第3話
「恋愛協定?」
「ええ、恋愛協定を結びましょう先輩」
和泉は首を傾げた。彼氏のフリでもすればいいのかと気楽に考えていたら、『協定』などという日常ではおよそ使うことのない仰々しい単語が飛び出してきた。だが、ここで和泉にとって重要なのは一つだ。したり顔をする香に対して和泉は土煙りでやや煤けた上体を前に倒しながら口火を切った。
「協定ってことは俺にも内容の決定権はあるって解釈でいいんだよな後輩」
「もちろんですとも。世界一心優しい香ちゃんは怨敵にも一抹の情けをかけてあげるのです」
「世界一心優しい香ちゃんは怨敵なんて物騒な単語使わねえよ」
「一寸の虫にも五分の魂がある事を信条としている時点で、私が世界一心優しいことは確定的に明らかです」
「……もしかしなくても俺のこと虫って言ってるよな?」
「あらあら、いずむし先輩は被害妄想がお盛んなようで」
「俺の手のひらが見えるか?これは握手のために開かれたんじゃない。お前の頭を握り潰すために開かれているんだぜ……!」
「いたい!痛いです先輩!すとっぷ!ふりーずです!」
力がそれほどなくとも米神を渾身の力で握りしめられるとそれなりに痛いことを、乱暴な姉により身をもって知らされていた和泉は的確に痛点を圧迫した。そのままギリギリと力を込め続け、苦痛に喘ぐ生意気な後輩を眺めるというのは和泉にとって中々……否、かなり魅力的なのだがこれ以上続けると話が進みそうにないので一旦中断する。
ぶつくさ「信じられません…こんなに可愛い私を苦しめるだなんて…もしや先輩には人の心がないのでは」と戯言を抜かす香に、ふんと息をつきながら、和泉は首を傾けることで話の続きを促す。
「先輩人の心ない問題はさておき、話を進めましょう」
「あるっつーの」
「ではこちらの資料をご覧ください」
「資料?…って存外にしっかりしたやつ出てきたな……タイトルはふざけてるが」
香が手渡してきた資料には『萎び果てた観葉樹のような先輩が銀河一可愛い後輩とお付き合いしたら〜俺(和泉)は幸せすぎていつ死んでもいい』と可愛らしい丸文字体で記載されていた。
ホッチキスで留められた数枚の資料をペラりと捲って中を確認してみれば、恋愛関係に至ることでどういったメリットがあるのかをやや上から目線で主張していた。
いくつか添付されているグラフの参照元がどう見ても個人ブログなので胡散臭いことこの上ないが、まあ恋愛系統のプレゼンならこんな物だろう。
「ではでは〜。なんと香ちゃん直々に!愚かで無知蒙昧でこのままだと彼女いない歴=寿命な枯れ道まっしぐらな先輩に解説をしてあげましょう!」
「枯れ道言うな、それはそれで幸せかもしれんだろ」
「私とお近づきになれない人生なんてゴミカスも同然では???」
「それだと人類の99%以上不幸なんだが」
「いやあ、私も罪な女ですね……」
「本当にな。お前の頭のおめでたさは世紀の犯罪者級だよ」
「先輩のご教育の賜物です」
「まさかの熱い風評被害に先輩もびっくりよ」
「あながち風評被害でもないんですよねぇ、これが。まあまあ、では…話を続けましょうか」
そう言って香はどこからともなく取り出した細縁メガネをかけた。メガネをかけた瞬間の『私は眼鏡をかけても可愛いでしょう?』と言わんばかりのドヤ顔から視力矯正を目的としていないのは明らかだ。
「ではメリットとかは全部すっとばすと致しまして最後のページをご覧ください!」
「資料作った意味皆無じゃねーか」
「いやー、友達が授業で作った資料を許可をもらった上でまるっと拝借したまではいいものの口頭で説明するのはとてつもなくめんどくさいんですもーん」
「いやお前……借りといてその言い草はお前……」
真剣に後輩の情操教育を検討し始めた和泉を置き去りに、香は得意げにペンを回しながら話を進める。
「早い話が、私は先輩に蚊帳となってほしいのですよ」
「蚊帳ねえ」
「年中発情しっぱなしな羽虫どもが私の美しさに寄せられてしまうのは詮なきこと……でも私は人間なので集られるとうざったいんですよねぇ」
「気持ちは分からんでもないがもう少し言い方選べよ?」
最後のページには、他人からの告白を断るのがどれだけ面倒くさいかが切実に記述されていた。断ってもす往生際悪く縋ってくるだとか、友人から始めようだとかどの口で抜かすとか、それはもう不平不満が出るわ出るわ。
うん、確かにこれはさぞかし億劫だろうなと和泉は思う。
整った容姿に生まれるというのも考えものだな。
(でもな……可哀想だとは思うが、仮に了承すればこいつらのやっかみが俺に降りかかってくるんだろ?それは怠そうだ……)
だが、と和泉は思う。
ぶっちゃけ、この提案に対する和泉の拒否権は、ほぼないに等しい。
原因はラグビー部に所属する筋骨隆々な香の兄ーー羽衣樹だ。人格はもちろん人当たりもよく、およそ欠点と呼べるようなものがない彼には、一つだけ厄介な……現在和泉をボロボロにしている原因の悪癖がある。
それすなわち、シスコン。
小学生の頃から、香が泣かされたと聞くと速攻で泣かした相手を成敗しにいくような奴だ。和泉は樹のことを友人だと思っているが、その悪癖の対象にだけはなりたくないと思っていた。
けれど現実は無情だ。
昨日は『愛しき妹を娶ろうと言うのならその覚悟を兄たる俺に示せ!!!』とどこか悔しそうに泣き叫びながら突撃してきたし、今日は『妹を泣かせるなんて万死に値する!死ねええええい!!!』と幼稚園児が見たら号泣間違いなしな顔で迫ってきた。
もうトラウマ以外の何物でもない……。あの怒りの形相は夢に出てきそうだ。というか妹を泣かされたことに対する怒りはまだ理解できるが、奪っていくならせめて俺の拳も持っていけと迫り来るのは理不尽すぎるだろう。
「聞くまでもない気がするけど、樹が怒り狂っていたのは?」
「お兄ちゃんですか?いやあ、全米が泣いたとの呼び声名高い映画を観ながら先輩の話をしてたら急に怒り出しちゃって……。兄の短気も困った物です」
「面の皮が厚いってよく言われるだろお前」
「肌がきめ細やかとは毎日言われています、ふふーん」
……香の会話の隙間隙間に挟まれてくる自慢話はスルーするとして、現在和泉が考えなければいけない問題は、香にどんな条件を突きつけるかだ。これは『協定』だ。如何に和泉にとって望ましい条件を要求できるかに全てがかかっている。
とりあえずモクモクと妹への情熱を募らせる
(といっても、なあ……)
しかし、和泉は交渉ごとなど生まれてこのかたしたことがない。無茶な条件を突きつけ、少しづつハードルを下げていくといったような初歩的な方法ぐらいなら知っているが、逆に言うとその程度の知識しかない。
なので、和泉は一度提案から退く姿勢を見せ、香がどのような条件までなら呑む意思があるのかを確認してみようと考えた。やや消極的な姿勢だが、そう悪い手ではないだろう。
和泉は瞳を閉じてかぶりを振り、側から見ればとても残念そうに言葉を紡ぎ始める。和泉にとって不幸だったのは、演出に傾倒しすぎたあまり、目を瞑ってしまったことだ。仮に目をしっかりと見開き、香の瞳をしっかりと見据えていたのなら、断りの言葉を和泉が口にした瞬間、香がその言葉を待っていたと言わんばかりの笑みを見せたことに気がついただろう。
「後輩、検討したんだがその話はお断りーー」
「あ!そうだ先輩!言い忘れてたんですけど協力してくれたら卒業式の日におっぱいくらいならーー」
「なんてするわけないよな!是非とも受けさせてくれ!いやあ、後輩が苦しんでる姿を見過ごるわけないよなあ!」
悲しいかな。どれだけ平素を毅然に取り繕っても、男子高校生の性を押し込めることはできなかった。そして、小学生の頃から和泉を知っている香からすれば、和泉がむっつりだと言うことぐらい旧知の事実だった。
やらかした、と自分が吐いた妄言を脳味噌が知覚した時には時すでに遅し。だらだらと滝のように冷や汗を流す和泉に対し、香はにっこりと、それはもう、特殊な癖を持つものであれば即刻五体投地してしまうような嗜虐的な笑みを浮かべた。
「うわ、最低通り越していっそ滑稽ですねぇ先輩」
「や、やややややかましいわ!」
「何させて貰えると思ったんですか〜?先輩も男の子なんですねぇ」
「ぬッ……ぐっ、くそ……ッ!何も言い返せない屈辱……!!」
「脊髄反射並みに早い返答でしたよ。まま、そう恥ずかしがることはありませんって。先輩が口ではなんだかんだ言いつつも私のコトを魅力的に思ってるって分かってますから!」
羞恥に顔を茹で蛸のように真っ赤にする和泉の隣に香は腰掛け、肩に手を回した。ニヤニヤと揶揄いがいのある玩具を見つけたかのように、その相貌はゆるりと細められている。
和泉はわなわなと唇を噛んで、腕にほんのりと当たっているような気がする暖かく柔らかな感触を努めて無視することに専念した。
(当たってない当たってない、当たってないと思えば当たってない。耐えろ、耐えるんだ和泉……!ここであからさまな反応を示したら恥の上塗りをすることがわかりきってるだろうが!そう、胸なんて当たってない!この感触はあれだ、胸ポケットに詰められたカイロかなんかだ)
「では先輩、今日から私たちは恋人ということでよろしくお願いしますね!」
「……おう」
「もっと全身で喜びを示してくれてもいいんですよー!こう、キャピッと!」
「俺は今自己嫌悪の真っ最中だ……そういうのは後にしてくれ……」
「あはは、こんなに落ち込む先輩初めて見ましたよ。よし、じゃあこれで私は帰りますけど、今週末の予定はちゃんと空けておいてくださいね先輩、遊びに行きますから!それでは、さようならー!」
「ああ……じゃあな……」
夕陽が僅かに差し込む放課後の教室にて、二人は対照的な感情を一心に表しながら恋人になった。
「……え、偽装カップルなのにデート行くの?」
和泉の胸に去来した小さな疑問は、誰の耳にも入ることなく、無人の教室に消えていった。
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