第2話 始まりの冷たい夜②
レカノラは今年で十一歳で、“常陰の底地”に父と母の三人で暮らしていた。父・スズリはレンガ造りや薬の調剤、行商人との交渉が得意で、母・ノーチは崖登りや地縫いとの交渉が得意だった。
“常陰の底地”は正式名称を“クルル中央地溝”といい、北の国と南の国を分断する形で東西に延びる巨大な谷であるそうだ。一日のたった三時間しか日が差さないこの谷は一年中両崖の影になって薄暗く、谷の真ん中を流れる巨大な河の影響でいつも霧で満ちている。日が差さないため草木に乏しく、生き物も少ない。少なくとも家から見える距離において、レカノラたち以外人っ子一人住んでおらず、生き物らしい生き物は大抵掌より小さくてコソコソモゾモゾ蠢くばかりだ。
家から見える距離に定住している者は誰もいないが、近くにやってくる人はいる。普段地中に穴を掘って鉱石やなんかを収集して暮らす“地縫い”と呼ばれる人たちは、季節の変わり目に崖から顔を出し、ぞろぞろ底地に降りてくる。彼らは遠くから見ると地面と区別がつかないほど汚く、土と泥とカビの匂いをまき散らしていて、おまけに髪の中に虫を飼っている。常に十人かそれ以上の集団を作って移動してきて、レカノラが話しかけてもうんともすんとも言わない。
父と母は彼らと会話をしたいそうだが「レカノラじゃないとダメ」だそうで、地縫いの時期が来るといつも相手を任せてくる。レカノラも負けじと、「わたしが話しかけても何も言ってくれないよ」と何度も訴えたが、「それでいい」のだそうで、そういう感じがとにかく嫌でレカノラは彼らが嫌いだった。しかし、母さんが「失礼のないようにしなさい」といって、せっかく危険を冒して上層で採取した貴重な植物や、木の実、獣の肉、時間をかけてろ過した水なんかを大盤振る舞いするので、仕方なくその返事もしない大きなウンチみたいな連中に食べ物を上げたり雨風しのげる場所に案内したりした。地縫いは、そのお返しに希少な鉱石をくれたが、レカノラはいつも少し割に合わないのではないかと思っていた。
地縫いがつくった地下道を通るのは、彼らや虫たちだけではない。夏になると、芽農と呼ばれる行商人が南から河を渡ってやってくる。夏は、谷の中層で滞留しているガスが薄まり河のかさが減るので場所によっては河を渡ることができるのだそうだ。彼らはだいたい一人か二人、多くても四人ほどで連れ立っていて、一体どこで採れるのかわからない見たこともない食べ物をくれる。芽農は地縫いと違って臭くないし、汚くもないし、レカノラが話しかけるとニコッと笑って返事してくれるので好きだった。芽農とは父も母も会話ができて、一宿一飯を共にすることもある。特に子連れの芽農が来たときは、大人たちが種や食べものや貴重な生活必需品を売買したり交渉している合間に外で遊んだり喋ったりした。男の子の方が多いが、女の子もたまにいて、彼らから旅の話を聞いたり、どこまで高く垂直崖登りができるか勝負したりできるのでとても楽しい。レカノラは毎年彼らの話を聞くのが好きだった。
ただ、「両親がいつも地縫いの世話役をさせてくるんだ、あの人ら臭くて汚くて、わたしは嫌い」ということを話すと、どの子も決まって神妙な顔をして、「でも、地縫いと話せるのは尊いことだから」というようなことを言った。あるとき──去年の夏──レカノラより少し年上の男の子がお父さんと一緒に家に泊まったとき、その意味を問うたところ、彼はこっそり襦袢をめくって肩の黒いバツ印を見せた。
「なに、それ」
「僕のお父さん、罪人だから地縫いと喋れない。人を殺した人は地縫いと喋っちゃダメなんだって……」
「えっ」
レカノラは驚きて、一度口をつぐんだ。でも、よーく考えた後、「ダメってことは話そうと思えば話せるんでしょ?」と聞いた。彼は笑って「考えたことない!でも言葉がわかるんだから、たぶんそうだね」と言った。
それ以来、一旦レカノラはその話題を両親に振るのをやめた。もう少し大人になったらいつか聞いてみようと思ったまま、その日は永遠に来なかった。
父も母も、そして芽農の何人かも、元々地上に住んでいたらしい。母さんが言うには、地上は明るくて暖かくて人が大勢住んでいるそうだが、レカノラはまだ行ったことがない。常陰には生きていくのに必要な食べ物・水・衣服の材料になるようなものがほとんどないため、それらの入手はレカノラたちにとって最も重要なことだった。代わりに、燃料になるような石炭や石油、金になるような鉱物などは偶に手に入ったので、芽農が売ってくれる食べ物や衣服や種と交換して生活していた。しかし、芽農が定期的に近くを通るという保証もなかったため、もう一つの生命線である“植物採取”や“資源採掘”も欠かせなかった。
その日は朝から天気が良かったので、お母さんにお願いして植物採取に登った。植物採取とは、北崖に打ち込んである杭とロープを頼りに上に登って、採取場所を決めて足場を設置し、蔦や木や虫を採ったり、罠をかけて蛇やカエル、ヤモリや野ヤギなどを狩ることをいう。常陰の底地にあっても垂直に数キロも登れば、日照時間が長く動植物が多く生息している地帯に辿り着くことができる。そこには地下通路の終端である横穴も幾つか空いているので、うまくいけば普段会わないような芽農や地縫いと売買もできたりする。
杭とロープは母が増設に改築を繰り返して縦横無尽に広がっている。レカノラは腰に回した金具にカラビナ付きロープを二つずつ垂らし、それをロープにくぐらせながら上に登った。ロープはある一定の区間で杭に通してあるので、区間移動のときに必ず片方の金具を付けた状態で付け替えをすれば最悪手を離してしまっても地面に落下することはない。しかし、勿論壁にたたきつけられることも、金具が外れることもあるので、手順を間違えてはいけない。
レカノラは自分の腕に自信があった。九歳を過ぎたころからぐんぐん足腰が成長して、毎日背が伸びていた。その日は特に天気が良く、空を少しでも近くで感じたい気持ちが先行して、途中からロープも使わずに素手と脚だけで崖を上ったほどだ。
レカノラの母は元々安全ロープを使わずに崖を登ることができる。この足場と命綱は、レカノラのために拵えてもらったものだ。レカノラは、自分もお母さんのように力強くしなやかな身のこなしができるようになっていることが嬉しかった。
そうして、途中から素手で崖を登り、ついに安全ロープの頂点まで登った。
実は、母には「安全ロープが敷いていないところには登ってはいけない」とキツく言われていた。しかし、レカノラはそれを、落下の心配による言葉だろうとだけ考え、(落ちなければいいんだろ、落ちなければ。)と安全ロープ最終区間に命綱をひっかけてさらに上に登った。万が一手が滑っても崖にたたきつけられないように気を付けていれば平気だ。
そこから十分ほど登ったとき、はるか上のほうに人影が見えた。
レカノラは両親以外の人間とも喋ったことがあるが、皆霧の中を歩き暗闇に去っていく者たちばかりの“常陰”の人間で、誰一人として“上”から降りてきた人はいない。
もしかして、地上の人かもしれない。お母さんには近づくなと言われているけど、喋りかけてみたい。もっと上に登りたい。でももう命綱が足りない。レカノラは、自分の筋肉や腕・脚がまだまだ元気なことを確かめると、崖に杭を打ち付けベルトから命綱を外してそこにひっかけ、完全に身軽になって登り始めた。
すると人影は、俊敏に全員同時に動きを止めた。次の瞬間、猛烈な勢いで“崖を落ちてきた。”
自由落下より早いのではないかと思うような勢いで駆け降りてくる彼らを、レカノラは目を丸くして仰ぎ見ていた。彼らは、母さんと同じかそれ以上に速い。そのうちが一人があっという間にレカノラと同じ高さまで降りて、近くで止まり、残りの者たちがさらに下に駆け下りた。
レカノラと同じ高さでとどまったひとり――たぶん男――は、頭の右側が不自然に剥げていて、生まれてこの方一度も見たことのない美しい青緑色の瞳をしていた。ため息が漏れるほど透明で鮮烈な青だった。河をさらってレンガをつくるときに時たま抽出できる青い銅とも、高いところでとれる深緑の葉っぱとも違う、この世にこんな色があるのかと思うような不思議な輝きだった。
男は片腕に弓のようなものをつけていて、手の甲に動物の刺青が彫ってあった。レカノラは刺青を知っている。母が肩に水牛の刺青を入れているからだ。男の刺青は水牛よりもっと細長く、高いところでごくまれに現れる岩羊によく似たうねる角を持っている。
目が合った一拍後、男は弓の腕をレカノラに向けた。なにも考えられなかったけど、反射的に身体が震えて間一髪のところで避けた。身体をひねったのと同時に、手が滑ってまっさかさまに落下した。途中でバチンとロープが張って、母さんがレカノラのロープを掴んでいて、わたしのロープを杭に引っ掛けてくれて……その母さんに誰かが槍を投げて…………母さんが槍を弾き落として……『安全ロープを掴んで!ノラ!』……母さんの叫び声……金属音──……。
――その後のことは思い出せない。
そうだ、わたしは上から落ちた。
母さんは上から来た奴らに何かされて……誘拐された?…………殺された?
そのとき、地苔の放つ燐光で仄明るい川上の方で、炎の揺らめきが見えた。レカノラははっとして立ち上がった。
レカノラと青い山羊 白森錆 @shoka5
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