遭難

王生らてぃ

本文

 どのくらいの時間が経っただろう。寒い。身体の芯まで冷え切っていて、皮膚が凍り付いてしまったように固い。心臓が脈打つたびに身体が軋むように痛み、呼吸をするたびに肺が膨らんで、しぼんで、それがたまらなく苦しかった。

 だけどわたしのそばにはぬくもりがあって、それを感じられるうちは――わたしが冷たい自分のことを感じられているうちは――わたしはまだ生きていて、まだ希望があると思うことができた。



「柊子ちゃん、起きてる?」



 わたしが声をかけると、わたしにぴったりとくっついた柊子ちゃんが身をよじるのが感じられた。



「起きてる……」

「しっかりして。きっと、あと少しで助けが来るよ」



 目の前には暗黒。ただ冷たい空気。

 わたしたちは小さな山小屋の中にいたはずだ。突然の吹雪と雪崩。何も見えない真っ暗な闇の中。必死に逃げ込んだ山小屋の外には雪がたくさん降りつもって、出口がどこにもない。食料もない。なにより光がなかった。何も見えなかった。わたしたちはほんのわずかな食料を少しずつ分け合い、身を寄せ合って、出来るだけエネルギーを使わないように、じっと救助を待っていた。






「柊子ちゃん、起きてる?」

「起きてるよ」



 何か喋っていないと凍え死んでしまいそうだ。

 わたしは手探りで柊子ちゃんの両肩を探り当てて、そこにたしかに柊子ちゃんがいることを確かめるとなんだか安心した。それから、厚いウィンドブレーカー越しに柊子ちゃんの腕を手繰っていき、指先に自分の指を絡めた。



「わかる? 柊子ちゃん、わたしが手を握ってるの、分かる?」

「わかるよ」



 どうやらお互いに指先の感覚は死んでいないみたいだ。

 わたしは左手を柊子ちゃんの指に引っ掛けたまま、右手であたりを探り、リュックサックを見つけた。手探りでファスナーを空け、手探りで中に残っていたチョコレートバーを取り出した。

 もうあと一本しか残っていない。

 チョコレートはがっちがちに固く冷え固まってしまっていて、とても食べられたものじゃない。少しだけ手で包んで、あたためてから食べることにした。



「柊子ちゃん起きてる?」

「起きてるよ」

「寝ちゃだめだよ。寝たら凍死しちゃうから」



 ハイキングに行こうと言い出したのは柊子ちゃんだった。でも賛成したのはわたしだ。天気予報はバッチリで、コースもバッチリ把握して、完璧な準備をした。素人ふたりでも大丈夫なように、出来るだけ安全なコースをたどり、万が一に備えていろいろな用意をしてきた。だけど携帯電話は寒さでダメになってしまい、わたしたちはあっという間にこうして遭難してしまっている。

 でもわたしは柊子ちゃんを恨んだりしてない。こうなったのは誰のせいでもなくて、ただ単に山の天気が変わりやすかったせいなのだ。



「柊子ちゃん、」

「起きてるよ……」

「ほんと?」

「うん」

「チョコレート、まだ固いよ。ほら。釘が打てそうなくらい」



 きしむ木の床にバーを叩きつけると、まるで氷と氷をぶつけているような音がした。



「寒いね」

「うん……」

「ごめんね」

「どうして?」

「わたしのせいで……」

「誰のせいでもないよ」



 わたしが柊子ちゃんの顔を手で探り当てると、柊子ちゃんは首をすこし動かしたのが感じられた。

 だいたい口はこの辺りかな。

 わたしがキスしようとすると、明らかに口じゃないところに唇が当たってしまって恥ずかしくなった。柊子ちゃんの顔はすっかり冷え切っていて、霜が降りているみたいな冷たさだ。



「こっち」

「どっち? 見えないよ」

「こっちだって」



 柊子ちゃんの口を指先で探り当てると、今度こそわたしは唇を重ねてキスをした。

 柊子ちゃんの口の中は温かくて、わたしは、その吐息で心臓の火に風が送り込まれるような感じがした。わたしたちは互いの体温を交換するように、ずっとずっとキスを続けていた。



「チョコレート、もういいかな。食べようよ」

「うん」

「それで、水があったら……」

「もうないよ……凍っちゃってるから」

「あ、そっか」






 わたしはもうずっと陽の光を見ていない。

 今何時だろう。なんども眠っているけれど、何も見えない。顔中につららが突き刺さっているみたいな痛みがある。しもやけしてしまっているのだろうか。

 チョコレートをちょっとずつ食べる。冷たくて味なんかまったくないけれど、それでも空腹にはこれ以上の薬はなかった。食べ終わったわたしたちは、身体がエネルギーを消化するので、出来るだけ疲れないようにぐったりして時間を過ごした。



「柊子ちゃん起きてる?」

「起きてるよ」

「どこ?」

「ここ」

「どこ? 見えないよ」

「ここだよ」



 知ってる。

 けど、それを言うと怒られてしまうから、わたしは黙って笑っていた。

 真っ暗だから柊子ちゃんには、わたしが笑っているのは見えないだろう。



 つないだ手が凍り付いてしまうまで、わたしたちはそこにじっとしていて、いつの間にか眠ってしまっていた。



「柊子ちゃん、起きてる?」

「起きてるよ」

「わたしが寝たら、起こしてね?」

「うん」






 ずっと真っ暗だから、自分が眠っているのか、起きているのかも分からない。

 だから、気がついたらすぐに、



「柊子ちゃん、起きてる?」



 と、つぶやいていた。



「柊子ちゃん?」



 返事はない。

 つないだままの左手の感覚がない。わたしは、まだ辛うじて感覚が残っている右手で周囲を探ってみた。わたしのすぐ左の隣には、もふもふしたものに包まれた何か大きな身体があった。よかった、柊子ちゃんはまだここにいる。



「柊子ちゃん、起きて。起きて」



 きっともうすぐ助けが来る。

 でも柊子ちゃんの返事はなかった。

 冷たい風が通り抜けて、わたしの身体から体温を奪っていく。わたしは柊子ちゃんが冷えて固まらないように、その上に覆いかぶさった。まだ起きているわたしが、目を覚まさない柊子ちゃんを守ってあげなくちゃいけないんだ。

 柊子ちゃんの身体は冷たくなっていた。



「起きて、柊子ちゃん、起きて……」



 足音が聞こえる。

 良かった、きっと救助が来てくれたんだ。わたしたち助かるよ柊子ちゃん。だから、もう少し、もう少しだけ生きていて。足音は雪を踏みしめる音から、こつこつと、木の床板が軋む音に変わる。

 まだかな。

 早く扉を開いて、わたしに外の光を見せて。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

遭難 王生らてぃ @lathi_ikurumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説