント、善和は幸せそうに食べるね。」

「そうか?ん~。だけど、行儀悪く食うよりかは良いでしょ。」

「ふふっ、そうね。」

 後から思い返してだが、この時の話は少しずれてないか?まぁ自問自答にしか思えないが。

 コーヒーを流し込みながらだったので薄らだったが、彼女は笑っていたように見えた。

「そう言えば、ここまでどうやって来た?」

 久々に旅人が宿った彼にとっては、気になってしょうがなかった。

「昨日にはもう家は空けて、それから新幹線で仙台に行って一泊。そこからは常磐回りで。」

「ひたちか、」

 久々にその名前を口にした。常磐線という名前自体も、二十数年前に東京にいた時ぶりだった。

「ま、仙台で降りたのはあの弁当を求めて、だけど。」

「温かい牛タン?」

「もちろん!柔らかくて、噛めば噛む程美味しさが滲んできて…。」

 流石、牛タンを求めて仙台に通っただけある。その牛タン話を肴に、彼はトーストを頬張る。そしてランチも終わり、話が弾んだ。

「北海道の生活には慣れたか?」

「なんとか。でも、今でもまだ雪ではしゃいじゃうけど。」

 瀬戸人の彼達のとって、雪程珍しいものは無い。はしゃぐのも致し方ないと彼は賛同した。

「そう言えば、手紙読んでて気付いたけど…、」

 彼は彼女が北海道に飛んでから、手紙でやりとりするようにしていた。その中に、彼に引っかかる節があった。

「そう。今でもドクドクしてる感じがするの。」

 お腹を摩る。まだ出てはないが、彼女は身籠もっていた。

「まさか本香が結婚なんてな。思いもしなかったし、最初は信じられなかったよ。」

「私も。意外だったし、今でも夢なんじゃって思ってる。」

「それなのに俺とはこうして会ってて…。見られてないよな。」

 冗談交じりに、彼は辺りを注視する。

「やめてよ~。」

 彼女も満更でもなさそうだ。

「冗談だよ。でも、札幌で嫁入りなんてな。」

「それもそうだし、彼のことも考えると、今後も当分手紙かな?」

「そうだよな。はぁ~、俺も早く嫁見つけねぇとな~。」

 半笑いで彼は言った。

「ごめんね。昔は真面目に考えてくれてたのに、こんな形になって。」

「え?別に謝ることじゃないよ。それに今はめでたいこと尽くしなんだし、前向いていようよ。」

 彼女に差した陰りに、彼は気づけなかった。

 不意に彼は時計を見た。針は16時半を指そうとしていた。

「もう4時半か。」

「どうしたの?」

「いや、一応今日沼津に宿を取ってるんだけど、そこがどうも夕日が綺麗らしくて、それを拝めたらな~なんて…。」

「それならもう出た方が良いんじゃない?」

「だけど、もうこれじゃ間に合わないし…。」

 ポケットに忍ばせた18きっぷに目をやる。3日目の所にもう印は入れてもらったのでスグに使えるが、今から東海道線を下っても、早くて19時ぐらいだろう。

「そうなのね。それじゃぁ…。」

 そうして彼女は鞄の中を探した。

「はいっ!楽しんでね。」

 そうして彼女は彼に手渡した。

「え?」

 彼は仰天して固まった。無理もない。貧乏な彼の手には、久しぶりに拝む一万円札があった。

「ほら、今まで色んなところに行って、色々肩代わりしてくれたでしょ?そのお礼って言ったら少ないけど…、受け取って。」

「いやちょっとそれは…。」

 口籠もってしまう。確かに、折角なら見たいし、見させたい彼女の気持ちも彼は分かっていた。ただもう二度と彼女と逢えなくなるかもと思っている彼にとって、彼女にこれを返せることはできるのかと疑問であった。

「俺の今じゃ、このお金も受け取れないよ…。」

「うーん。でも、悩んでたら見れないでしょ?」

「そうだよなぁ…。」

「あぁもう!考えるの止めた!行くよ!」

「え?でも…。」

「いいからいいから。」

 そうして彼は、彼女に引き連れられて東京駅に向かった。

「はいっ!楽しんでね!」

 彼女は手際よく発券した。五分後の始発こだま号。

「本当に、良いんだな?」

「そりゃ勿論。しかも彼から沢山貰ってるし。」

「おいおい。相手さんに嫌われるなよ。」

「大丈夫。それじゃぁ、今日はこの辺で。」

「おう、それじゃ。」

 日本橋を、丸の内を、そして彼女、静宮本香を名残惜しく、八重洲に吸い込まれる…、ところだった。惜しさに振り向いた彼、凪原は涙を呑む彼女が目に留まった。改札の列を押しのけ、次には彼女を抱き占めていた。

「…、もう。恥ずかしいよう…。」

 紅潮する彼女を胸に、彼は呟いた。

「ありがとな、今日は。いつかこの恩は返すよ。待っててな。今日は楽しかったよ。俺の分まで、幸せになれよ。」

 彼女は涙を伝えながらも、頷いた。彼も未練や愛しさ、悲しさに涙を堪えた。

「それじゃ、また。」

「うん。またね。」

 そう言って彼は八重洲を駆けた。


 寸前の所で、彼はこだま号に飛び乗った。言いたいこと、喋りたいこと、全て達成できて満足していた。さて、しばしの旅を楽しむか。そうして彼は席に着いた。

 多摩川を越えて、丹那を潜り、三島で乗り継ぎ、沼津に着いた。ギリギリ陽はまだ残っていた。バスにのり、彼は宿を目指した。市街地を抜け、バスは海を沿う。丁度陽が富士の稜線に重なり、煌めいていた。

 三津の街に入り、彼は降りた。そして三津の一角にある旅館で一夜を明かした。

 翌朝、彼はおもむろに旅館前の浜に来ていた。遠くの富士、そして海に浮かぶ淡島が望める絶好の海岸だが、誰一人いなかった。彼は昨日、彼女のことを考えていた。彼には涙の意味も、そして彼女の望むことも分からなかった。ただ一つ、お金と恩は返そうと思った。


 それから年は明け、季節も一巡しかけた10月末、遂に彼は一万円を貯めれた。直接逢って渡したいところだが、あれ以来一度も逢っていない。更には手紙も滞っている。バイト尽くめの彼にとって、手紙と向き合う時間が惜しかったからだ。

 兎にも角にも、手紙を綴ってから、と彼は久々に筆を手にした。ありきたりなことを綴り、お金の件もしっかり記した。宛先・封筒に関しても十二分に確認して、二通を札幌に送り出した。

 状況が分かったのは、それから六日経ってからだった。郵便受けに先日送った封筒と、新たに一つ、封が届いていた。そしてそれに目を通し、彼は絶句した。

 ―お手紙、拝読させて頂きました。妻との手紙に首を突っ込んでしまい、申し訳ありません。静宮の夫です。

 単刀直入で申し訳ございませんが、妻は昨年旅立ってしまいました。東京帰りに足を滑らせ、常磐線に轢かれ、帰らぬ人となってしまいました。妻への手紙ということで躊躇っていましたが、一度読ませて頂き、返事を書かせて頂いた次第でございます。お手紙、お包み共に勝手ながらご返却致します。妻の私事に介入したことに深くお詫び申し上げます。―

 大凡こんな内容だった。読み終わりを迎える前に、彼は涙で手紙どころでは無くなっていった。知らぬ間に膝から崩れ落ち、眼は腫れ、頭を机に打っていた。溢れた秋雨は長く空を覆い、その後も無情に降りしきった。

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