四 情報という額縁
昼間と同じように市営の自動運転タクシーに乗りながら、グリムと名付けられたばかりの男は全方位スクリーンを外景モードに切り替え、まるで車の壁越しに透視するかのように、夜闇に浮かぶいくつもの光の明滅を眺めていた。自動運転車の珍しく広告は流れておらず、走行中の風をエネルギーに変えるため車のフロア下に隠れるように組み込まれた小型風力タービンの音がカラカラと聞こえてくる。光点は遠いものが高く、こちらに近づいてくるにつれて低くなっていく様は、空の星を地上に閉じ込めた滝のようだ。そして今は暗くて見えづらいが、都市の中央には光る滝の大瀑布の中心に、ひと際高い塔が立っている。電波を送信する機能を備えた太陽熱発電用の塔であるそれは、言うなればこの都市の要石であった。
パラボラアンテナのような形で再整備されたこの計画都市には、十六の区画が設定されている。特に零から九までの十区画は情報技術や行政、司法や金融をはじめとする中心的な都市機能で構成された上位区画であり、一般的な住人の居住区とエネルギー施設などから成るAからFまでの残り六区画とは一線を画した扱いにある。
とはいえ、何も犯罪率に大きな差があるというわけでもない。人々が雑用の大半をロボットに任せるようになって以来、犯罪率は場所を問わず低水準で推移している。そのデータは、争いの本質は人と人が顔を合わせることにあるということを意味していた。要するに、会わなければ憎みようがないし、話さなければ争いようがないのだ。
それでは上位区画と下位区画で何が異なるのかといえば、それは市民の財産の量というありきたりな要因を一つあげることができる。しかし、それ以上に大きいのは文化的なバックボーンに他ならない。
九区。そこは画家や音楽家をはじめとした芸術を生業とした人々の活動拠点として設定された区画であり、この都市で最も平均年収の高い区画の一つであった。
「はじめまして。今回担当になった、ナンバー三〇四八〇六八一です」
グリムは建物に入ってすぐ、目の前の男性に挨拶の言葉をかけた。手元には長方形の専門端末が握られており、その表面からはグリムの身分を証明する立体ホログラムが投影されている。
対する男性は灰色の長ズボンに紺色のシャツを着て、首からエプロンをかけていた。エプロンの表面には様々な色合いが同居していたが、とりわけ青色が多いようだ。
そして、男性はホログラムの内容をろくに確認しないまま、嬉しそうな表情を浮かべてグリムの手を握ってきた。
「いやあ、はるばるこんなところまで来て頂いて、本当にありがとうございます。今日はよろしくお願いします」
そのまま男性はグリムに背を向け、軽い足取りで広い建物の二階の方へと歩いて行ってしまう。背後のドアのオートロックの音を聞きながら、グリムは少しだけ急いで男性の後を追いかけた。
凝りすぎないシンプルな意匠が施された手すりを指先で感じながら、グリムは二階へと上っていく。その中で、階段に沿って飾られている大小様々な絵を眺めていたが、素人目に見てどれも素晴らしいもののように思えた。
そして階段を上り終えたところで、立ち止まっていた男性にようやく追いつくことができたので、グリムは声をかける。
「俺の身元をちゃんと確認しなくていいんですか?」
「ああ、大丈夫です。これでも見る目には自信があるんですよ」
グリムの言葉を意に介さず、男性はそのまま二階の大扉を開けて奥の方へと歩いて行く。開け放たれた扉の位置から見る分には、奥には広い空間の中央でスタンドに飾られたキャンバスがポツンと立ちすくんで見えた。そのすぐ側には椅子があり、その椅子の足元にはバケツがある。壁や床は白を基調としていたが、ところどころに異なる色合いの飛沫が張り付いている。誰がどう見ても、それは画家の仕事場であった。
「どうされましたか?」
「ああ、いや。なんでも」
気遣うような声に引っ張られて、グリムは室内に入る。男性は椅子に座り、キャンバスを眺めていた。
「不思議な場所だな、ここは」
「ほう。どのように感じられますか?」
グリムは自分の中に湧き上がる感覚を確かめようと、ゆっくりと回りながら部屋全体を眺めてみる。
「一見すると冷たいようで……どこか暖かさを感じる。誰かの腕に抱かれているかのような」
「へえ! いいですねいいですね」
存外に楽しそうな男性はそのままキャンバススタンドを回して、そこに嵌められた絵を見せる。
「じゃあ、これには何を見出しますか?」
一言で言えば、それは青い絵だった。鮮明な水色のような青から黒ずんだような青まで、様々な青のグラデーションが多層的に重なり合っている。ともすれば青空のようにも見えそうだが、しかしこれは海のように見える。全体としては暗い青の方が多いことがその理由であった。
その絵に何を見出せば良いのか、グリムにはわからない。グリムは画家ではないし、絵の評論家や鑑定士でもない。遠い昔に絵について学んだ記憶はあれど、学んだ内容は覚えていない。およそこの時代に生きる人としては珍しいことに、グリムは絵に縁のない人生を歩んできた。
なれば当然のこととして、絵の見方というものも皆目見当がつかなかった。だから、この大部屋に入った時と同じように、絵の中に入り込んで考えてみることにした。
「これは……海」
海と言っても、様々な海がある。青だけではなく透明に近いものもあれば、緑色のようなものもある。しかし、この絵を主として構成するのは黒に近い青。その暗さだ。
「深い海」
その世界の中に、もし自分がいるとしたら? そこに何が起こるか。
「沈む。深く」
光さえも届かない、より暗く深い海底へと落ちて行く。そこに生じる感情は。
「寂しい……悲しい……」
そうだ。ここには自分一人しかいない。見渡す限りの青の中に、他の存在は見出せない。人間どころか、魚一匹いやしない。
「一人だ。自分、ただ一人」
自分一人の時、自分は何を思っていたか。
「でも、落ち着く」
どうして一人だと落ち着くのだろう。
「そうか」
その時、グリムの中で何かがわかった気がした。それは他人と共有できるだけの確度をもったものではなかったが、グリムにだけは自然とそれが唯一正しいことかのように感じられた。
「生命の本質は、孤独なんだ」
「素晴らしい!」
男性は目を見開いて、心底喜ばしいことかのようにグリムを見ていた。
「私の世界の外側、重なりきらないところにあなたを感じることができた。これこそ主観的吟味の醍醐味だ!」
思わず男性が抱きしめようとしてくるので、グリムは慌てて手で静止する。
「おっと、すみません。つい興奮してしまいました」
「えっと……それで、正解はなんだったんですか?」
「正解……ですか」
急に男性はがっかりした表情を見せる。
「正解はありません」
「正解が……ない?」
「ええ。そもそもこの絵に私は何も込めていない。だから見出せるものなんてあるはずないんですよ。もしそこに何かが見出せるとするならば、それは作り手の意思を超えた先にあるものでしかあり得ません」
グリムは絶句した。それでは、これは落書きのようなものだったとでもいうのだろうか。
「がっかりさせてしまったかもしれませんね。でもこれこそが、私が死にたい理由なのです」
「どういうことですか?」
男性は手慰みにでもするように、バケツに差し込まれたままの筆をとりだし、その先端を指で撫で始めた。
「あなたは、絵をどのようなものだと思っていますか?」
「どのような、ですか……」
「飾るものでしょうか? 描くものでしょうか?」
「あるいは、語るもの……多くの人達の間で共有されるものでしょうか」
「その通り」
言葉とともに筆の先端が、グリムの方へと向けられる。
「技法、時代性、画家の歴史……絵には様々な情報が付属しています。しかし、それらの情報はキャンバスの中に描かれたものではない。しかし、人が絵について語る時の内容は必ずそこに行き着いてしまう」
「絵の本質が置き換わってしまった、と?」
「その通りです」
男性は筆の先端に青色の絵具をつけると、おもむろに筆を放り投げた。筆は放物線を描きながら小さな飛沫をいくつか飛ばして、最後には床に落ちて染みのような模様を作る。
「例えば、このような染みは私がただ何となく筆を放り投げただけで、意味なんてものはありません。しかし、私が筆を放り投げてできた染みという情報は、意味をもってしまうのです」
「この染みがついた床を切り抜いて、その情報を添えるだけで十分すぎるほどに芸術作品として扱われてしまうだろうな」
「そこには価値が定められ、値打ちが決められる。私はそれがたまらなく心苦しいのです」
「絵画を文脈によって価値づけることが好ましくないのですか?」
「いいえ、いいえ。そうではありません。それ自体には、何も問題はないはずなのです」
男性との会話は、グリムの手の中の端末に録音されている。こうして男性の言葉を引き出して保存することが、今のグリムの仕事だからであった。
「価値というものは厄介なものです。それはこの世界では数字に変換され、わかりやすい指標となってしまう」
「そうかもしれない」
「ええ、ええ。しかし、絵というものはそれだけだったでしょうか。描くとは、情報を作るという意味だったでしょうか。もしそうであるならば……つまりは描くという行為そのものが価値であり、数字であるのならば、描かれる絵はどこに行ってしまうのでしょう? 私は何を以ってこれで好しとし、絵を完成させるのでしょう? 未完成でもそれに付随する情報が絵に価値を与えてしまうのであれば、どのように」
「つまるところ、あんたは何を望んでいたんだ?」
「私の望み……ですか」
男性は虚空を見つめて、少し考え込んだ様子を見せる。そして何かを思い出したかのようにキャンバスを眺め、次いでグリムへと目を合わせた。
「絵を、もう一度純粋に楽しみたかった。見る人にも純粋に楽しんで欲しかった。あなたのように」
「俺のように……」
「ええ、ええ。先ほどあなたがこの絵を見て感じたようにです」
そう言われて、グリムは青い絵をもう一度眺めてみる。とはいうものの、先ほどと何か違うものが見えるわけでもなく、何も変わらない同じ絵のように見えた。
「私にも、そして多くの人々にも。かつては純粋に絵を楽しんだ瞬間があったはずです。そこに自由に何かを思い描き、自分だけの世界を作り上げたはずです。ほんのわずかな一瞬だったかもしれませんが、きっと子どものときにでも」
「あんたはその頃に戻りたいのか?」
「もう、叶わぬ願いです。私は学びすぎました。もはや技法を操る喜びも、型を破る悦楽もありません。型を破るということは、型に破らされているということに他ならない。どこまでいっても型からは逃れられず、もはや純粋な気持ちに戻ることは叶いません。そのことが、なんだかとても寂しいのです」
「なるほど」
「ああ……あの純粋な時間は、いったいどこに消えてしまったのでしょう」
グリムは端末をスーツの懐に戻す。必要な情報は得られたのだから、これ以上はこの場に留まる必要はなかった。
「私は、死なせていただけるでしょうか」
グリムが帰る気配を感じた男性が問いかけてくる。
「どうでしょうね。俺が判断することではないので」
「もし許可が下りたとしたら、あなたが担当されるのですか?」
「それもわからないことです」
「そうですか……」
聞き取り役と実行役は異なる人間が行うことが多い。この人が死ぬにせよ死なぬにせよ、おそらくはもうこの男性に会うことはないだろう、とグリムは考えていた。
「でも、あなたであればいいなと思います」
「そうですか?」
「ええ。その時には、あなたの絵を見せてくれますか?」
「……もしそうなったら、あなたのことを描いてみましょう」
ふふ、と男性は静かに笑う。グリムはそれに笑みを返さないまま、男性の家を後にした。
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