読みかけのディケンズ

「いま、盗ったろう」

 すかさず腕を捻り上げる。少年は怯えた目を私に向けた。

私たちのすぐ脇を馬車が駆けゆく。林立する工場の煙突の煙が曇天に滲む。薄汚れた公営の建物に混じって古びた救貧施設があり、路を虚無の如きボロ布どもが彷徨っている。

 少年はその瞳にこそまだ光が見えたが、凍てつくクリスマスの空の下、煤だらけの薄着だけ着て瘦せ細っていた。

「言いがかりだね。こいつは元々オレの物だ」

 少年はその本を庇うように抱えた。

「誤魔化すな。本の間に差し入れたろう。私が書いたばかりの記事だ」

 それはスクープだった。ある国でついに、長年密かに計画された蜂起が成功したのだ。領主は捕らえられ、処刑された。私は事件の仔細をまとめたが、原稿にはまだ推敲が要る。

「記事だって? この妄想がかい?」

「妄想ではない。それは事実だ」

「じゃあ、ここに書かれている国ってのは、領主というのは、この世界のどこに在るっていうんだ?」

「それは確かに此処ではないが、何処かで確かに実在したし、あるいは確かに実在する」

 私はため息をつく。スペキュラティヴ・ジャーナリストの仕事をここで説明するつもりはない。土台、理解などできまい。しかし、嘘ではない。

 人は自分が地を踏むこの世界しか信じない。それでも実在は変わらない。英知であるとともに愚鈍であり、信念でもあり、不信でもある、幾つものそれらの世界は幾重にも在る。私は私の思弁を巡らせ、それら世界の光の季節と闇の季節を、希望の春と絶望の冬とを、見聞きし、記事とし、また何処かの世界の誰かに伝える。

「さあ、返してもらおう」

 抵抗する少年を引き寄せ本を奪う。そこで、私はそれに見覚えのあることに気付いた。

 私は戦慄した。

「あり得ない。こんなものが、なぜここに」

 タイトルに手で触れ、震えながら頁を開くと、恐るべきことに誤りではなかった。同名物語を集めた掌編集。これを、取材の傍ら私は視たのだ、あの世界で。ゆえに、これはこの世界には実在してはならないものだ。

 少年の眼差しは、怯える私を射すくめるかのようだった。

「オレ、知りたいんだ。人びとはどの道を通って屋敷を襲う。彼らは何時に屋敷に着いた」

「どうやってこの世界にきた」

「教えてくれよ。あんた、記者なんだろ」

「……ボズ・フィールズとミル・バレーからの二路だ。襲撃はちょうど夕餐の時間に起きた。だが、それを知ってどうする」

 本を返すと、少年は大切そうに手に取った。

「父親なんだ。……あんな奴でも、さ」


 気付くと、目の前に少年の姿はなかった。

路には薄くみぞれが積もり、彼の足跡だけがそこに残った。




 まだ記事に起こしていなかっただけで、私は顛末を知っていた。夕刻、領主の私生児を名乗る少年が屋敷に現れ、襲撃を警告したのだ。それは後からみれば正確な予言だったが、領主は虚言とみなし、ただ少年の陋劣に怒り、その場で刺し捨ててしまった。


 蜂起の成功を見届けて以来、私はあの世界を視ていない。しかし気分の悪さは残って、何かできはしないかと苛まれる日々が続いた。

 あの世界は確かに実在したが、私はただ観測するだけで、干渉はできない。では、私のジャーナリズムとは何なのか?

 あの日、少年は私の前に現れた。

 彼が私の思弁であるなら、私もまた彼の、あるいは彼らの思弁であるのだろう。そして私の思弁は彼らの思弁と、私や彼らの世界ではない別の場所でも出逢えるはずだ。

 やがて、長い試行錯誤を経て、私はかの領主との再会を果たした。正確には領主自身ではなくその思惟とであり、場所もまた領主の世界ではなかったが、私たちは三度会い、私は彼に、私の知る事実を伝えた。

領主自身の過去のこと。彼が棄てた息子のこと。そして、彼の未来に起こった破滅を。


 ある朝、私は書斎に落ちる木漏れ日の中に一冊の本を見つけた。『読みかけのディケンズ』と題されたそれは、同名の掌編だけを集めた未完の本だ。開くと、物語は増えていた。

彼もまた思弁により世界を巡り、あらゆる可能性を蒐集していたのだろう。

 そして、物語はまた増えていく。

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紀歴の果ての断片詩(短編・ショートショート集) 久乙矢 @i_otoya

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