第2話

「なあ後輩」

「なんですか先輩」

「なんで俺は今日もボロボロなんだ……?」


和泉は心底理解ができないという風に頭を抱えた。おかしい。憎たらしい後輩が紛らわしい虚言を流布したことによって発生したあらぬ誤解は昨日解決させたはずである。今日はいつも通りの日常だろうと油断して教室に入った和泉を待ち受けていたのは、ラグビー部渾身の力が込められた情熱的なタックルであった。

和泉の問いに対して、香はほっぺたに指を突いて思案気な顔をしたのち、それはもう見る者を笑顔にさせてしまうような晴れやかな笑顔で答えた。


「私が先輩と付き合ってるって大々的に公言したからですかね!」

「ああ成程、道理で昨日より攻撃が激しいはずだ」


ぽんと手を叩いて納得する。なるほどなるほど。恋愛関係にあるのではないかという猜疑が確証に変わったのだ。取り調べが激化するのは火を見るよりも明らかだろう。よし、疑問も解けたところで…という所で和泉は何かがおかしいと停止した。


「待て待て待て。……今、なんて言った、後輩」

「私と先輩が付き合ってるって周りに言いふらしたんです!」


決して香が聞き違えることのないようにと、訊きたい情報を最低限にまで簡略化した問いに対する答えは、またもや奇妙なものだった。認めたくないと言ってもいい。

天真爛漫という表現がこれ以上ないほど似合う香の笑顔にズキズキとした頭痛を感じながら、現実から目を背けるかのように和泉は再度問いを放った。


「ああ待て待て。どうやら、俺は今調子が悪いみたいだ。そのハズだよな。俺と後輩が恋愛関係にあるなんて、そんな悪夢よりもおぞましいことがある筈もない」

「これがこれがあら不思議。私たちはいまや学内周知のカップルなんですよ先輩。いやあ、世の中不思議なこともあるもんですねぇ」

「……ちょっっと待て。もう一回、もう一回言ってくれ。後生だから俺に悪夢を見せないでくれ」

「あらあらまあまあ、遂に視力だけじゃなくて聴力も記憶力も衰えちゃったんですかあなた。じいさまや、朝ごはんはもう食べたでしょう?」

「誰が耄碌じじいだ!というか熟年夫婦感をだすんじゃねえ」

「あらっ、失礼ねぇ。老々介護であなたのおしめを替えてあげてるのは誰だとおもってるんですか!?」


殺意のあまり拳が出そうになるのを気合で抑え込んだ。めっ、と指を差してくる香の白く華奢な指を握り潰して、和泉はふうと細めた息を吐いた。「じいさんや、DVはいけませんよ!熟年離婚という切り札を私に切らせるおつもりですか!」などという戯言を吐く香はひとまず無視する。

衝動に身を任せ、こちらを舐め腐った面に一発おみまいするのは非常に魅力的なストレス発散方法である。だがしかし、一応相手は生物学的に女、それも庇護すべき後輩だ。平静を装い、前に乗り出した衝撃でずれた細縁眼鏡を震える手で直しながら、眼前の老女ムーブをする後輩を見据える。


「……今日の騒動の原因がお前であることは理解した。忌々しいことにな」

「先輩のお脳味噌様がおまぬけでなくて私は安心しましたよ」

「ッ!……今は話しが先だ。んで、その言動にはしかるべき理由があるんだろうな」


ふいー、とかいてもいない汗をぬぐう動作を見せる香に声を震わせながら問う。その何気ない茶番の動作までもが、いちいち絵になるから余計に腹立たしい。香という後輩は、容姿だけならば何処に出しても恥ずかしくない程に端麗なのだ。性格は最悪だが。性格は最悪だが。


(……だが、容姿が所以で苦労もするだろうしな)


美しい容姿というのは、外様から見れば羨望の的だ。だが、少し頭を働かせてみれば相応のデメリットが付いて回るであろうことは、想像に難くない。

女性ならばなおさらだ。嫉妬等の可愛いものならば、まだいい。この豪胆で不敵な後輩はその程度のやっかみなぞ、鼻で笑って突き返すだろう。事実、この間興味本位で容姿に関する妬み嫉みはないのかと尋ねたところ、「憐れですよね……私が美しくて可愛いのは神が定めた世界の摂理だというのに彼女達は、私を自分達と同レベルまで下げて自らの蟻と同レベルの自尊心を保とうと、涙ぐましい努力をしているのです。どうせ不可能なのだからちょっとでも可愛くなる努力をすればいいのに。どうせ私には劣りますがね!」と胸を張っていた。

だが、物理的な脅威であれば話は別だ。ストーカーのような、肉体的な脅威であれば、憎たらしい後輩でも抵抗することは困難だ。和泉が運動部に追い回される遠因となったように、この後輩は内情を知る和泉からすれば非常に理解に苦しむものの、異性の眼を惹きつける。ストーカーのような被害に遭っても、まあ不自然ではない。


(……まあ、ストーカーが原因なら仕方ない。あまり力にはなれんだろうが、こんなのでも一応後輩だ。風除けぐらいには--)


「はい、その日の気分です!」

「……なあ後輩」

「なんですか先輩」

「ぶん殴っても、いいか……?」

「か弱い乙女を殴るだなんて、先輩には人としての良心はないんですか!?」

「お前が言うな…!お前が……!」


絞り出すように声を発すると、香は、不満そうにくちびるをとがらせてぶらぶらと足を揺らした。


「なんですか、私と付き合うことが心底嫌だとでも言いたげですね」

「言いたげじゃない、しっかりそう言ってんだよ」

「全男子が嫉妬しますよ!私と付き合うなんて栄光、普通の男子であれば感涙にむせび泣いて私に際限なく供物を捧げるところです!」

「嫉妬された結果がこの有様なんだがな。お前の顔に付いた眼球は節穴か?このボロボロな風体が見えんのかコラ」

「……まあ、それは横に置いておくといたしまして」

「すかさず問題提起してやろう」

「話を進めさせてくださいよー」

「いやだ、俺は現実を見たくない」

「現実逃避はムダですよ?何も産みません」

「馬鹿野郎、コスト無しで何時でも何処でも行える極めて建設的で最高に優秀なメンタル保護だろうが」

「あっ、クソ雑魚メンタル……」

「一応俺はお前の先輩だからな?」


なんだか最近は和泉自身も香のことを先輩後輩というよりも何を言っても即レスポンスが来る悪友という認識にしつつあるが、一応立場としては香よりも上位のはずである。運動部のような厳格な上下関係を求めることこそしないが、もう少し、そう、ほんの一つまみ程度でいいから尊敬が欲しいと和泉は考えていた。


「まあまあそう言わずに。……では先輩、改めまして」


常々ころころと忙しなく表情を変える香にしては珍しく、香は真剣な表情で居直った。和泉は嵐の前の静けさのような空恐ろしさを感じつつも、嫌々ながら破天荒な後輩に向かい合う。

香は両手を顔の横で重ね合わせて、甘い声音と魅惑的な笑顔をもって和泉へと言い放った。


「ねえ先輩、銀河一美しくて可愛い私と偽装恋愛をしましょう!あ、因みにこれは決定事項です!」


文字化するのであれば、語尾にハートマークがついていても違和感を感じないほどに、その提案は可愛らしい声音で紡がれた。


--和泉は思う。これは、小説フィクションのような世界が始まる前触れなのかもしれないと。平穏な生活を送る素朴な少年が、可愛らしく積極的な少女に振り回される珍道中。ああ、それはそれは微笑ましいことだろう。最高の喜劇に違いない。


故に、和泉は香に対して慈母のような微笑みを向けた。


きっと楽しい毎日だ。きっと、幸せな日々だ。





しかし、それは。


(--外野から見てればの話だがな!!!!!)


「お断りだこのナルシスト。独り寂しく妄想に耽ってろ」


地上波では流すことのできない指を天を突かんばかりに高々と掲げ、悪態を吐く。

フィクションのような喜劇?馬鹿野郎、フィクションは非現実フィクションであるからこそ良いのだ。現実と化したフィクションなどゴミ屑以下な代物である。そして、他者にとっての喜劇は言い換えれば当人にとっての悲劇である。観るのは大好物だが自分が演者になるなど死んでも御免だ。


悪態に対し、香は微笑みをもって答えた。それは、掌の上で決死の抵抗を行うサルを見つめる仏のように愛おし気な視線。

--舐められている。和泉はそう感じた。


「--上等だ、お前が何を言おうとも、どんな手練手管を下そうとも俺は絶対に屈さない。後輩よ、俺は絶対にお前の彼氏なんぞにならない!」







◆◆◆◆







翌日の放課後。


「俺が悪かった……俺が悪かったからあのゴリラを押さえつけてくれ……おれはひ弱なんだ。偽装恋愛でもなんでもするから勘弁してくれ……ごりらばすたーを受けるのはもう御免だ……」

「--はい!誰もが羨む素敵なカップルになりましょうね、先輩!」


校舎の片隅にある文芸部の教室で、そう後輩に縋りつく先輩と、ボロボロの先輩に弾けるような笑顔を向ける後輩がいたとかいなかったとか。

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