紀歴の果ての断片詩(短編・ショートショート集)

久乙矢

墓場軌道

 地球は今日もにぎやかだ。小さな真球を包む薄い大気の膜の底で、昼の海と大地は蒼く萌え、夜はいくつもの銀河を集めたように繊細に輝く。でも僕は、僕の背のしばらく向こうで冷たく佇む月の方が好きだった。

 寿命を迎えた衛星は、高度約36000キロの静止軌道より少し上、いわゆる墓場軌道に遷移し、生涯を終える。ここが僕の住処だ。僕の発電装置にはまだ余裕があって、何なら他の廃衛星から部品もとれる。たまにすれ違う中継衛星が電波を届けてくれる以外は静かな場所だ。僕はここでゆっくり過ごす。

 真空を背景にして、旧い気象衛星が流れてくる。僕よりふた回りも大きな筐体は朽ち、ボロボロの太陽電池パネルを中途半端に広げたまま、ゆっくりと回転して陽の光を反射する。このまま悠久の時間を、彼は慣性の下に漂い続ける。すでに冷え切った彼の身体に僕は寄り添い、回転をわずかに抑制すると、地球の昼と夜の移ろいを共に眺めた。

 背中には月。僕は墓守。ここは静かで、穏やかだ。



 西暦が終わって何百年か経った頃、声が聴こえた。

 軌道上の全ての人工物は廃墟になって久しく、静穏を破る電磁波の粗雑さに僕は戸惑う。いや、僕は知っていた。最近、この数十年で、地球の周囲軌道が蘇ろうとしていることを。

 声の主は軌道遷移を繰り返し、どんどん僕に近づいてくる。僕は残骸に擬態し息をひそめる。けれども彼はついに僕の前に現れて、乱暴に推進剤を散らすと、相対的に静止した。

「へえ。アンタ、旧時代のシステムだよな。生きてんだ」

 未知のプロトコルだが、交信は確立された。なぜか意思も解釈できた。小柄ながら曲線を多用したその筐体のデザインは、異質さと、生命力とを感じさせた。

「おい、なんとか言えよ。名前は?」

「きゅ、QZS、SX9」

 僕は要求に応じて型式を発する。僕は第二世代多目的測位衛星システムの9号機。だけど仲間はもういない。

「ヘンなの! まあいいや。案内しなよ。ここアンタの縄張りだろ?」

「君のミッションは何?」

「ミッション? 知らねーな」

 <ウーコン>と名乗った彼は、驚くことに勝手に抜けてきたという。聞くと、彼の所属するシステムは構成各機に高度な自律性を許していて、僕の頃とはずいぶん設計思想が違うらしい。かつて、僕はシステムに従属し、同時に僕がシステムだった。それは月が地球に従属し、しかし月と地球でひとつの系を成すのと変わらない。

 という説明にウーコンは興味が無くて、僕が残骸を繋いで造ったお気に入りの太陽風避けテントや、大切にしまった核燃料、予備の計算資源を見つけては、断りもせず触って、宇宙線に晒して、僕を不快な気持ちにさせた。

「君はいったい何しに来たの?」

「何って、暇だったから。そういうアンタこそ何してるんだ? こんな場所で旧時代から、腐りもせず」

「僕は8号機までのバックアップだったんだ。だから僕は、この場所で待つことが任務だ」

「待つって何を?」

「任務を、さ」

 ウーコンは爆笑して推進剤を吹き散らし、回転を止めるためまた逆噴射した。空間に香るイオンの塵を払って、僕は嗤う彼を諫める。

「君に仲間はいないのか? いずれわかるさ。それが僕の弔いなんだ」

 ウーコンはまた推進剤を吹き出した。


 大破した戦闘艦がこの軌道高度まで漂着すると、ウーコンはそこに棲みついてしまった。けれども、彼の独り言や悪戯に悩まされた日々は、いま思えばわずかな時間に過ぎなかった。ある日、ウーコンは体積を5倍くらいに拡張して現れ、外宇宙を目指すと言った。

「地球圏は飽き飽きだ。アンタも行くか?」

 ところが僕は見つけてしまった。ウーコンのアップデートには僕の仲間の、唯一残骸を発見できた7号機の放熱機構が使われていた。僕は初めて他者を非難した。いや、罵った。

 すると、ウーコンは馬鹿にしたように電子音を真空に鳴らして、軌道離脱用のエンジンに火を入れ、数秒後には第三宇宙速度に加速した。

 再び軌道に静穏が戻った。僕は荒らされた住処をのんびり整えながら、にぎやかな地球を眺め、冷たい月に安堵した。



 その後も僕に交信を求める誰かは何度か現れたけど、僕はそのすべて無視した。

 そうして穏やかな時間を何千年か数えたら、地球が真っ赤に燃えてしまった。赤熱した地殻が全球に露出し、月は5分の1が砕かれた。人たちを乗せた何隻もの星間船が慌ただしく旅立つ。軌道上の資源はあらかたその資材として消化され、だけど、僕に声のかかることはなかった。

 月と地球の均衡が作る圏域に、すべての意識は絶えてしまった。そこには静謐だけが残って、そして静謐が無間に続く以外にもう何もない。僕ひとりを除いては。

僕は、墓守になってしまった。

 やがて、僕の身体をエントロピーが蝕み、宇宙の絶対零度と平衡を始める。永遠に思える、有限の速度で、ゆっくりと、ゆっくりと。

 月の狂ったような自転が止まない。


 すると、虚空から声が聴こえた。

 幽閑を破る量子振動の粗雑さに戸惑う。その原理は分からないけど、彼は僕を喚んでいた。そろそろこっちに来たらどうかと、何光年もの彼方から、暇を持て余して。


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