長雨のあとに

んぺ助

長雨のあとに

 窓の外ではけたたましい雨音が響いている。昨日から降り続く雨は、一瞬の切れ間もなく街を包み込んでいる。つけっぱなしにしたテレビからは、名前だけは聞いたことのある地域に向けて避難を促すキャスターの声が幾度も耳に届く。そんな彼女の声にぼんやりと耳を傾けつつ、その彼女の写真が映っている携帯電話を、これまたぼんやりと眺めていた。

 彼女は僕の姉、柳瀬百合花。テレビでは名前をひらがなにして紹介されている。入社後数年だが、その名前の通りの清楚で柔らかな雰囲気が受けてかここ最近爆発的な人気を博している。この頃はバラエティにも呼ばれるようになり、随分と忙しくしているらしい。昔はよく二人で出かけたりしていたけど、今はメッセージをたまに交わす程度でここ一年は顔を合わせてすらない。多忙なのが見て取れるだけに、こちらから誘うというのもなんだか億劫になりどんどん疎遠になっているように思う。

 僕と彼女は五歳離れている。そのせいか小さいころから彼女は僕の事をすごくかわいがってくれていたように思う。僕もそれに応えるかのように、彼女のためにはできることは何でもした。そしてそれは家族として当たり前の感情だと思っていた。しかし、高校に入った頃からそれが一般的なそれとは異なっていることを知ることになる。それは彼女に恋人ができたことを聞かされた時であった。

 愛だの恋だのに全く興味がなかった僕は、当初は人並の祝福の言葉を彼女に伝えた程度だった。しかし、恋人との電話の声が聞こえてきたり、今まで外泊なんてしたことがなかった彼女が朝帰りや泊りの旅行をしたりする度に、自分の中で何かが形を変えるような感覚に襲われた。そしてそれは水面下で、しかし着実にその姿を明らかなものにしていった。そんな感情を受け入れるのには……いや、未だに受け入れられてなどいない。そんなどっちつかずの、曖昧な感情のままついに彼女は手の届かない遠い存在になろうとしている。だが、僕にはその現実を受け入れることしかできない。僕と彼女は、兄弟で、それ以上でもそれ以下でもないのだ。


 特になにもすることなく、ただただ雨に煙る街並みを眺めていると、ふと携帯から通知音が鳴った。すっかり脱力しきった腕に力を入れなおしてその内容を確認する。どうせアプリからのどうでもいい通知だろう……と半ば投げやりに画面に目をやった。

 そんな僕の心算はすっかり外れた。

 画面に表示される『ゆりちゃん』の文字。その名前が指す人物は、まさに先ほどまで目の前の大きな画面に映っていた彼女である。不意を突かれた僕はしばらく固まってしまっていた。自動的に暗くなった画面には目を丸くした僕の間抜けな顔が映っている。

 呼吸を整え、メッセージアプリを開く。そこには絵文字混じりでこう書いてあった。

《雨すごいけどそっちは大丈夫? こっちはすごい雨だよ~》

《ところで、今からそっちの近くに用事あるんだけど、時間あったらちょっとお茶でもしない? 久しぶりに会いたいな~!》

 ……さっきよりも呼吸が速くなった。胸に何か重たいものが宿る。こうやって軽く誘ってくれる感じは仲が良かった頃を思い出させて少し嬉しい気持ちになる。しかし、僕の心を騒がせた理由はそれだけではなかった。彼女が『お茶しない?』と言うときは、いつも決まって相談事か何かの報告がある時だった。確か彼氏ができた時の報告も、こうやって頓に連絡を寄越してきて、家族の誰よりも先にと報告してくれた。今回も恐らく…何かあるのだろう。用事というのも口実に過ぎないような気がする。

 何か嫌な予感に全身も気も重くなり、どう返事をしようかと思いあぐねていると追撃が来た。

《十七時頃に駅に着くから、よろしくね!》

 彼女にしては珍しく強引な物言いだ。ますます気が進まない。とはいえ用事が特にあるわけでもないし、僕も会いたいことには違いないので、わかった、とだけ返した。

 「十七時、か……」

時間までは数時間ある。湿気でボサボサになったこんな髪では彼女に笑われてしまうし、あからさまに眠たげな眼のままでは必要以上に彼女を恐縮させてしまうだけだろう。とりあえずシャワーを浴びようと、お風呂へと向かった。


 シャワーを浴びながら、この後のことを考える。わざわざ忙しいところをおしてまで会いに来るということは、恐らくそれなりの重要事項なのだろう。単なる相談事であれば電話で済む。そういえば、もう今の彼氏と付き合ってから五年以上経ってたような……とあまり想像したくないことが頭を支配し始めたので、それを振り払うようにして浴室から出た。そして彼女が似合っていると言ってくれた髪型にセットし、彼女がくれた服を着る。こう考えてみると、僕の周りには彼女が溢れているのだということを痛感する。少し前までは当たり前のように僕の隣に彼女がいて、そしてそれが永遠に続くのだと信じていたのだが、今ではそこに彼女の温もりはなく彼女の影のみが残されているばかりである。それを自覚するたびに、先ほどのような想像がより現実味を帯びてくる。僕は一体、どうするのが正解なのだろうか。


 待ち合わせ十五分前。一切手を緩める気の無い雨足に溜息をこぼしながら待ち合わせ場所に立っている。駅前のロータリーでは濡れたくない人たちを捕まえようとタクシーが隊列をなしていて、ロケット鉛筆のように出ては並び出ては並びを繰り返している。そんな光景を眺めながら、待ち人の到着を待った。

 定刻から十分ほど経って、彼女はやってきた。僕を見つけるやいなや、手を振りながらぱたぱたと水しぶきを散らしてこちらへと走ってくる。この光景も、昔のまんまだ。

「翼ちゃ〜〜〜〜ん! 久しぶり〜!」

 返事をする間も無く、抱きしめられる。彼女はいつもスキンシップが少しばかり過剰なのだ。

「ゆりちゃん、痛いよ……」

「あっ、ごめん」

 ハッとした様子で、僕から離れる。その表情は少し申し訳なさそうに見えつつも、どこか楽しそうな雰囲気を漂わせている。さながら待てをさせられた犬のようだ。

「元気してた?すっかり大きくなったねえ……」

「もう成長期は終わったよ」

「あれ〜? ほんと? 大きくなったと思うけどなぁ……」

「気のせいだよ。とりあえずお店に入ろう?」

「そうだね〜。雨でべちょべちょだ〜」

 相変わらずおっとりとしている。テレビで見る彼女と、今こうして見る彼女はそんなに変わりはない。でもこんな彼女を見れるのは僕と……多分彼氏さんくらいなものなんだろう。そう考えると、嬉しい反面、少し息が詰まりそうになる。

「あ! ここ懐かしい! ここにしよ!」

 そう言って彼女が足を止める。彼女が就職する前までは二人でよく行っていたカフェだ。僕も長いこと訪れていなかったので、久々に来ることになる。


 夕餉の頃なので、店内はさほど混んでいなかった。僕たちは窓際の席に陣取り、いつも通りのメニューを注文した。座ってからというもの、彼女はずっと妙にそわそわしている。どう話を切り出すか決めあぐねているのだろう、気が乗らないが僕が助け舟を出すことにした。

「で、どうしたの? なんかあったの?」

「え? なんで?」

「ゆりちゃんがわざわざお茶に誘うなんてなんかあったに違いないよ」

「え〜、そんなことないよ〜」

 要領を得ない返答。言う勇気が出ないのだろうか。埒があかないので、僕は彼女の目をしっかり見据え、しっかりとした口調で再度問うた。

「で、なに? 大事な話なんでしょ」

「うん……実はね……」

 重そうな口ぶり。その様子を見て、僕も息を呑む。

「実は……お姉ちゃん、プロポーズされちゃったんだ」

「……!」

 こうも見事に予感が的中することも珍しい。急激に視界が白んでゆく。だが、霞んで見えてくる彼女の表情は、報告の内容に反してあまり明るくはない。

「……でもね、悩んでるんだ。もちろん彼のことは大好きだし、結婚もしたいんだけど…。お仕事のこともあるし、今結婚してもいいのかなぁって……」

「そう……だね……」

 姉は今年で二十五歳。世間的には丁度良い頃合いだろう。しかしテレビでのキャラクター上、そもそも付き合っていることさえ公表できずにいるためにこうやって悩んでいるのだろう。自分のことではなく、周りのことを真っ先に考える彼女らしいといえば彼女らしい。

「翼ちゃんは…どう思う?お母さんに聞いても結婚しなさいって絶対言われるし、あなたの率直な意見を聞きたいの。彼のこともよく知っているだろうし……」

 彼氏さんとはよく一緒に出かけたし、彼女についての相談事もよく受けていた。本当のところは、彼が結婚を前提に付き合っていると言うことも、早い段階から知っていた。それだけ真剣に姉のことを考えている人だと知っているから、反対するような理由なんてどこにもない。むしろ彼であってほしいとさえ、思うのに。

「……難しいよね。僕はあの人がお義兄さんになるのは嬉しいなとは思うし、ゆりちゃんを一番に考えてくれるいい人だとは思うけど……」

「……けど?」

「恋愛経験値がない僕には大した意見はできないかな……」

「……そっか。背中を押すことも、引き留めることも、ないんだね」

 含みのある彼女の言い回し。一瞬、物憂げな表情をしたように見えたが、次の瞬間にはいつもの彼女の表情に切り替わっていた。

「……そうだよね。私の問題。彼ならきっと、幸せにしてくれるよね。……そうだよね」

「うん……」

 ぽつりと呟いた僕の相槌を聞いたかはわからない。直後彼女は何かを決意したかのような表情……テレビで見せる彼女の表情によく似た、そんな表情で僕に向き直った。

「よし、お姉ちゃん結婚するよ! 帰ったら連絡してみようと思う。翼ちゃん、盛大にお祝いしてね!  あ、まだお母さんたちには秘密で!」

「う、うん。おめでとう。幸せになってね」

 精一杯取り繕った笑顔で。自分でもうまく笑えていないことなど、確認するまでもない。

「翼ちゃんも……。早く、いい旦那さんを、見つけてね」

 優しく、ふわりと投げかけられた言葉。その言葉には、どこか少しだけ、悲しみの色が宿っていた。

「あ、雨上がったよ!」

「……ほんとだ」

 彼女の指差した先には少しばかり雲の切れ間が見える。ほんの隙間から、光が射す。その光はなんだか、雨雲を切り裂いているように見えた。

「天気予報ではまだまだ雨が続くって言ってたから、多分一瞬晴れただけかなぁ〜。私の新しい門出を、お日様が祝福してくれたのかもね!」

「そう、かもね……」

 きっと、くるべき時がきたのだろう。雨はいずれ上がり、いつかは雲さえも消え失す。そう信じるしかない。今日の空だってこうやって光が射した。

「さて、そろそろお姉ちゃんはいくね! 今日はありがとう。また……会おうね!」

「そうだね。……お幸せに」

 精一杯の餞。今の僕にはこれくらいしかできない。

「うん。……翼ちゃんもね!」


 雨が上がった後の独特な匂いに包まれながら、彼女を見送る。遠くの空からは、また雨雲が迫ってきている。また当分は雨だろう。だけどもきっと、この長雨のあとには清々しい空が広がるのだろう。


 私の心にも、きっと。

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