英雄の条件
棗颯介
英雄の条件
僕が
でも、その人が僕にとって英雄であるということは覆しようのない事実で、僕はずっとあの人みたいな英雄になりたいと思って生きてきた。
僕が幼かった頃、母親と一緒に手を繋いで横断歩道を渡っていた僕たち親子は、右折してきたトラックに撥ねられそうになった。その間際、僕たち二人を突き飛ばして事故から守ってくれた若い男の人がいたらしい。
その人は僕たちの代わりにトラックに撥ねられて即死。現場に居合わせた僕たち二人も警察の事情聴取を受けたけど、見知らぬ親子を救った一人の英雄がいたという事実は新聞の隅の小さな欄に記録として残されただけで、世間の人たちの記憶からはあっという間に消え去っていった。
僕はあまり覚えていないけれど、父さんと母さんはその人の遺族に何度も頭を下げたらしい。『ありがとうございます』と『ごめんなさい』を何度も何度も繰り返しながら。子供ながらに、僕たちのせいであの人が死んでしまったという罪悪感を抱いたことは、なんとなく覚えている。
今年で僕も十九になるけれど、多分今からでも母さんに電話で聞けばあの人の名前とか遺族の方の住所とかは教えてもらえるんだと思う。でも僕は、今まで敢えてそういうことをしてこなかった。その人のことを、ずっと憧れ続ける英雄として僕の心に留めておきたかったから。
あの人みたいに、見知らぬ誰かのために自分の命を懸けられるような人になりたかった。真っすぐで、誠実で、優しく強い人に。それがせめてもの罪滅ぼしだと思って生きてきた。
なのに。
どうして、こうなったんだろう。
真っ当に生きている人ならとっくに眠りについているであろう、そんな夜も更けた頃。僕は“あいつ”との待ち合わせ場所である寂れたバーに来ていた。
「よお、遅かったな」
「人目につかないようにするのも大変なんだよ。それより例のモノ早くくれよ」
「そう慌てなさんな。金は持ってきたのか?」
「言い値通り五万。確認して」
「はいよ。ひぃふぅみぃ……よし、約束だ。ほらよ」
「どうも」
「いつも言ってることだが、足がつかないよう気をつけろよ?」
「分かってるよ」
僕は、売人からいつも通り“それ”を受け取り、足早に外に出た。何の変哲もない、見た目は枯れた雑草と何ら変わらないそれを手に取って見るだけでどうしようもなく心が落ち着く。早く家に帰って使わないと。
「すぅ~…………………はぁぁぁぁぁぁあぁぁぁああぁ」
家に帰るや否や、僕は机の引き出しの奥に隠してあったパイプを使い、煙をくぐらせる。あぁ、これだよ、これ。普通に生きていたらまず間違えなく味わえない言い知れぬ高揚感。このためだけに生きている気がするほどに、僕はこの煙に身も心も侵されていた。
———そういえば、僕がこれを始めたきっかけってなんだったっけ。
———確か大学受験に失敗して少し経った頃に高校の先輩が……?
———あ、ダメだわ。思い出せない。まぁいいや。
そのまま、僕はひとしきり煙を堪能するとシャワーもろくに浴びないまま眠りに落ちていた。
▼▼▼
夢。これは夢だ。
どこかで見た光景。
どこかで見た人。
目の前に、血だまりの中で沈黙する男の人が倒れている。
顔は霧がかかったようによく見えない。
きっと、僕の記憶の中にはもうこの人の顔が残っていないからだろう。
確かなことは一つ。
僕は、この人に助けられた。
この人に命を救われた。
この人は、僕にとって英雄なんだ。
▲▲▲
何か夢を見ていた気がする。でも、夢の内容は思い出せない。でも、一つだけ心に残ったものがあった。
僕は昔、知らない誰かに命を救われて、その人みたいな人間になりたいと思っていた。僕にとってその人は憧れで、英雄だったんだ。僕も、彼みたいな英雄になりたい。遠い昔、そう心に願ったことを思いだした。
最近はずっと“アレ”のことばかり頭にあって、そんなことしばらく忘れていた気がする。
「———英雄か」
眠りから覚めた僕は、まだ煙の効果が残っているはずなのに、どうしようもなく悲しくなった。
今の僕の、どこが英雄なんだろう。
誰よりもねじ曲がっていて、不誠実で、皆を裏切る弱い男。それが今の僕だ。
ただの、馬鹿じゃないか。
涙を零しかけたその時、不意にアパートの呼び鈴を鳴らす音が部屋に響く。何も考えず、導かれるように玄関の扉を開けると、そこには二人の警察官の姿があった。
「———君だね?」
「え、はい」
「君に、麻薬所持容疑で逮捕状が出ている。署までご同行願えますか」
一人の警察官がこちらに開いた書面を見て、僕は凍り付いた。
そして次の瞬間、僕は警察官二人を突き飛ばしてアパートの外へと駆けだしていた。
待ちなさい、という警察官たちの怒声を背に、僕は無我夢中で走った。自分がどこをどう走っているかも分からなかった。ただただ、追いすがる恐怖から必死で逃れるように、どこかへ、どこかへ、どこかへ。それだけを考えてただ走った。
どのくらい走っただろう。もう動けないと足が悲鳴を上げる頃には、僕を追いかける警官の声もパトカーの耳障りな音もすっかり聞こえなくなっていた。
一旦落ち着きを取り戻しはしたが、これから自分はどうすればいいのだろう。このまま逃げてもすぐに捕まり、裁きを受けるのは明白だ。もう自分には安息の場所はない。
行く宛てもなくて、僕はもうどうにでもなれという気持ちで堂々と往来を歩いていた。力ない足取りで。
———もう、どうでもいいや。
———僕なんて、もう生きる資格も、みんなに合わせる顔もないんだから。
———いっそ、警察に捕まる前に自分で……。
横断歩道の赤信号が青に変わり、自分は朦朧とした意識のまま歩き始めた。
ふと、目の前にこちらに向かって歩いてくる一組の親子の存在に気付く。母親は若く、手を繋いで歩いている子供はまだ幼稚園に入りたてくらいの年齢だろうか。
薬が見せた幻覚だったのかもしれない。でも僕は、仲睦まじく歩み寄ってくる親子に、いつかの自分の姿を見た気がした。
そして、親子に勢いよく迫りくる右折車の存在に気付いた僕は、反射的に身体が動いていた。
「危ないッ!!」
親子を突き飛ばした直後、これまで経験したことのないほどの質量を持った速度が自分に衝突したことを理解した。
薄れゆく意識の中、僕が最期に見たのは不思議そうな顔でこちらを覗き込む、一人のあどけない少年の姿だった。
———ねぇ、僕、英雄になれたかな。
———君は僕のことを、英雄だって認めてくれるのかな。
———君はどうか、僕、みたいに、なら、ないで、ね……。
翌日の新聞の片隅には、“親子を救った愚か者の英雄”の名が残された。
英雄の条件 棗颯介 @rainaon
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