誤呼
御調
誤呼
「はーい、皆さん注目!こちらが着任早々に伝説をかましちゃった、期待の新人クンでーす!」
明るい声で場を取り仕切る
「伝説って…新人君、何かやらかしたの?」
訊ねられて、
「別に。課長の事を『お母さん』って呼び間違えただけ」
「あはは、なんだ。でもまあ、笑い取れたら打ち解けやすいし、良かったかもね」
そうだね、と相槌を打ちながら
「新人クンさ、もしかして小学校の時も先生のこと『お母さん』とか呼んじゃった?」
「ってか、課長なら『お父さん』のほうが合ってるよね」
「明日課長に言ってみようよ、絶対ウケるって」
逡巡していると、ダン、と机を叩く音がした。驚いてそちらに顔を向ける。
「やめましょうよ、そういうの」
声を発したのは
「あ、すんません、机叩いたりして…。でもイジリとか、よくないっすよ」
徐々にトーンダウンし後半は殆ど聞き取れない声量だったが、場の熱を冷ますには十分だった。
「あ、えっと、すんません…俺、帰ります。これ、会計」
「ちょっと、
誰かが呼び止めようとしたが、
店を出て見渡すと
「…ええと、落ち着きましたか」
「…うん、
「え?」
「
「聞いてほしいことがあります。よかったら飲み直しませんか」
「正直に言うと、新人君を助けたとかそういうのじゃないんすよ」
「小学生の時に、いたんすよ。同じように先生の事『お母さん』って呼んじゃった奴が。周りもずっとからかってて、間違えられた先生も面白がって授業の時に『みんなのママですよー』なんて言ったりして。まあ間違えた本人も笑ってたんで、良いかって思ってたんすけど」
先ほどまで言い淀んでいたのが嘘のような早口だった。その様はまるで、嫌なものを早く吐き出したがっているようにも感じられた。
「思ってた、けど?」
「…自殺したんすよ」
「
「違います!」
強く遮られて
「自殺したのは、先生のほうです」
「え?」
「最初は普通だったんです。それがボーっとしたりいきなり怒ったりすることが増えて。綺麗な先生だったんですけど、そのうち服や髪も乱れてきて、自習時間って言うんですかね、授業ナシの時間も増えて。『ママですよー』なんて自分で言ってたのに、最後のほうはもう『ママって呼ぶな!』って怒鳴ったり」
最後のほう、という表現に
「ある朝、登校したら黒板に『私はお母さんじゃない』ってびっしり書かれてて」
凄絶な光景を想像して言葉を失う。その恐怖を振り払うように、
「死体が教室にあったってわけではないんだよね」
「ええ。後から他の先生が来て転勤だって説明してました。でも子供心にそれは嘘だって分かりましたよ。何年か後に親に聞いたら、やっぱり自殺だったそうです」
いつの間にか届いてたビールのグラスが結露し、テーブルに小さな水溜まりを作っていた。
「…でもその話と今日のは」
無関係だよね、と目で訴える。それは分析というよりも希望だった。
「そうかもしれないです。いや、そう考えるのが普通だと思います。ただ」
「ただ?」
「あの朝、黒板を見て、笑ってたんすよ。最初に呼び間違えたヤツ」
寒気が再び背筋に走る。そんな様子などお構いなしに
「その顔が、さっきの新人の奴にそっくりで」
そこまで言ってようやく
「…そんなわけで、俺はただ怖くなって逃げただけなんです。すいません、付き合わせちゃって」
坂下は砕けた調子で言う。わざと明るく見せているのが分かる。
「いいよ、私も嫌で逃げてきただけだし」
取り繕うように依子も笑顔を返す。冷静に考えれば今何が起こっているわけでもなく、特別悪い事態に陥っているというわけでもない。そう思わなければ。飲み会を途中で抜け出したのは皆の不興を買ったかもしれないが、それも些末なことだ。
と、そこで振動音がした。テーブルの上でスマートフォンが震えたようだ。見れば
『
『今からでも合流して飲み直しませんか』
『みんなあのあと反省して、今は盛り上がってます』
『早く戻ってきて、お母さん!笑』
彼は今、どんな顔でこのメッセージを打ったのだろう。
誤呼 御調 @triarbor
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