この雪が解けたら

香居

***

 腕時計が、午後九時を知らせてきた。

 残業と称してオフィスに留まっていた俺は、窓越しに降る雪を見ていた。

 真っ暗な空から、綿みたいな雪がアスファルトへと落ちていく。


 空調が切れるまで、あと一時間。

 意を決して窓を開けると、途端に室温が失われていった。誰かいたら怒られたに違いない。

 冷気に肌を刺されながら、窓の外へ手を伸ばした。手のひらに乗せた淡い結晶は……


「……っ……」


 すぐに、ただ冷たいだけの水になった。……どうやら、今日もダメだったみたいだ。


 願かけ紛いのことを何年も続けているのは、もう一度あなたに逢いたいから。

 この街にいる限り、あなたがいない現実を突きつけられるだけなのに、あなたと出逢ったオフィスから離れられない。

 あなたの「おつかれさま」が、聞こえてくる気がして──



 ***



 ──あの頃、


『おつかれさまでした。また明日』


 あなたの「また明日」が聞きたくて、毎日声をかけた。


『おつかれさま』


 静かに返してくれる声も表情も、その瞬間は俺だけに向けられるのが嬉しくて、幸せだった。

 何年かかっても、あなたの──そんな願いは、ある日突然断ち切られた。

 あなたは、俺の前から……この世から、永遠にいなくなってしまったから。


 この辺りでは、めずらしく大雪が降った翌日のことだった。

 黄色いテープが張られた現場には、大勢の足で踏まれて泥のようになった雪の塊。警察官たちの忙しない動きで汚い色が増えていくのに、横たわるあなたの周りだけ、なぜか綺麗なままで。

 目を閉じたあなたは、ただ眠っているだけのように見えた。


 白い雪に滲む、あなたの赤い──



 ***



 それは、薄曇りの中で場違いなほどにあざやかで。

 強烈すぎて、今でも忘れられない。……いや、もしかしたら、忘れたくないのかもしれない。

 どんな形であれ、あなたの最期の姿だったから。


 あれから、あなたの年齢を越えてようやく、何年も経っていることに気づいた。

 普段どおりに仕事をこなしている時も、愛想笑いを貼りつけている時も。

 俺の心にあったのは、あなたの寂しげな微笑みと、迷子に向けた優しい笑顔。それから……あの日の、白と赤。


 雪が降るたびに思っていた。

 解けた雪は空へと帰れるのに、どうして俺は、あなたの元へ行けないんだろうって。

 あなたを奪った雪にさわれば、もしかしたら逢えるんじゃないか……なんて考えるようになったのは、いつからか忘れたけど。


 雪の日に願かけ紛いのことをし始めたのは、たぶんそれがきっかけだったと思う。

 あなたがいないことを認めたくなくて、認めてしまうのが怖かったんだろう。




 最後に願かけをしてから、数日後。

 また、雪が降った。今度は、街を覆うほどの……あの時みたいな、大雪だった。

 会社へ泊まり込みになっても構わなかったのに、今回は残業を許されなかった。


 仕方なく帰路についた俺は、歩道を慎重に歩く人々に混じって足を進めていた。その時──


「きゃああぁっ!!」


 女性の悲鳴が上がった先には、トレーラーの鼻先。雪でスリップして、歩道に乗り上げたらしい。

 恐怖からか腰が抜けた子どもに迫る、制御不能のトレーラー。それが視界に入った瞬間、脳裏に浮かんだのは──あの、白と赤だった。


 全速力で駆けつけたのは、その子を助けたかったとか、そんなんじゃなくて。ただ──


「きゅっ、救急車っ!!」

「誰か──っ」


 俺の周りで、パニックしながら叫び声をあげる人たち。その少し離れたところから、子どもの泣き声が聞こえた。


 ……良かった……


 助けるつもりじゃなかったのに、助けられたことに満足する自分がいて、何だかおかしかった。体中が痛くて、引きつった顔しかできなかったけど。


「早く、救きゅ──」


 雑多な音が、少しずつ遠のいていく。

 俺は、近づく死への恐れよりも、服に染み込んでいく雪の冷たさと、あふれ出る血の温かさに驚いた。


 ……あなたも、こんな、最期、を……


 あの時、あなたを助けられなかった。だからせめて、雪の柩なんかじゃなくて、俺の腕で包んであげたかった。そうしたら、少しは温かかったかもしれないのに。


 降りしきる雪は、街だけでなく、俺の後悔をも白く塗りつぶしていく。

 空から次々と落ちてくるのは、まるであなたの涙みたいで……


 ……そんなに、泣かないで……ください……


 手を伸ばそうとしたけど、もう指一本動かせなかった。


 ……もうすぐ、あなた……の……


 俺の頬に落ちた一粒は、溶けてアスファルトへと滑り落ち──









 景色を映さなくなった目蓋の裏。


『────』


 はるか遠くで、やわらかく微笑む、あなたがいた。


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