レカノラと青い山羊

白森錆

第1話 始まりの冷たい夜

 暗く閉ざされた霧の中に、子どもが倒れていた。

 伸ばしっぱなしの長い黒髪は湿気に濡れて、血色の悪い唇はやつれた印象を与えるが、実際は齢十歳ほどの女の子だ。彼女は、地べたに放り出した掌の真ん中に黒子のような青い痣を持っていること以外、ごく一般的で健康な見てくれをしていた。


 冷たい霧が喉に流れ込む。

 目を開ける。暗い。背中が冷たくて、硬い。どうも、仰向けに寝転がっているようだ。何度か瞬きしてみると、右手に聳える高い崖が落とす陰のはるか向こうに、群青色の空が見える。日中なら、南北にそそり立つ高い高い崖に挟まれた細長く白む空が見えるはずだけど、薄暮の時間には全てが暗闇に隠れて空も土も輪郭があいまいになる。

 どうしてこんなところに大の字で寝ているんだろう?頭が痛い。わたし──レカノラは、担当している家事の一環でよく崖に登る。さっきまで何をしていたか思い出せないけれど、食料採取か洗濯物を干している最中に“安全ロープ”を掴み損ねて落っこちたのかもしれない。

 周囲は真っ暗だ。もう夜なのかもしれない。いや、“まだ”夜なのかもしれない?肌寒い。思わず肌をさすると、木綿下着の上に羽織った毛皮の胴着が湿気を吸って冷たくなっているのがわかる。レカノラはぐっとお腹に力を入れて身体を起こし、勢いよく立ち上がろうとして尻もちをついた。

 少し眩暈がする。

 レカノラは頭の後ろを触って傷がないか探り、指を顔の前に持ってきて血がついていないか確かめた。痛いところはないし、指に血もついていない。吐き気もない。

 薄暮に目が慣れて周囲を見渡すと、洗濯物干し機の滑車が下まで降りて、目印の黄色い旗がダランと垂れ下がっているのが見えた。そこから視線を徐々に家の方に向けていくと、見慣れない長い棒が地面に突き刺さり、そこに大きなゴミが引っかかっていることに気づいた。

 ゴミ………。

 レカノラは瞬きして、それがゴミではなく人間であることに気づいた。

 人が……人間が、背中をぶち抜いた長い槍で地面と縫い留められている。――お母さん?お父さん? 一瞬そんな気持ちが頭をよぎると、突如足元の地面がなくなったような浮遊感に襲われ血の気がひいた。レカノラは今度こそぐっと脚に力を込めて立ち上がり、弾かれるようにしてそれに駆け寄った。

 よく見ると倒れているのは一人ではなく、自分が寝ていた場所を中心に点々と、めいめい身体のどこかから血を流して、或いは短い槍で貫かれていた。頭の下に赤黒い染みができていたり、首が明後日の方向に折れていたりして、確かめるまでもなく全員死んでいる。(ように見える。)首が真後ろを捉えた時、まるで窓から放り投げた豆の殻のように横たわっている人間が、自分の父親だとわかった。

「お父さん!!」

 地面でつんのめりながら、慌てて駆け寄った。

「え、おとっ、お父さん!お母さん、お父さんが!」


 レカノラの父、スズリは、黄みがかった肌に夜空のような髪を持った、静かな人だ。母さん──レキデアが、よく笑いよく怒る苛烈な瞳を持つのに対して、スズリはいつも少しやつれた眼差しでもって静かにレカノラを見た。スズリは、レカノラが言いつけを破ってついつい高くまで崖を登って墜落し宙づりになったり、安全柵を無視して河に近づき足を滑らせて溺れかけたりしては母親に怒られている様子を、いつも困ったような顔で見ていた。

 スズリはいつも優しくて、声を荒らげるところなど一度も見たことがなかったが、夜、レカノラが寝ていると思い込んだ両親が二人だけの時間を過ごすときは、なにかよそよそしい乾いた声色で大人の話をした。御簾の隙間から伝わる細やかな振動を聞くたびに、もう少し大人になったらわたしにもあの声が向けられるようになるのだろうかと考え、胸がくすぐったい気持ちになる合間にいつの間にか寝てしまうのだった。


 地に伏す他の三人と違って、父はどこからも血を流していなかった。懸命に呼びかけながら、レカノラは父の身体を揺さぶった。胸に耳を当て、口元に手を翳して鼓動を確認して、母に教わった蘇生法を試した。しかし、腕が疲れて一旦休むまで父の心臓を押し続けても、彼の身体はぴくりとも微動だにしなかった。

「お母さーん!お父さんが、し……死んじゃう!お母さん!!」

 底地は刻一刻と闇が深まるばかりで動くものはない。レカノラが絞り出した大声はただ北壁に反響して霧散し、冷たい風の中に消えていく。

 常陰の底地は巨大な断層の一番低い場所なので、一年中草木の乏しい暗くて灰色の世界だ。しかし、レカノラはそれを寂しいと思ったことはなかった。両親はよく寝物語で、ずっと上に崖を登った霧の向こう側には、色とりどりの草木や動物や鉱物によって長い時間をかけて作られた美しい景色が広がっているのだと語ったが、底地の景色も負けずに美しいものだとレカノラは思っていた。

 物心ついた頃から見慣れた景色が、今は全く知らない別の場所になってしまったようだ。まるで初めて訪れた異国の地で、途方に暮れた旅人になってしまったような……。

 どうしてこんなことに?お母さんはどこなの?そもそも、お母さんが近くに居るなら、わたしをあのまま寝かせておくのはおかしいし、お父さんの死体をこのままにしておくはずもない。

 つまり、今、わたしはひとりだ。



 突然気持ちが悪くなって一度吐いた。頭はまだ鈍く痛い。

 レカノラは、父の首に手を当てて静寂の中に脈拍らしきものを探るのを一旦やめて、フラフラと立ち上がった。父を助けるにしろ、母を見つけるにしろ、とにかく何かしなくてはならない。レカノラは、母親の死体が転がっていませんようにと願いながら周囲を駆けずり回って、次第に涙が頬を伝い、服が冷たくて寒さを覚えるくらいになるまで探した。でも、住処以外障害物もなく見晴らしのいい底地には、幸か不幸か母の痕跡は何も得られずに、ぐったりと首を垂れて父親の傍に戻った。

 父の周囲に倒れている人間は三人いて、皆父よりも母よりも大柄だ。顔が見えないので分別つかないが、全員同じ黒い肌着に見慣れない毛の長い白いベストを着ている。毛の白い生き物といえば、イタチや山ヤギなんかが近いが、波打つ光沢を持つ獣は想像できない。腰にはクライミング用のロープを通す装備がついていて、背中や太ももに渡している紐は身体を安定させるためのものだということが想像できる。かなり凝った装備だ。

 そんなことを考えながら、とりあえず一番手前で串刺しになっている男の傍でしゃがんで、彼の肩をぐっと持ち上げてひっくり返そうとした。しかし想像以上に身体が重く、肩を持ち上げた手袋がじゅくじゅくっと滑り、男の身体がレカノラの肩にもたれかかった。怖気がして一度離れた。

 仕方がない。横着するのはやめて、レカノラは、男を地面に縫い留めている長い棒を両手で引っこ抜くことにした。棒は金属のような光沢があり、柄の上の方に蔦が絡みつくような模様が刻まれていて、引き抜くと先端には銀色の鋭利な刃物がついていた。棒じゃなく、槍だ。男の背中に埋もれていたところから下はベットリと固まった血の痕が残っている。

 レカノラは槍を両手で抱えて力いっぱい放り投げた。背中から棒を引き抜いてもそれ以上血は出てこなかったので、再度男の腕と脇の下に両手を入れてぐっと持ち上げ、身体を転がした。

 男は、黒い肌着に毛足の長い灰色のベストを着て、顔の目から下を灰色の布で覆っていた。布で隠れていない部分は、青白いような黄色いような色に変色し、半開きの瞼の隙間からうつろな黒い瞳が覗いている。よく見ると、肩から手首にかけてまっすぐ切り傷が走り、赤黒く肉が裂けている。切り裂かれた服の下からは、肩から二の腕にかけて精巧な刺青が覗いている。うねる二本の太い角が特徴的な、羊の刺青。

 うねる二本の角。羊の刺青。これを見たことがある。

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