病原菌。

透真もぐら

ウイルスを超えて




 朝、目覚まし時計の音だけを頼りに目を覚ます。鳥のさえずりが聞こえ、一瞬だけ僕は動きを止めた。カーテンを開けて外を見る。

 朝日が僕の顔に降りかかる。光に慣らすように目を開けると案の定、小鳥が一匹そこにはいた。


 僕は気分を良くしたまま顔を洗い、ご飯を食べ、歯を磨いた。


 そして、マスクを着て僕は外に出る。


 やっぱり今日は良い天気だと空を見上げ僕は静かに目を細めた。僕は辺りを見渡した。


 人影は見る限りどこにもない。

 だからこそ、僕にとっては見慣れた光景だと言えるだろう。

 




 世界各地でウイルスが流行り、あっという間にパンデミックを引き起こしたのが5年前。


 世界中で多数の犠牲者を出しながら拡大の意図を辿ったそのウイルスは今もまだ解決していない。


 しかし、死者数など被害は大きく縮小した。


 その理由の一つは、今僕が着ているようにウイルスを完全に遮断する着るマスクが開発されたこと。そして…


「牧本くん。おはようございます。」


 僕は声の鳴る方へ振り返る。マスクが邪魔をして首が思うように曲がらないので僕は体ごとその方向へ向ける。


 そこにいたのは、先月新しく入ってきた川村さんだった。


「あ、おはようございます。」


 彼女は黒く美しい髪を靡かせながら僕を追い越していく。太陽の光を反射した黒髪がさらさらと風に流れる。


 もう一つの理由、それは彼女のようにウイルスへの免疫を持つよう進化した新人類が現れたことだった。

 もっとも僕は新人類とやらを川村さんしか知らないが…いや。



 ただ、今はそんなことどうだっていいのだ。

 川村さん、僕は彼女が好きだ。





 僕が明確に彼女のことを意識するようになったのは今から4週間前のこと、当時就職したてで迷子になっていた彼女を僕が助けたときのことだった。

 彼女は僕に対して躊躇いもなくただ"ありがとう"と言ってくれたのだ。


 その瞬間、僕の脳内には電流の如き恋の稲妻が迸ったのだ。


 ただ感謝の気持ちを述べられただけでなぜ恋に落ちてしまったのか。それは僕にもわからない。

 強いて言えば僕は今まで人にあまり干渉せずに生きていた、よって人に感謝されること、ましてや感謝の言葉を向けられることなどなかったのである。


 言ってしまえば彼女は僕に今まで経験したことのない新しい感情をありがとうという言葉で教えてくれたのだ。


 僕は今でも当時のことを考えると顔がにやけてしまう。


 佐藤さんが僕からの視線に気づいたのかこちらをちらりと見たあと、苦虫を噛み潰したかのような顔で作業に戻る。どうやら僕は彼から嫌われているようだ。


「牧本くん、こんにちわ。」


「こんにちわ、川村さん。」


 思えば僕は佐藤さんだけでなく他のみんなからも嫌われている気がする。そんな中でも彼女だけは僕に挨拶をしてくれる。

 彼女から挨拶されるたびに僕の心は舞い上がるのだから、これはもう完全に恋の奴隷というやつなのだ。


 その瞬間、ぐっーという音が僕と川村さんの間に流れた。それは紛れもない僕のお腹の音だった。


「お腹が減ったんですね?牧本くん。食堂に行きましょうか。」


「あ、はい。」


 今日はなんて素晴らしい日なんだろう。川村さんに2回も声をかけてもらっただけじゃなくて一緒にご飯を食べることができるなんて。


 僕たちは食堂へ向かう。僕のようなマスクを着なきゃ死んでしまう人たちはご飯を食べるのも一苦労だ。


 僕は窓のない白い部屋の中に入る。その部屋の真ん中にある白いテーブルの上にはご飯が用意されている。僕はマスクを脱ぎ、ご飯を食べ、マスクを着て部屋から出るのだ。


 味気ない普段の食事風景だが今日は川村さんがいる。僕は自然と口が緩み心なしか歩調も軽やかになってしまう。部屋の前に立つ。

 僕は扉を開け部屋の中に入る。


 すると隣にいた川村さんがいないことに気づいた、僕は川村を見上げるように振り向いた。


 彼女は入り口に立っていた。彼女はマスクなしでも生活できる新人類だ。僕と一緒に食べてもウイルスは発症しないはずなのだが。


「川村さん、ご飯食べないの?」


「私はお腹すいてないから。牧本くんだけ食べてください。じゃまたあとで。」


 僕は一緒に食堂まで来ておいてそれはないんじゃないか、と思ったけれど、きっと彼女には彼女なりの生活習慣というやつがあるのかもしれない。


 僕はさして美味しくもないスープを口に流し込んだ。


 ご飯を食べ終えた僕はマスクを着てみんなが仕事をしている場所に戻る。


 部屋に入ると鈴木さんがいた。


 そこには鈴木さんしかおらず、どうやらみんなご飯を食べに行っているみたいだ。


 鈴木さんは、僕を一瞥し、一瞬嫌そうな顔をしたが、すぐに笑顔になり、僕のもとへ話しかけてきた。 


「牧本くん、お疲れ様。午後からも頑張ろうか。」


 僕は午前から引き続き、作業に戻る。

 作業といっても簡単だ。ベッドに寝そべってマスクの中にチューブを入れ、あとは何もしなくていいのだ。

 寝ながら作業ができるなんて、僕はとてもついているだろう。


 僕は川村さんについて考える。


 4週間前は川村さんのかの字もなかったのに今は僕の頭は川村さんのことでいっぱいである。自分はここまで盲信癖があるのかと参ってはいるものの、なかなかどうして僕の頭の中の川村さんは住み着いたまま離れてはくれないのだ。


 つと鈴木さんを見る。鈴木さんはパソコンのモニターを前に眉間にシワを寄せ、何やらうんうんと唸っている。


 昔、といっても最近の話なのだが、僕は鈴木さんに何をしているのか聞いたことがある。


 本当は佐藤さんに聞こうと思っていたのだが、言った通り彼は僕のことをあまり気にいっていないみたいだから鈴木さんに聞いたのだ。そのとき、鈴木さんはなんで言ったんだっけ。


「この国を救う仕事だよ。」


 確かそう鈴木さんは言っていた。 


 僕は鈴木さんには虚言癖があるのかと本気で疑ったものだが、さすがに年上の女性にそんなことは言えないのでその言葉は今も心の中にしまっている。

 第一、鈴木さんはどこもおかしい様子はない。至ってまともな部類の人間だろう。だからこそ僕は尚更彼女の言葉の真意を掴みあぐねている。


 鈴木さんのことを考えていると、部屋の中にマスクを着た男が入ってきた。福井さんだった。


「鈴木さん、昼休憩とってきていいっすよ。俺はもう済ましてきましたんで。」


「あら、そう。助かるわ。」


 僕は福井さんと目が合う。福井さんは川村さんの次に優しい。彼は僕に笑いかける。


「牧本くん、お疲れ様。」


「お疲れ様です。福井さん。」


 彼は鈴木さんが先ほどまで座っていたモニターの前の席に座り、作業を続ける。


 何も変わらないいつもの日々だ。


 僕は少しばかり退屈になったので、一眠りすることにした。




 目が覚めると、作業をしていた福井さんはいなくなっていた。そこに変わりに座っていたのは川村さんだった。


「あら、こんばんわ。牧本くん。」


「あ、こんばんわ。」


 川村さんはこちらに視線を配らせ優しく笑いかけたあと、作業に戻った。 


「すいません、川村さん。今何時ですか?」


「今はちょうど8時になったところですね。」


 川村さんは作業の手を止め腕時計を見る。彼女は左ききというやつらしく、右の方の手に腕時計を巻いていた。


 どうやら僕は長い時間眠ってしまっていたらしい。


「僕、トイレ行ってきます。」


「あ、はい。いってらっしゃい。」


 僕は部屋から出る。そのとき、ふと思った。


 この建物には窓がないのだ。いや、この部屋どころか僕の寝室にだって窓はないのだ。建物としてこれはいささか不思議ではないだろうか。


 僕は少し考えたが、頭にもやがかかったようにうまく動いてくれない。僕は頭の出来があまり良くないのだ。このせいで今まで苦労してきた。強烈な尿意を感じたので僕は急いでトイレへ向かった。


 用を済ませ部屋に戻ると佐藤さんに鈴木さん、福井さんも集まっていた。


「今日は東北地方がひどい被害にあったらしい。」


「北海道はもう完全にロシアのものになってしまいましたからね。」


「いっそのこと手を組んだらいいのにな。そしたら資金がこっちに回ってくるかもしれない。」


 何やら難しい話をしているようだ。


「それにしてもあのウイルスのせいでまさか戦争まで始まるなんてね。5年前は想像もしてなかったわよね。」


「あのウイルスは多くのものを奪いました。労力も動物も文明も、そして倫理観も。戦争を予期していた学者もたくさんいたっすもんね。」


「でもそのおかげでこっちは食っていける。ありがたい話だ。」


 佐藤さんはそう言って顎を撫でた。


 顎を撫でた?僕は彼らがマスクをつけていないことに気づいた。


 あれ?マスクを着ていないとどうなるんだっけ?思考がうまくまわらない。

 窓の件といい、今日は僕の頭の問題というよりも、単純に疲れているのかも知れない。


 僕は彼らの話に割って入るように「こんにちわ。」と言った。


 4人は一斉にこちらを向く。


 その目はひどく冷たく、まるで物を見るような目だった。だから僕は自分が人ではなく物なのではないかと錯覚してしまう。ああ、今日僕は怖い夢を見てしまうかも知れない。


 束の間、川村さんはニコリと笑い僕の元へ向かってくる。やっぱり川村さんは優しい。

 誰よりも僕のことを考えてくれている。


「牧本くん、今日はお疲れ様。今日はもう帰っていいらしいから、帰りましょうか。」


「はい、わかりました。」


 いつもはもうちょっと時間がかかるのに。

 今日はどうしたのだろうか?


 とはいえ早々に帰ることができるのはありがたいので川村さんに従うことにした。


「じゃあ行きましょう。」

 彼女は僕の前を歩き出した。


 僕の家はみんなが働いている建物の敷地内にある。そして四人とも僕の家の場所は知っているらしい。


 僕は川村さんを見る。


 川村さんを見ると僕の心はどうしようもなく落ち着かない。

 僕は彼女に話題を振るためにもう一度彼女をよく見ることにした。もちろん、彼女にバレないようにそっとだ。


 こういう時にマスクは本当に便利だ。


 僕は彼女が毎日、同じペンダントをつけていることに気づいた。それは鈍色に光る精巧な作りのロケットペンダントだった。


「川村さん、そのペンダントいっつもつけてるけど、何?」


 すると、川村さんはハッとしたようにそのペンダントを触り、こちらを見る。


「これは前に兄さんからもらった大切なものなんです。これを見ると今日も頑張ろうって気持ちになるんですよ。」


 川村さんにはお兄さんがいたのか。と僕はその時初めて知った彼女の情報を頭の中で反芻した。


「牧本くんは、兄妹とかいないんですか?」


「僕は…」

 あれ?僕はそのとき不思議な感覚に襲われた。何か忘れているような、そんな感じだ。


「…くん?牧本くん!」

 彼女が僕の方を向いていた。


「どうしたんですか?急に黙っちゃって」


「いや、なんでもないです。」


 彼女が僕の方を向いてくれたことが嬉しくて、僕は今まで何を思っていたのかすら忘れてしまった。

 ずっとこの時間が続けばいいのにと僕は本気でそう考えていた。




 とうとう川村さんは僕の家の前まで来た。こんなことは初めてだ。本当に今日はなんて素晴らしい日なんだろう。


 川村さんは僕の方を振り返り、小さく手をあげる。


「じゃあさよなら。」

 そう言って帰ろうとする彼女の後ろ姿に僕は思わず声をかける。


「か、川村さん!僕の家に来ませんか?僕は家の中ならマスクを脱げますし。それに、僕、川村さんと手が繋ぎたいです!」


 自分で自分の言葉に驚いた。なんで幼稚な言葉なんだろう。僕は恐る恐る彼女の顔を伺った。



 川村さんは笑っているような、泣いているような、そして起こっているような、そんな顔をしていた。



「ごめんね、それはできないんだ。」


「………わかり、ました。」


「また今度、遊びに行くよ。」

 そう言って彼女は行ってしまった。


 見えなくなるまで彼女の姿を僕はみていた。



「さよなら川村さん。」

 僕のか細い声は夜に吸い込まれていった。




 


 ☆


「ただいま戻りました。」


 私が声をかけると福井が声をかけてきた。

「お疲れ、様子はどうでしたか?」


「至っていつも通りでした。念のため思考を妨げる薬を昼食の中に入れておきました。」


 私は消毒スプレーを体に吹きかけ部屋の中に入る。


「ついにこの実験も佳境ですね。」


「ああ、この実験が成功すれば俺たち四人は国を救った英雄だぞ。」


 佐藤が高笑いを始める。

 福井は彼を嗜めるように視線を動かす。


「にしても、政府はひどいこと考えますね。子供を殺戮兵器として戦地に送り込むだなんて。」


 彼は少し申し訳なさそうにそう言うと、引き出しから軽食のゼリーを出し口に咥えた。


 彼の言葉に鈴木が続く。その声は暗い。


「あれを子供だなんて思わない方がいいわよ。生まれたときから体内の中で生まれたウイルスを世界中にばら撒き続けた張本人なんだから。生まれながらの殺戮兵器よ。あなただってあのウイルスのせいで家族を亡くしたんでしょ?」


「ええ、まあ。でも彼を見てると少し大人びた様子はあるものの、やっぱり普通の5歳児に見えてしまって。」


 福井はベテランだが、この研究施設にはまだ入ったばかりだからか、少し甘い考え方をする。私は彼を睨む。


「だからと言って、彼を放っておいたらまたたくさんの人が死にます。今だって、誤魔化して隔離型スーツを着せて、最新の注意を払ってなんとか感染しないようにしているんです。今後も決して彼を子供だからと甘やかさないように。」


「はい主任。それは十分わかっています。」


 福井は私にそう言うと飲んでいたゼリーを飲み干し、止めていた作業の手を動かし出した。 


「それよりも、主任はすごいですね。」


 鈴木が私に声をかけてきた。


「何が?」


「隔離型スーツを着ないでアレと接するなんて、すごい勇気があるって話ですよ。もしもアレが着てるスーツに不備があったらそれだけで死んじゃうんですよ?」


「私はこのスーツを信じている。それだけだ。」


 私は胸元のロケットペンダントに触る。開くと中には私と兄さんの写真が入っている。


 隔離型スーツを作ったのは私の兄だ。


 兄さんはあのウイルスのせいで死んだ。とても優秀な人で私の憧れの存在だった。だからこそ。


 だからこそ私は軍に入った。

 この手であの化け物を殺し、兄さんの仇を打つために。それが今は戦争のための兵器として彼の身に何も起こらないよう優しく振る舞っている。


「皮肉な話だ。」


「なんか言いましたか?」


 私が呟いた声に鈴木が反応する。


「いや、何でもないですよ。」


 私はきっと近い将来あの化け物を殺すだろう。そのためにも早くこの実験を成功させ、政府から彼を殺す許可を貰わなければいけない。


 焦燥に近い感情が私を覆う。今日はもう疲れた。


「すみませんが、少しばかり仮眠をとらせてもらいます。」


 私はそう言って部屋から出て自分の寝室に向かう。あの化け物の嬉しそうな声が頭の中に流れる。


「おやすみ、牧本くん。」


 寝室まで向かう廊下。蛍光灯がチカチカと揺れていた。私の顔を光が照らす。


 羽音がした。


 私は目を閉じた。




 おやすみ、牧本くん。

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病原菌。 透真もぐら @Mogra316

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