第4話
和泉が教室の扉を開けると、まだ誰も教室にはいなかった。黒板の上に吊るされている時計に視線を滑らせると、朝のHRが始まるまで、相当の余裕がある。
昨晩は目下悩みの種である後輩ーー香のせいかどうも眠りが浅かったようだ。普段よりも随分と早く目覚めてしまった。
家でちょうど良い時刻までぼんやりとしているかとも考えたのだが、今日は朝から雨が降るらしい。一時間ごとの天気予報を見てみたところ、和泉が普段通学している時間帯だけ示し合わせたかのように傘マークが爛々と輝いていた。
そんな経緯もあって、いつもより一時間ほど早く家を出たのだが、流石に早すぎたようだ。友人でもいてくれれば会話で時間を潰せたのだが、いないものは仕方がない。
本でも読んで時間を潰そうと、鼻歌混じりにカバンから文庫本を取り出す。ちょうど続きが気になるところで終わっていたのだ。仕方がないから本を読む、と胸中では嘯きつつ、和泉はとても楽しげに自分の席について栞の続きから本をめくり始めた。
朝練にいそしむ運動部の熱い掛け声と、微かに香る雨の匂いを楽しみながら、和泉は本の世界へと浸っていった。
「はよーす和泉。今日は早いな」
集中が、自分の名前が呼ばれたことにより切れる。和泉が本から目を離して前を向くと、そこには爽やかな笑みを浮かべた褐色の男が立っていた。
和泉も笑みを浮かべて、挨拶を返す。
「よっす、拓海。いつもより朝練早く終わったんだな」
「ああ、雨が降ってきたから慌てて切り上げてきたんだよ。一気に強くなるもんだから靴下がびしょびしょで気持ち悪ぃ……」
うへえ、と和泉の前の席に腰掛けたのは、和泉の友人の秋山拓海だ。赤茶混じりの短髪を整髪剤で細やかにセットしたその様相は、造作の整った容姿と相俟って実にサッカー部らしい。その姿はあまりに和泉のイメージするサッカー部と一致しすぎていて、和泉が読んでいる本にサッカー部員が登場すると、息をするように拓海を登場人物に当て嵌めてしまうほどだった。
「もうすぐ梅雨だからな、今のうちに慣れとけ」
「ぬわーっ、梅雨になると室内練になっちまうから嫌だー!階段の登り下りきついんだよマジで」
「アレ、存外にうるさいから足音立てずにやってくんない?読書に集中できん」
「きついって愚痴垂れてるところに更なる苦行を課すって酷すぎんだろ…俺ら別に忍者志してるわけじゃないからね?」
「抜き足差し足忍び足。日本の伝統を受け継ぐのはサッカー部の君達だ……!」
「どうせ受け継ぐならもうちょい現実感あるもの選ぶわ!」
打てば響くような会話だ。和泉と拓海が毒にも薬にもならない会話を続けていると、徐々に教室内が活気付いてきた。雨を皮切りにして、朝部活に励んでいた人たちが登校してきたようだ。
その時、一際大きく扉を開く音が鳴り響いた。
和泉は自然とそちらに目を向け、げ、と思わず声を漏らす。音の発生源には悠に180cmは超えるであろう体躯に、太く逞しい腕をもった
樹はズンズンと和泉と拓海が座る席に向かって歩を進めてくる。
「ちょちょ、樹待てって。いや噂は聞いてるぞ。お前が妹を大好きなのもな!けど和泉に当たるのは筋違いってぶべ」
「……」
和泉に対する2日連続の
(あのアホ後輩がしっかりと手綱を握ってくれていますように……)
諦観の念をどんよりと瞳に浮かべながら、和泉は近づいてくる樹をどこか他人事のようにぼんやりと眺めていた。和泉にとって生意気の権化である香に祈るしかない状況というのは耐え辛い苦痛だが、もやし同然の貧相な体躯である和泉には、祈る以外にできることなどなかった。
クラスメイトたちも此方の動向が気になるのか、二人はやけに視線を集めている。ゴクリと誰かが飲んだ唾液の音が聞こえた気がした。
そして、和泉は見下ろされる形となる。
「……」
「あー……樹?どうかした?」
「……」
「……え、ちょ、あの、樹?」
「……」
「えーと、聞こえてる?」
「……」
「聞こえてます…?あの、樹さん。えっと、反応が…欲しいかなって…」
「……」
(なんか言えや!?)
奇しくも、入学以来初めてクラス中の内心が一致した瞬間だった。もうどうにでもなーれ、の境地に至っていた和泉は無言空間に耐えきれず、段々と声が震え、敬語になり始める。
拓海が和泉の眦の端に光るものを視認した瞬間、お前を殺す!と眼光で語る樹が、厳かに口を開いた。
「……妹を、頼む」
「……はいぃ」
言葉少なな頼みに和泉が椅子からずり落ちながら応じた瞬間にチャイムが鳴り響き、異様に静かな空間は終わりを告げた。
ーーーーーーーーーーー
「…ってのが今日の朝にあったわけよ。何なのお前の兄貴……ハシビロコウか猛獣の血でも入ってんのか!?なんで眼光で威嚇してから話すんだよ!普通に!挨拶から入れや!!人間の社会性を取り戻せ!!!」
「お兄ちゃんはお茶目ですからねぇ……このお茶おいし」
「湯呑みでほうと息をつくんじゃない後輩、その心底私関係ありませんって態度をやめるんだ」
「侘び寂びですよ先輩……先輩の情緒はわさびを一袋まるまる食べたんですかってぐらい荒れてますけど」
「……ありがとな、後輩。寒すぎて逆に冷静になれたよ」
「はー?私の激うまギャクに抱腹絶倒しないとか先輩のセンス死に絶えてるんじゃありません?」
「センスが死に絶えてんのはお前及びお前の兄だよ。どう解釈したらアレがお茶目の範疇に入るんだ」
「そんな大袈裟な、ちょっと眼光で先輩を射殺そうとしただけじゃないですか」
「アレを射殺すだけって言う奴を俺は文明人とは認めないぞ……!あ、俺にもお茶くれ」
恨みがましい和泉からの視線をまるっとスルーした香は、慣れた手つきで和泉の分のお茶を入れた。芳香から判断するに、ほうじ茶らしい。
「どーぞー」
「ありがとな」
「冠絶たる美しさを持つ私に手ずからお茶を入れてもらえるなんて、先輩は幸福ですねぇ」
「はいはい、いつもこれに関してだけは感謝してるよ……っと、本当に美味いな」
「でしょう?先日お兄ちゃんが顔面に刀傷を大量に作った方からいただいてきましてね、我が家でも重宝してるんですよ」
「……出自は聞かなかったことにする」
幽霊部員が大半のため、香と和泉は二人しかいない文芸部部室でお茶を啜る。
ひとしきり和んだところで、そういえばと和泉が口を開いた。
「遺憾ながら俺たちは恋愛関係のようなものになったわけだが」
「今が人生における最高潮だと気づいて、それを少しでも長引かせようと涙ぐましい努力をしたいわけですね。お気持ちはよくわかりました貢ぎ物はブランド品でいいですよ」
「目を開きながら寝言が言えるなんてすごい特技だな、脳が常に寝てるんじゃないか?」
「つまり私は依然として第二第三の進化形態を残しているということですね!まあ、奥ゆかしさと典雅さを内包した私なら当然のことですが」
香がふんすと胸を張る。戯言は一蹴するとしても、いっそ感心してしまうほどのポジティブシンキングに、こいつには一生叶う気がしないなと心の奥底で思いながら、和泉は話を戻した。
「まあ、端的に言うと俺は何したらいいんだ、ってことだよ。男女の機微なんぞ俺は知らんからな。それに加えて今回は偽装恋愛だ。輪にかけて分からん」
「……おお」
「何だその反応は?」
「いえ、先輩が予想外にきちんと考えていてくれたので、感心しただけです」
「……ま、よくよく考えてみれば断る理由もほぼないからな。暫くやっかみには悩まされるだろうが、すぐ鎮火するだろ」
「うんうん、何回見てもツンデレはいいものですねえ」
「誰がツンデレだ」
「えーと、それで私が先輩にして欲しいことですか。そうですねー……」
香は腕を組んでうんうんと首を振った後、指先を唇に当てて考えるような仕草をした。やがて考えが纏まったのか、「よし!」と意気込むと香は指先をくるくると回しながら話し始めた。
「先輩に行っていただきたいことはそう多くありません。ぶっちゃけ、いつも通りでいいです」
「へえ、意識しなくていいのは楽だな。でもそれだけでいいのか?」
「構いませんとも。この香ちゃんの話術にかかれば、普段の私たちの言動だけでお茶の子さいさいです」
「そりゃあ助かるな。後輩の無駄に達者な口が役立ってくれて嬉しいよ」
「そうでしょうとも!それに加えまして先輩にしていただきたいのは、大きく分けて二つです!」
香が前のめりになってVサインを形作った。
「まず一つ!先輩は私と付き合ってることを肯定してください。なるべく素っ気なく。オーバーリアクションなバカップルだと逆に不自然ですから!私たちの関係を公言しなくても構いません、ただ、人に聞かれた時は肯定してください」
「了解、それで、もう一つは?」
和泉は特に抵抗もなくその願いを聞き入れる。自分から進んで人に言いふらせ、との内容だったのなら断固として拒否の姿勢を見せたが、人から聞かれたときに肯定するだけでいいのであれば、拒否感も少ない。
(問題は、もう一つの方か)
ため息をつきながら、香に続きを促した。
すると刹那、香は花開くような満面の笑みを浮かべた。
和泉は何か根源的な恐怖を感じ、反射的に後ろへと後ずさるが、パシッと香の白く細長い指先で腕を掴まれた。
そんな和泉の様子を気にかける風もなく、香は楽しげに表情を崩した。
「昨日もお話した通り、デートに行きましょう!明日の午前十時に駅前集合です!」
生意気な後輩との恋愛協定 しんじょー @tubaame
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