浅草リリー
上月くるを
浅草リリー
早春の街のどこからでも東京スカイツリーが見える。
高層ビルに隠されて、ひょいと見えなくなるときがあっても、東西に開ける道に出れば、必ず見えるような仕掛けになっているらしい。レインボーカラーというのだろうか、ピンクやブルーやグリーンやイエローの淡い照明にぼかされた634mのタワーは、天空の異界と地上の現世をつなぐ仏舎利塔のように見えなくもない。
浅草寺の参道の仲見世の露店は店仕舞いを始めているが、伝法院通りは華やかなイルミネーションをいっそう煌めかせている。寄席の幟がはためく演芸ホール。催しが跳ねたと見え、はす向かいの公会堂から、いっせいに客が吐き出されている。
道の突き当りで圧倒的な存在感を放つのは、あのころはまだ社会に存在すらしていなかった量販店で、その派手派手しいたたずまいはさながら不夜城のおもむき。
心地よい夜風に吹かれ、さまざまな国の人たちが気ままに動きまわっている。
安価なレンタル着物を着てはしゃいでいるのは欧米やアジアの若者たち。肩に梟を止まらせた呼び込みの女性の前を、首輪に赤いリボンを付けた豚がリードにつながれて行く。サーカス紛いに人混みを縫う自転車の中年男。立ち食いの観光客の足もとにバケツの水を浴びせていた帯屋の女主人はシャッターを降ろし始めている。
焼き鳥、豚カツ、ラーメン、餃子……種々雑多な食べ物の匂いを伴い、大音量のダンスミュージックや流行りのポップスやら、なにを言おうとしているのかわからないが、じつは大したことは言っていないらしい(笑)ラップ音楽が流れている。
混沌と喧噪の巷。
*
たしか、この辺だったような気がするが、やっぱりもうないだろうなあ。
あれから半世紀も経っているんだから、残っているほうが不思議だろう。
それでもどうしてもたしかめたくなったのはなぜだろう。この歳になって青春の欠片というやつを拾っておきたくなったのか? 自分でもわからないが、同窓会の前泊を敢えて浅草の宿にしたのは、なにか囁くものがあったからに違いなかった。
――喫茶「ロイヤル」☕
名前のとおり、ロココ調のゴージャスな内装に度肝を抜かれるほど凝った店で、なにより店を流行らせていたのは、超をいくつ付けても足りないほど美形の店員の存在だった。いまから思えばハーフだったのだろう、イラン系のコケティッシュな顔立ち、分けても男客を惹きつけるポイントは、唇の横の小さな
思わず触れたくなるほど艶のあるロングヘアは縦巻きにされており、ボディコンというのだろうか、胸が前に突き出ていて、腰がきゅっとくびれた、いうところのナイスバディを敢えて強調する、高級ブランドスーツを難なく着こなしていた。
そして、ここがとくに大事なのだが、その店員、リリーは客に笑顔を見せない。注文を訊くときも、珈琲やトーストを運ぶときも、客など歯牙にもかけてやらないのだという様子でつんと澄ましている。みんなあの、冷たい一瞥にやられたのだ。
むろん、隙を見つけて言い寄ろうとする者もいたが、あいにく店の最奥のソファにはつるつるピカピカの
ベトナムで戦死した米兵の
*
あのころ、姨捨伝説を材にした『楢山節考』で有名になり、『風流夢譚』騒動でいっとき筆を折っていた作家・深沢七郎が、下町で今川焼きの「夢屋」を営んでいたが、ある日、三階の窓から水を捨てたホステスを殴って傷害罪に問われた……。
そんな新聞報道を知って、わざわざ東向島まで出かけて行き、作家自らが焼いてくれた数個の今川焼きと、ラブミー農場(現埼玉県久喜市)製の味噌を買い求め、横尾忠則デザインの包装紙を恭しくいただいてアパートへ帰ったことがあった。
当時のおれが相当な文学ミーハーだった証拠のような話だが、そういえば、そのとき一緒にいた彼女とはベ平連運動で知り合ったんだっけ。あちこち泊まり歩き、みんなで雑魚寝しているうちに、いつの間にか友だちの女になっていたけど……。
*
んっ?!
あったーっっ!!!!
本当にあったよ!!!ヾ(@⌒ー⌒@)ノ
花やしきのお化け屋敷みたいに建物全体が蔦に埋もれてはいるけれど、たしかにあの喫茶「ロイヤル」だ。感動というより呆れたことに、珈琲色の看板のロゴまで当時のまんま。古色蒼然としてはいるが、なにからなにまで、あのころのまんま。
*
1972年。
和暦でいえば昭和47年。
2月、グァム島から横井正一さん帰還。全国民がテレビの前で固唾を飲んだ連合赤軍あさま山荘事件発生。札幌オリンピック開催。5月、沖縄返還。7月、第一次田中角栄内閣発足……いろいろあった年の流行歌は、宮史郎とぴんからトリオ『女のみち』、小柳ルミ子『瀬戸の花嫁』、よしだたくろう『旅の宿』、ペドロ&カプリシャス『別れの朝』、
漁港で働く親がなけなしの金を工面してくれた授業料を滞納して大学を中退し、そのくせ生意気にジャーナリストを目ざして建築の業界紙記者をしていた……。
30歳を前に、いっこうに
自分で選んだ道だし、それはそれでよしとせねばならない半生だろうが、日本中がなにかに向かって突き進んでいたあの時代の熱気を、おれは喫茶「ロイヤル」に置いて来てしまったような気が、ずっとしていた。このあたりで、その未練めいた気持ちの区切りを付けておきたかったのかもしれないと、あらためて気づいた。
しかし、店に入ってみる気はなかった。あのつんと澄ました美人店員リリーも、奥で睨みをきかせていた強面男も、いまは昔の幻だろう。浦島太郎はごめんだ。
*
寄席が跳ねたらしく、小じゃれた和服の落語家や若い芸人たちが迎えのマイクロバスに乗りこもうとしている。追い縋ってサインをねだる客、手慣れた様子で捌く付き人。毎夜繰り返される光景を、おれは再び目にする機会があるだろうか……。
せっかくだからと奮発した、東側の窓からスカイツリーを一望できる高層ホテルに向けて
LEDランタンに照らされた顔をかいま見てあっと思った。
真っ赤に塗られた唇の右側に、見覚えのある黒子がある。 【完】
浅草リリー 上月くるを @kurutan
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