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 家に入った男は手を繋いだままの少女を待たせ、虚空に手をかざす。周囲のカメラが男の静脈パターンを読み取り、家主に代わってドアの鍵を閉めた。

 そのまま二人は玄関から廊下を通り抜け、リビングに入る。無菌質な白い箱の形をした部屋の中で、焦げ茶色の本棚がひときわ存在感を放っている。銀色のテーブルの表面には、人の存在を感知して本日のオンラインニュース記事がいくつも浮かびあがっていた。

 部屋の端にある黒いソファを指さして、男は少女の方を見た。

「座りな」

 少女は小さく頷くと、言われた通りにソファへと向かい、腰を下ろす。とはいえ手を離してはくれなかったので、男は引きずられるようにして一緒に動かざるを得なかった。

「離してくれないか?」

 言葉に反して少女は手を離してはくれないようなので、男は少しだけうんざりした顔をしながら指をパチパチと二回ほど鳴らした。

 すると、その音に反応して隅の方から正方形の自走ロボットがゆっくりとやってきて、ソファの傍で止まる。

「ベーシックフードを持ってきてくれ」

 指令内容を了承したことを軽快な高音で示しながら、自走ロボットがキッチンの方へと向かう。

 程なくして自走ロボットが戻ってくると、その上には赤と緑、そして黄のキューブ状の物体とフォークを載せた皿が置かれていた。

「ほらよ」

 皿を取った男は、そのままそれを少女の目の前のテーブルに置いて見せる。

 しかし、少女はよくわからないといった表情を顔に浮かべたまま、一向に動き出す様子はなかった。

「食べていいんだぞ」

 それを合図とするかのように、少女は男から手を離してフォークを握り、カラフルな栄養食の角をほんのわずかに切り崩して口に運んでいく。

 男は、ようやく解放された手をスーツの懐に差し込んで棒状の端末を取り出し、それを警棒のように伸ばす。その側面からは、ハードカバーサイズの平面的なホログラム画面が展開された。

「何が書いてあるの?」

 咀嚼しつつ傍らからのぞき込む少女にとってみれば、画面には難解な文字が羅列してるようにしか見えなかったようだ。

「歴史だ」

「歴史?」

「今となっては意味のないものさ」

 そう言って、男は読書を続ける。少女はというと、少しばかり文字を眺め続けていたもののそこに楽しみを見出せなかったようで、より生物的な欲求を満足させることにしたようだ。

 二人が無言のままお互いの行為に興じて五分ほど経った辺りで廊下の先、玄関の方で物音が響いた。

「思ったよりも早かったな」

 端末を畳んで懐に戻し、音の鳴り処へ向かおうと男は立ち上がったものの、慌てた様子の少女がスーツの袖を掴んでくる。

「別にどこにも行かないよ」

 その言葉で少しは安心してくれたのか、どうにも感情を読み取れない目を向けたまま、少女は袖を掴む手の力を緩めてくれた。さて向かおうと思ったところであったが、どうやら音の主がこちらに来る方が早かったようだ。

「うわ、本当に拾ってきたんだ」

 リビングに入ってきた人物はベージュのコートに身を包んだ長身で、手には黒革の手袋を嵌め、灰色の髪を流した中性的な顔立ちをしていた

。奇妙なものを見たと言わんばかりのその様子に、男は嫌そうな表情を返す。

「なんだその反応は」

「いや、君が人助けなんて天地がひっくり返ってもないと思ってたからね」

「俺をなんだと思ってるんだ」

 やり取りも程ほどに、その人物はソファに座ったままの少女の前に立つ。そして膝を折り、少女に目線を合わせた。独特な紫色の瞳が、少女の青色の瞳に向けられる。

「やあやあ。僕はゼンダ。よろしくね」

 差し伸べられた手を、少女は不思議そうに見つめている。

「ジェン……ダー?」

「あは、聞いた? ジェンダーだってさ」

 ジェンダーと呼ばれた人物が笑いながら男の方を向くと、男は肩をすくめて見せる。

「まあ、あながち間違ってはないな」

「面白いよね。それじゃあ、僕はジェンダーだ。改めてよろしく」

 ジェンダーは少女の手を勝手に握って二度ほど上下に揺らすと、満足したように手を離して立ち上がる。

「それで、君は?」

「君は、とは?」

「君はなんて呼ばれてるの?」

「俺は――」

「グリム」

 男はジェンダーの問いに答えようとしたが、少女が声をあげるほうが早かった。

「グリム?」

「だそうだ」

「へぇ、随分と洒落た名前じゃないか」

「そうかね」

「うんうん」

 興味なさげな男の様子に対して、ジェンダーは自分一人が楽しいとばかりに頷いている。

「いいんじゃない。どうせなんて呼ばれても構わないんでしょ?」

「まあな」

「それじゃあ、君は今日からグリムだ」

「はいはい」

 もう付き合ってられないとばかりに、グリムは本棚の傍にあるテーブルの下から椅子を抜き出して適当な場所に置き、本棚から一冊のハードカバーブックを抜き出してそこに座る。

 これは、グリムにとって「もうこれ以上は会話をしない」という合図であった。

「ああ、そうだ。あなたはなんていう名前なの?」

 大事なことを思いだしたという声音で、ジェンダーが少女に質問する。

「シア」

「へえ、いい名前だね」

「……」

 少女は不思議そうにジェンダーを見つめるだけで、特に喜んだりはしなかった。それを見ながら、ジェンダーは「ふむふむ」と何事かを考え込むような様子を見せる。

 すると、突然ピピピと音が響いた。その音は、リビングに置かれた銀色のテーブルから鳴っているようであり、部屋中に響いていた。

「電話、そっちみたいだけど」

「ああ」

 ジェンダーに言われるがままに、グリムは端末を再び取り出す。先ほどと違い、端末の先端は何かを示すように緑色に明滅していた。

「ちょっと行ってくる。シアの様子を見ててくれ」

 グリムは廊下に戻り、リビングとは別に二つある部屋のうち、一つの扉を開けて中に入った。そして首元に手を差し込んで、首にかけてある無線式の骨伝導イヤホンに付属したマイクを掴むと、折りたたまれたそれを立てて口元に合わせていく。自分なりに納得のできる形になったところで、グリムは端末のボタンを押した。

『ナンバー三〇四八〇六八一』

『認証。業務命令、一件』

『了解』

 人工知能からの自動的な連絡にやり取りを返すと、グリムの手元の端末がわずかに震えた。ソファで電子書籍を読んだ時と同じように端末を展開すると、これから行かなければいけない場所と、そこにいる人物の情報が市民登録ナンバーと共に表示されていた。

 内容に軽く目を通してからグリムは部屋を出て、廊下を通り抜けてリビングに戻る。すると、ジェンダーがフォークを掴んでシアにベーシックフードを食べさせようとしている光景が見えた。

「仕事?」

「ああ」

「どこ?」

「九区だ」

「うわ、変人区」

 二人がやり取りをしていると、シアがフォークの先端に刺さっていたベーシックフードを口に含んだ。

「わぁ、かわいい」

「ほどほどにしとけよ」

 シアは口の中の物をもぐもぐと咀嚼し、グリムの方をぼうと眺めている。

「良い子にしててな」

 その目はまだ不安そうにも見えたが、シアは嚥下の音で応えた。

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