鬼嫁

まるてる

第1話鬼嫁

鬼嫁


 彼の妻は鬼だった。鬼は怒らせると恐ろしかった。

 その日、彼は久しぶりに夕方早い時間に帰宅した。しばらく人間らしい生活を送ることが出来ていなかったため、疲労困憊だった。黙ったままダイニングチェアーに座り、姿勢を正して妻を待った。妻は彼が座ったのを確認し、洗い物の手を止めて彼と差し向かいに腰をかけた。

「例の書類は?」

 妻が事務的な口調で彼に言うと、彼は緊張した面持ちのままテーブルの上にA4サイズの茶封筒を置いた。彼女はおもむろに封筒の中身を確認し、クリップ留めされた書類をパラパラと捲りザっと目を通した。眼光鋭く書類を確認したかと思うと、「次は?」と促すように彼を見つめた。彼は黙ったまま、手に握っていたUSBメモリーを彼女に渡した。データを受け取ると、彼女はそれを机の上に置いた。

「これは明日確認しましょう。先に、私に言うべきことがあるんじゃないかしら?」

 腕を組んで淡々とした調子で彼女は言い放ち、彼の緊張感はピークに達した。無言で伝わる威圧感に、思わず彼女から視線を一度外した。両手拳をぎゅっと握り、もう一度彼女の眼を見た。何かを問いかける突き刺さるような眼差しをひしひしと感じながらも、彼は慎重に言葉を吐いた。

「本当に、すみませんでした」

「……ねえ、何に対して謝っているの?」

「その、君が仕事に家事にと、忙しくしている間に僕は」

 声の震えを抑えながら彼が続けようとするも、彼女は途中で遮った。書類をテーブルに投げつけるように乱暴に置く。留めていたクリップが外れて、書類が机に広がった。

「ダメね、全然わかってない。そういう事を謝れって言っているんじゃないのよ」

 怒気に満ちた彼女の様子に彼は黙った。もはや継ぐべき言葉も思いつかなかった。身体の震えと今にも泣き出したい衝動を堪えながらも、彼は何も言えなかった。彼女は露骨にため息をついて席を立ち、キッチンへ向かった。

 コンロでは、蓋をした土鍋がゴトゴトと音を立てながら勢いよく湯気を噴出していたので、彼女は火を止めた。鍋掴みを両手にはめ、彼女は土鍋を持ったままダイニングテーブルへ戻った。木製の鍋敷きの上に土鍋を安置する。そのまま手際よく皿を並べ、土鍋の蓋を開けた。

「あなたが謝るべきは、待遇面に目がくらんで転職先を正しく評価できなかったところよ。あなたは超過残業に追われ、その結果私に多大なる負担がかけた。そこを間違えないで」

 そう言いながら彼女は菜箸とお玉を器用に使って、じっくり煮込まれて褐色になった大根の輪切りを取り出した。皿に載せ、レードルで鍋の汁をそっとかけると、大根と出汁の匂いが漂った。丁寧な面取りのおかげで、くたくたに柔らかいのにギリギリのところで形を保っている。大根を目にした瞬間、彼は目に涙を溜めた。

「それも含めて本当にごめん。君に半年間苦労をかけてしまった」

「そう。その言葉を聞けたから、私はもういいわ」 

 彼女は事もなげに言いながら、彼に皿を差し出した。

「大根でよかった?」

「うん」

「久しぶりの家での食事なのに……おでんでよかったの?せっかくなら、もっと豪華なものがよかったんじゃない」

「ううん、これがよかったんだ」

 渡された大根に箸を差し入れて、一口サイズにカットし湯気と共に口に放り込んだ。大根が口の中で崩壊し、熱と旨味をもたらす。火傷しそうになりながらも、彼は口から熱気を吐きながら大根を口の中で転がした。舌に味が伝わるにつれて、大粒の涙がボロボロとこぼれ始めた。憚ることなく嗚咽する彼に、彼女は少し呆れたように言い放った。

「明日から会社を相手取って戦うんでしょ。しっかりしてよ」

 そう言いながら、転職後半年間の彼のタイムカードの打刻記録、上司とやり取りしたメッセージ、業務日報などをプリントアウトした書類を丁寧にまとめ、クリップで留め直した。書類とUSBメモリーを封筒にしまい、空席の椅子に置く。

「上司の音声データ、きちんと取れているかしら?あなたの日記と一致するような言動が録音されていたら完璧なんだけど」

「大体毎日似たようなことを言って罵倒してきてたから、日記との整合性は取れると思う」

「良くないけど、それならよかった。徹底的に叩きのめすわ。貴方の会社と、元上司。あなたから人間らしい生活を奪った報いは必ず受けさせましょう」 

 違法な超過労働で発生した半年分の未払い残業代、そして、直属上司からのパワハラによる慰謝料請求の物的証拠は、今日の段階である程度揃っていた。彼は本日の出勤時に退職届を提出し、転職後初めて定時で帰宅した。

 目を擦って涙を拭き鼻をすすりつつ、彼は久しぶりに妻の顔をまともに見た。彼の会社の労働環境にひどく憤っている様子こそ見せているが、半年以上家庭を顧みなかった彼自身に牙を剥いているわけではなかった。彼女の隣の椅子には、雑に折りたたまれた彼女のジャケットには弁護士バッジが光っていた。

 缶ビールのプルタブを開け、彼女は二つのグラスに注ぎ片方を彼に渡した。

 「ひとまず、お疲れ様でした」

 「ありがとう」

 妻の言葉を聞いた後で、彼は注がれたビールを口に含み喉に通した。乾いた喉を、苦みと炭酸がほとばしっていく。きっと今頃胃の中で、大根との邂逅を果たしているだろう。半年ぶりの家族と囲む温かい食卓。ゆったりとした人間らしい時間だった。その夜、彼は久しぶりに安堵し、食事と酒と夫婦の会話を心から楽しんだ。

 彼の妻は鬼だった。鬼は怒らせると恐ろしかった。ただし、彼は鬼に深く愛された男だった。

                                   了

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鬼嫁 まるてる @kasei_nishi_kisaragi

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