エンケラドゥスの強歩大会
「いや、それは必要ないんじゃないかな」
「いい加減にしろ!」
拳が叩きつけられて、厚い金属のテーブルがひしゃげる。衝撃が空間に残響する。
「森。オレは必要だから言ってんだ」
テーブルを4人の高校生が囲み、そのうち2人が睨み合っている。
揉め事の原因は進路のようだ。
1922年創業の我が県立庭崎高校は、今年で創立250年を迎える。
校是は月並みながら文武両道。伝統行事である強歩大会は、20世紀の頃には60キロを1日がかりで走る牧歌的な催しだったが、時代の前進に合わせて、その距離も逐次延伸されてきた。
競技がエンケラドゥス一周となったのは20年ほど前のことだ。
生徒たちは1ヶ月をかけ、直径500キロのこの衛星をひと回りする。
森、と呼ばれた生徒が反論をする。
「ラブタイト隧道から海に潜るべきだよ。確かに遠回りにはなるけど、海流は落ち着いている。それに比べてガリキスタのプランはリスクが高い」
対して、ガリキスタと呼ばれた生徒は荒げた声を響かせる。
「リスク、リスク、リスク! 森はそれしか言わねえ。南下してダマスカス溝から入ればイッパツなんだ!」
ここは小さな補給基地だ。ゲストは今は彼ら4人だけ。
一面ガラス張りの天蓋の外には、彼らの船が接舷しているのが見え、その先には地平線まで銀世界が満ちている。エンケラドゥスは太陽系で最も白い。
宙を仰ぎ見れば、主星である土星が重く佇み、輪の無機質な直線が鋭利にこれを裂いている。
*
ガリキスタは興奮を抑えることなく続けた。
「ダマスカス溝の蒸気噴出孔は確かに船に負荷はかかるが、一瞬だ。抜けさえすれば、サタン・フィッシュの生息域は目と鼻の先なんだ」
「一瞬だって? 厚さ10キロの氷殻を蒸気に抗って進むのに何時間かはかかる。そんなところで船が座礁でもしたらどうするんだよ」
「いつも通り、オレが外に出て何とかすりゃ解決だろうが」
ガリキスタは逞しい4本の腕をこれ見よがしにいからせた。強化人類であるガリキスタなら、極寒のこの星や、宇宙空間でも活動できる。
強歩大会にはチェックポイントが設けられている。衛星全体を覆う氷殻下の内部海、その南極近くに棲むサタン・フィッシュの捕獲もそのひとつだ。
エンケラドゥスの南極氷層には内部海に通じる孔がいくつかあって、孔は海水を強烈な蒸気として宇宙に噴出させ、土星の輪の外郭を作らせている。
「船なら森のルートの方が心配だろ。ラブタイトのトンネル自体は確かに安全だがァ? そこから海中を南進するのに何日かかる? 負荷ならそっちの方が高いし、何より時間がムダになる」
すると、森はメガネ手を触れ、神経質に位置を合わせる。
「それこそ要らない心配だね。不確定要素の多い蒸気噴出孔と違って、海中なら一日単位で未来が視える。危険が起ころうとも僕の予知の範疇だ。だから、ここで敢えてリスクをとる必要はないと思うな。ガリキスタは、太陽から遠いここでは光合成もできないんだし、身体を過信すべきじゃないよ」
ガリキスタは複眼のため表情は分かりにくいが、場の空気がさらに張り詰めたことは間違いなかった。
「予知って簡単に言うけどよォ」
ガリキスタの声が震える。
「森が予知に使う情報、誰が取ってきてると思ってやがる? 他のチームより予知の精度が高いのは、オレが身体を張ってるからだ。お前はそれを使ってるだけだ」
森はガリキスタの巨躯に比べれば子どものようだが、切れ長の目には怒りの色がはっきり浮かぶ。
ガリキスタは続ける。
「オレたちがいまサタン・フィッシュを喰えるのは、最初に食べた奴がいたからだ。でもそのときにもいたと思うぜ? 森みたいな、リスクがどうとか言ったやつ。けどそんな言葉を聞くべきじゃねえのは歴史が証明してるよな。あのとき宇宙に出なければ、人間は弱っちい姿のままで地球といっしょに滅びてた」
「開拓期のパス・ファインダーたちを悪く言うつもりは僕にもないさ。彼らの犠牲的探求は尊い。だけど、僕が言ってるのはそういうことじゃないんだよね」
「じゃあ、なんだ」
「冒険と無謀とは区別されるべきってことさ。人間は確かに宇宙にまで拡がったけど、その一歩一歩は常に慎重だった。もし人類がガリキスタみたいな奴ばかりなら、それ以前にアフリカすら出られず絶滅してたさ」
「なんだとォ?」
「大事なのは勝つことじゃない。生き延びることだよ。冒険はその手段に過ぎない」
「お前、つまんねぇんだよ」
ガリキスタが吐くように言う。
「つまらない?」
「森の話は、つまんねえ。森は結局予測の範囲でしか語れねえんだろ? だからありきたりのことしか出てこねえ。もう一度言う。面白くないんだよ、お前といても。それによ」
「『この強歩大会は恒産主義圏との戦いに備えた演習で、つまり本番じゃなくて、だからここで守りに入っても仕方がない』……だろ? ガリキスタの単純な考えなんてね、予知するまでもないんだよ。でもね、強歩大会ですらリタイアになったら、本番でだって軽率に死ぬのがオチさ」
「森、てめぇ!」
「いい加減にしてほしいのはこっちなんだよ! ガリキスタのせいで、何回チームが危険に晒されたと思ってるんだ。止めるのはいつも僕だ。その度につまらないとか言われてさ。だけどね、僕はね、おもしろいとか、つまらないとか、そんなレベルで話してるんじゃないんだよ。この強歩大会のためにずっと練習してきた、だから絶対勝ちたい、そうガリキスタは言うけど、君のやり方じゃ絶対ダメだ」
「黙れよ!」
衝撃が再び轟き、殴られたテーブルがさらに歪んだ。
「オレはこのチームを抜ける。オレなら1人でだって歩ける。その方がよっぽどマシだ。オレはもう森とは組めねえ。3人で行ってくれ」
*
「まあまあ、せっかくここまで来たんだし、みんな落ち着こうよ。それかジャンケンで、あっ、それだと森君が予知できちゃうから、多数決とか」
「サードは黙ってろ!」
「サードさん、そういうことじゃあないんだよ」
サード、と呼ばれた生徒は仲介を試みるも、2人に取り付く島は無いようだった。
サードは無機素子と融合した半機械人だ。その生命はソフトウェア化されており、船を動かすのもきっと彼の役目だろう。というより、彼が船であるというべきか。
半機械人は深層認識能力により他人の感情の機微をよく察するが、自ら意思決定をするのは稀だ。だから、こうした場面ではおろおろするしかないようだった。
すると、腕を組み静観していたもう1人が口を開いた。
「昔の高校生はさ、みんな揃って机を並べて勉強をして、強歩大会もただ走るだけだったんだよな」
それは穏やかながらよく通る、優しい声だった。
「それが今、こんな星で1ヶ月もレースするのは、同じ方法じゃ競争にならないからだ。みんな能力が違うから。だから、絶対一人じゃ解決できない課題にして、チームで初めてゴールを目指せる仕組みになってる。でも、それってどういうことなんだろう?」
「山西くんの言いたいことは、わかるよ」
と、森がメガネの位置を合わせて言う。
山西と呼ばれた彼は、続ける。
「結局オレたち人間は、宇宙に出ても、集団で生きる動物だ。ヒトは集団でまとまることで環境の変化に克ってきた。冒険するのも、守るのも、どっちも大事だ。オレはガリキスタみたいに身体が強いわけじゃないし、予知も、船を動かせるわけでもない。だから一人じゃ何もできない。でもオレは勝ちたい。この4人で最後まで戦いたい」
心地のよい山西の声音は、テレパス・ミュータントの特徴だ。彼らは相手の思考に介入し、その意志を曲げることができる。が、この場ではその能力は使っていないようだった。
「森。オレは森を信頼してる。ただ今回はガリキスタの言うことも一理ある気もしてるんだ。海中を長く航行するのはオレたちの船には負担だし、蒸気噴出孔も大きなリスクとは思えない。森がこだわるのは、何か、他に理由があるんじゃないか?」
訊かれて森は、黙り込んでしまった。
「その、笹原さん? てのが関係しているのかい?」
沈黙を破ったのは、サードの何気ない一言だった。
森は急激に顔を赤らめ、取り乱す。
「ちょ、サードさ、心を読むのは!」
「あっ、えっ、ごめ、まずかった?」
*
入学以来、クラスメイトの笠原ミホが好きであり、ちょうど彼女のチームがラブタイト隧道に着こうとしている。
という森の自白を引き出すのに小一時間ほどがかけられた。
ガリキスタは三たび目の拳を打ち下ろし、テーブルはついにV字に折れる。
「森、てめ、ふざけてんのか! だったら一択しか無えだろうが! サード、間に合うか? 笹原のチームはもう隧道に着くらしいが」
「森くん、僕の種は性別を捨ててしまったけど、それが君にとって大事なことはよくわかってる。ガリキスタ、船速制御は任せてくれ。必ず間に合わせる」
サードが胸を張り、山西が晴れ晴れと言う。
「出発だ」
サードからテーブルの修理費用を受け取った〈僕〉は、離陸する彼らの船を見送った。
地表に積もった氷塵をガラス片のように舞わせて、船は真っ白な地平の先に消えてしまった。
〈僕〉は物資の在庫をチェックし、基地の状態を入念に見直しながら、考える。
あの感情的なやり取りは必要なものだったのか。
情報交換の摩擦にあれほどのコスト支払いながら、なぜ共に過ごせるのか。
非合理な意思決定を四個もの独立した人格が同期的に遂げられたのは、何だったのか。
〈僕〉は強化人類とも、半機械人とも、テレパス・ミュータントとも違うから、そういうものだと思うしかない。
それが〈僕〉という個性だ。
だから〈僕〉は〈僕〉として、この強歩大会を走りぬく。
〈僕〉は1人、この基地を運営し、天蓋の彼方に回る土星の沈黙と語らい過ごす。そうしてすべてのチームを援けることが〈僕〉のゴールだ。
氷原からみぞれ状の結晶がきらめき、届く。
次の船が来たようだ。
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