五 無知の値
あれから一週間ほど経っただろうか。普段よりも長い時間寝てしまったグリムが昼過ぎに起きると、インテリジェンステーブル(リビングに置いてある、モニターが備え付けられた銀色のテーブルのことだ)を眺めていたジェンダーがこちらを見て話しかけてきた。
「知ってる? 今朝、ゴッホが死んだって」
「ゴッホ? ……ああ」
あの人のことか、とグリムは思い当たった。現代で、ゴッホと呼ばれるほどに著名な画家は一人しかいない。
「死因は?」
「いつもと同じ、突然死」
「そうか」
その死因が真実ではないと、言い換えるならば「実際に起きた現象を正確に表現したものとはいえない」ということを、少なくともグリムとジェンダーだけは気づいていた。現代でゴッホと呼ばれた繊細な画家は、確かに自分の意志で死んだのだ。
では自殺したのかといえば、それもまた適切な言葉ではないかもしれない。かつて行われた人権運動の果てに個人が自殺をする自由は認められているし、自殺に至るための制度も法的に整備はされている。ただし、それは少なくとも現代では利用されてはいない。この制度では衝動的な自殺行為での濫用を防ぐために、対象となる個人の自殺への欲求が科学的に説明できることを要件としていたからだ。
高度に発達した科学の揺り籠の中ではほとんど全ての人間が安楽な生に微睡み、自殺など考えもしない。彼らにとって自殺は非科学的合理性によらないもの、つまりは形而上の彼方に葬られた占星術や錬金術と同じ類のものであって、現実に存在するものではない。彼らにとって科学とは世界の形そのものであり、彼らの意識はどこまでも拡大して世界=科学と一つになっている。誰も主体としての自分を否定することはできない。「我思う、故に我あり」というやつだ。我は世界であり、世界は科学である。
それでも一握りの人間は、安楽に満ちた世界の隙間を独りでに見つけ出してしまう。まるで
このジレンマを前にした社会は解決策と言うにはチープな、ひとまずの落としどころを用意する他なかった。それこそが第三者の手を借りた「自殺もどき」であり、グリムはそれを生業として多くの人達を「世界の外側」に葬り届けてきた。それは科学と人権のどちらにとっても、そして何より今を生きる大多数の人間にとっても都合が良い。今では歴史なんて誰も真面目に学ばなくなってしまったが、人間の社会というシステムはいつも
もちろん、自殺を望む当人にとっても死ぬことができるのは都合が良い。誰も困らない。誰ひとり不幸にならない。安楽世界は今日も変わらず回り続ける。
「ああ、そういえば」
と、ジェンダーは思い出したようにつぶやくと、指を二回鳴らした。合図通りに正方形の自走ロボットがやってくる。その上には、ロボットのよりも二回りは大きい幅の四角い何かが置いてあった。
「君に届け物だってさ」
促されるままにグリムが梱包を開くと、見覚えのある青々としたキャンバスが額縁に納められた状態でその姿を現した。
「へぇ、絵画か。君が芸術に興味を示すなんて珍しいね。誰の作品?」
「さあな。別に、自分で買った物じゃない」
言葉の世界に沈みがちなグリムと違い、ジェンダーはよくオンラインショップで個人製作の絵画や音楽を好んで売買していた。ジェンダーが言うには、さながらファッションのように、人々は芸術品をシーズンが変わる度に買い替えているようだ。
「ああ、それは壁に向けると勝手にくっつくようになってるんだ」
「そうなのか」
どのように壁に飾るものかと苦戦していたグリムを見かねたジェンダーが助言する。その言葉の通りに額縁の背を壁に近づけると、センサーか何かで感知しているようで、吸い込まれるように絵画は壁に張り付いた。スゥと空気が抜けていく音を聞く限りでは、おそらく吸盤のような部分が壁にくっついてから、隙間から空気を抜いて真空状態となるようになっているのだろう。
「お前は、この絵を見てどう思う?」
「うーん……最近の画風ではないね。十九世紀の印象派の雰囲気がある。それこそ、最初のゴッホが描いていたようなやつみたいな。それがどうかしたかい?」
「いや」
すらすらと流れるような文化的知識を軽く聞きながら、グリムはふと、部屋の隅でシアが何かをしているのが気になった。小さなタブレットで、どうやら絵を描いているようだ。
「絵を描いているのか?」
「うん。そう」
画面を覗き込むと、絵画と呼ぶには稚拙な、しかしどこか愛おしいようなものが見えた。ああ、彼が言いたかったのはこういうことなのだろうかと、グリムは思った。
「絵を描くのは楽しいか?」
「うん」
シアの返答に、グリムは微笑む。
それは、少女と出会ってはじめて男が見せた笑顔だった。
安楽なりし生は 詩野聡一郎 @ShinoS1R
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