言霊を食む

ゆずりは わかば

第食話 夜食

 階下で物音がしたので、不意に目が覚めた。時間はわからないが、深夜であることは確かだった。

 男は、「なんだか腹が減ったな」などと呑気なことをつぶやきながら、足元の崩れた古本の山を跨いだ。男は、売れない小説家であった。

 男の部屋は、湯を沸かす程度しかできないようなしょぼくれたガス台と、古びた食器棚、ほこり臭い押し入れと、かび臭い万年床で構成されており、深夜に小腹を満たせるようなものは見当たらない。

 狭い部屋をいくら見渡しても、酸っぱい匂いのする湯飲みくらいしかないのだ。男は、しばらくぼぅっと立ち尽くしていたが、不意に手を入れた懐に何かを見つけて、笑顔を見つけた。

 男が見つけたのは、萎びたアンコウ型の懐中汁粉であった。


「どこにやってしまったかと思ったよ」


 と、最中の皮を撫ぜながら、男は湯を沸かし始めた。どこぞで拾ってきたであろう真鍮の薬缶が湯気を拭き始めるのに、そう時間はかからなかった。

 湯飲みを軽くすすいで最中をそこに割り入れ、熱湯を注ぎ込むと、あんこが水分を取り戻して甘い香りを漂わせ始めた。

 竹の箸で湯をかき混ぜると、より一層湯は色づき、とろみがつく。男は、どこぞの方角を散々拝んでから、汁粉に手をつけた。大方、汁粉を恵んでくれた奴が住んでいる方向であろう。

「金がないというのに腹は人一倍減る。金がないと思うと一層腹が減る気がして不思議である」

 などとつまらないことを原稿用紙に書き付けながら、男は旨そうに汁粉をすすった。萎びた最中の皮ををかじり、溶けきらなかったあんこの固まりを噛み砕き、男は笑顔を浮かべた。


「ああ、美味いな。こんなに美味いものが喰て、俺は幸せ者だ。もう死んでもいい」


 私は、天井裏から男の背後に降りて、声をかけた。


「な、なんだお前は!?」


 男は私の姿を見て、顔をこわばらせる。


「私はずっとお前を見ていた。お前の、その言霊をずっと待っていた。『死んでもいい』、そう言ったな」


「今のつぶやきか……? 確かにそう言ったかもしれないが、それは言葉の綾というもの


 男が、それ以上しゃべることは無かった。私が、男の頭をかじったからだ。

 ひさびさの食事を、私は心から楽しんだ。温かい体液を啜り、萎びた皮を齧り、強張った筋肉を噛み砕き、思わず頬がゆるむ。

 小説家だから、もっと早く言霊を溢してくれると思ったのだが、思っていたよりも待つことになってしまった。次はもっと口数が多い人間を選ぼう。

 そんなことを考えながら、まだ温もりのある食事を、天井裏へ引きずり上げた。ともあれ、今はゆっくりと残りを食べることにしよう。

 男の部屋の湯飲みからは、まだ湯気が立っている。

 小汚い下宿から男が一人消えたことを、気付くものはまだ居ない。


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