嵐の後に旅に出る…。

宇佐美真里

嵐の後に旅に出る…。

経済的な其れではない別物の世界恐慌が息を潜めて少し経つ。

制限されていた時期も終わり、人々は一斉に移動を開始した。国内・海外。其れ迄の鬱憤を晴らすかの様に一斉に。連日テレビに映る…箍が外れた様に移動を開始した人々の様子を、ぼおっとしながら私は、ソファに身を沈め眺めていた。


「みんな凄い勢いだね…。沈静化前からきっと旅行の準備をしていたんだろうね?」

「其うだね…。きっと其うだよ。騒ぎが治まったら"いの一番"に海外に行きたいって同僚の何人かも言っていたからね…」

キッチンで珈琲豆をガリガリと挽きながら、彼が答えた。

「でも、まだちょっと…恐いよね…」

「其うだね…まだ怖いね」


挽き終えた豆をフィルターがセットされたドリッパーに丁寧に入れ、前以て電子ポットで沸かしておいたお湯を、微妙に温度を下げてからドリッパーにゆっくり注いで行く。温度は沸騰よりも僅かに低く、だが低過ぎてもいけない…らしい。初めに少量だけ注ぎ、粉全体に均等にお湯を含ませたら数十秒程其のままにして蒸らし、小さな『の』の字を描く様に、何度かに分けて更に優しくお湯を注ぐ。湯面が上から三分の一程度に迄、減ってからまたゆっくりとお湯を注ぐのだそうだ。


彼が珈琲に凝り出したのは、やはりあの恐慌で家に居る時間が長くなってからのことだ。正直、私はインスタントコーヒーでも充分なのだけれど、だからと言って彼の熱を上げることに、とやかく言うつもりはない。黙って座って居れば、彼が目の前に珈琲を差し出してくれるのだから。

挽きたての珈琲が佳い香りを立て部屋中に広がって行く。


「もう少し落ち着いたら、僕達も何処かに行こうよ」


「え?」意外な言葉に、私はキッチンの中の彼へと振り返る。

抑々、彼は外を出掛け回るよりも、家の中でゆったりとしていたいタイプだった。学生の頃にバックパックを背負って彼方此方飛び回っていた私とはタイプは逆だ。其んな彼だから、珈琲に凝るのも頷ける。其んな私だからインスタントコーヒーでも充分満足してしまう…のかもしれない。


「もう少し周りの様子を見て大丈夫そうだったら、僕等も旅行してみようよ…海外にでも」

「海外旅行は嫌いだって言ってたじゃない?」

「まぁ、其うだけど…。此んなことを経験した後だからこそ…かな」

「ふぅ~ん…。其んなこと考えてたんだ?」

腕を組みカップへと落ちていく珈琲を見つめる彼を眺めながら、私は笑って言った。

「まぁね…」

彼はカップから目を離すことなく、其うひと言だけ返す。

いつの間にか、テレビでは旅行ラッシュの話題を終え、街角グルメレポートが流れていた。ランチを食べ終えたばかりの私には、"お腹いっぱい"な話題だ。

「あ…。旅行自体はまだまだ先かもしれないけれど、パスポートの更新ならやっておけるんじゃない?僕もきっと期限切れだろうし」

「期限切れも何も、スタンプのひとつも押されたことないくせに…」

「そうだね…。作っただけだった」其う言ってインドア派の彼は笑った。


***


彼の煎れてくれた珈琲を啜りながら、「パスポート…何処にしまってあったっけ…」と考えてみる。其う言えば、最後にパスポートを使ったのは何時のことだっただろうか?何処に行った時だっただろう?もう随分と前のことだ。暫く使った覚えがない…。


「あ…。パスポート、更新する時に苗字も変えないと!」

私は、隣で珈琲カップを口に持っていこうとする夫の顔を見て、言った。

夫は何も言わず、ただ笑ってみせた。



-了-

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