親友が女装したと思ったら女体化してた

犬井作

どうしてこうなった。

 こっぴどく恋人にフラれてから一ヶ月後、俺の親友が、なぜか女装して会いにきた。


「おまたせ! 待った?」


 ニットセーター、ホットパンツにデニール高めの黒タイツ。ショートボブの髪を揺らして、くりくりした目で見つめてくる。一見すれば美少女だし、実際どう見ても美少女だし、周囲の男どもが視線を向けていることからも美少女であることも間違いないが、それはどう見ても俺の親友――球磨蚤(クマノミ)カワルその人だった。


「冗談にしてもひどすぎる!」


 改札前の柱のそばでスマホをいじっていた俺は顔を上げるなりその光景に絶句して、数秒かけて事態を了解し、やっとのことで口にした。カワルはぷんすこ擬音でも鳴らしそうな勢いで頬をふくらませて地団駄を踏む。


「冗談でこんな格好すると思うかい? どこからどうみても今のぼくは女の子だろう。胸もあるし」

「持ち上げるなバカ」


 人並み程度にはあるように見える胸を掴んで持ちあげる手首をつかんでひっぺがす。アイツのからだのことなのだから俺にどうこうする権利はないが、かといって公衆の面前でさせることではない。


「とにかく、どっか入るぞ」

「うん、いいよ。行きたいとこ決めてたからそこ行こう」

「おい!」


 抗議の間もなく俺の手を振り払ったかと思いきや、カワルは俺の手をにぎってグイと引っぱった。その女子そのものとしか思えないやわらかい手の感触に、思わず、心臓が止まりかけた。



「すみませーん、予約してたクマノミですー。カップル一組おねがいしまーす」

「え?」

「クマノミ様ですね、お待ちしておりました。お席にご案内します」

「ちょ」

「あ、お願いしていたオーダー、すぐに用意できますか? すぐ食べたいんですけど」

「ご用意致しております」

「は?」

「こちら、ご注文のカップルパフェと、セットのコーヒー二点です」

「あの」

「ごゆっくりどうぞ」

「どうもどうも!」

「…………ええ?」


 窓際に座らされたせいでまぶしい。日光がこの一ヶ月で苦手になってしまったので、あわてて巻取り式のカーテンを下ろす。想像よりも薄っぺらく、外の様子が透けて見えた。


「ふふふ、うれしいなあ。これ食べたかったんだよね。カップル限定だから困ってたんだ。じゃ、いただきます!」

「いやいやいや、いや、おい、カワル、ちょっと待って!」

「ン?」


 頬にホイップクリームをつけたカワルがこちらを見る。

 こうしてみると女子そのもので、違和感がないが、しかし相手はカワルだった。

 違和感しかない。そしてここは、居心地が悪かった。


「どうしてよりによってこの店なんだ」

「ここ嫌いかい?」

「嫌いじゃないが……」

「前の彼女さんと来たんでしょ」


 思わず黙る。


「その程度のことで気に病むなよ。店員さんに顔を覚えられているかもしれないが、客はしょせん客だ。詮索なんかしないし、裏でコソコソ話もしない。メンタルを病みかけたせいで人の目が気になるかもしれないが、だからこそこういう他人に無関心な客ばかりのところがちょうどいいのさ。愛あればこその気遣い、感謝はわかるが文句を言われる筋合いはないね」


 したり顔で鼻を鳴らすと、カワルはカップルサイズの、おそらく二人で食べることを想定された巨大な糖分の山にふたたびスプーンをさした。


 カワルに連れられたのは駅に隣接した施設の八階にある、このへんでは有名な喫茶店だった。カワルが指摘したように、浮気した挙げ句に俺をこっぴどくフって音信不通になった元カノがこの店を好んでおり、俺はたびたび連れてこられていた。居心地が悪いのはそのせいだ。

 もっとも、こうした話をカワルに話したことはなかった。こいつはいつも、なぜだか俺より俺のことに詳しいのだ。


「それにしてもさ、唐突なんだよ、連れてきかたが」

「不満かい?」

「ああ不満だ」

「この格好も?」

「もちろんだ!」

「ぼくに会えたことも、すこっしも、嬉しくなかったのかい? 多少なりとも浮かれてくれていると思っていたんだけど、うぬぼれだったかな……」


 しゅんと肩を落とされると、その可愛らしい外見もあって思わず心が痛む。高校時代と同じ、罪悪感の引き起こし方にかるい頭痛を覚えながらも、いつものように、否定してしまう。


「会うとなったときは、うれしかったさ。けど……だけど、そんな格好できたのは不満だよ。イヤミか? あてつけか?」

「なにがさ。昔から言ってるだろ、ぼくは君が好きだって」

「友達としてだろ」

「まあ、そうだけど、あいにくぼくは博愛主義でね。昨今よく聞くマイノリティ区分というよりは、ぼく自身の性格として、友情と恋愛の区別がつかない。君同様に異性の恋人をもったことはあるけれど、真剣になれずに別れてしまった。とにかく君に本気らしいとそれで気づいたんだけど――」

「待った、待った、まった!」


 情報量が多すぎる。

 コーヒーを一口飲んで気をしずめる。けっこう美味しい。


「君の好みは砂糖二つにガムシロップ。甘々の甘党だってこと、忘れるわけないだろう」

「気が利くやつだな、ほんと……」


 こういうところがあるから憎めないのだ――そう思いながら、俺はやっぱり、こらえきれず溜息をついた。


 球磨蚤カワルははじめて出会った高校の時分からずっとこんな調子だった。人間の行動や思考に速度があるとした場合、その平均から大きく外れて、三倍速でなんでもこなす。勉強も高校三年分を一年で終え、残る二年を生物部でベニハゼの研究に費やして、雌雄転換機構が他種にも共有されていることを示唆する研究結果を学会で発表。その成果で某有名国立大学へ推薦入学。直々に声がかかったらしいと、三年生のころ悠々と言われたことを今でも覚えている。あてつけか?


 当時から仙人とか宇宙人ってあだ名をつけられ、それをなんとも思わぬ様子で過ごしていた。実際、なぜか気に入られてよく一緒に時間を過ごしていた俺から見ても、カワルは常識から外れている。変わりもののカワルくんと一回呼んだら、ゲラゲラ笑ったあたりからも、やつの変人ぶりがうかがえるだろう。


「おまえのその、本気だとかなんだとかは、一旦置いておいて、だ……変わってるのは知ってるからな……けど、おまえは常識はある程度持ち合わせていると思っていたんだ。裏切られた気分だよ」

「なにがさ」


 カワルはパフェを食べ終えていて、満足気に紙ナプキンで口元を拭いている。そのしたり顔が今ばかりは気に食わない。


「電話で、話したよな? 俺、弱音吐いたよな? 今回ばかりはこたえたってさ」

「うん。聞いたね」

「女性恐怖症気味だって話もしたろ?」

「だからさっきの店員さんからもかばってやったろ」

「うん、それはありがたかった……じゃなくて! その格好を言いたいんだ俺は!」


 疲れを覚えながら声を張り上げる。


「なんで、女装、してるんだよ」

「ん……愛あればこそだけど?」

「答えになってねえ」

「じゃあなにが聞きたいのさ。WHYを問うてるんだろう? より短絡的な解答をお望みなら、胸がふくらんでしまった以上、男ものを着ると目立ちすぎるかもしれない、としか言いようがないけれど」

「なんだその理屈。作り物だろ、それ。膨らむって表現おかしいじゃないか。正確な語の運用こそがコミュニケーションには必須じゃなかったのか、え?」

「作り物? ……まあ作り物ではあるが、作り物じゃなかったらこの服装は許されるのかい? ぼくは正しく語を運用しているつもりだけどね」

「は? いや、おまえ男だよな」

「その区分はいま無意味化しているんだけど、そのことはあとで説明しようか」


 なんだか話が噛みあわない。もどかしい。


「とにかく、整理させてくれ……頭んなかがぐちゃぐちゃだ」

「大変だね」


 誰のせいだ。いいかけて、ぐっとこらえる。まともに付き合っていては日が暮れる。こいつの速度で物事を考えちゃいけないし、行動を進めちゃいけないのだ――大学入学で進路が分かたれてから二年。抜けていたカンをひっしに俺は取り戻す。


 深呼吸し、息を吐く。窓の外に目を向ける。八階から見下ろせる駅前の立体歩道は、隣接する施設へ行きかう人々でごった返している。インフルエンザの流行る季節だというのに、いや、だからこそか、肩を寄せあい身を温めるツガイの動物めいた人たちが目についた。


 大通りに面する十数回建てのデパートの壁面はモニタになっており、あいも変わらずとりとめのないニュースを表示している。ニュースは広告へ変わり、また別の広告へと変わるだろう。

 だんだんと、こころの速度が落ちついてくる。俺はカワルに向き直ると、やつはコーヒーをのみほして、お冷に手をつけていた。


 こういうときは状況を整理するにかぎる。


 ことのはじまりは、一ヶ月前のこと。恋人にこっぴどくフられて、俺はとにかくダメージを負った。生まれてはじめて、食事が喉を通らない、なんて経験をした。自分には無縁だと思っていた、いわゆるショックを受けた時のリアクションがいっせいに襲ってきた。不眠、絶食あるいは過食。同級生にもやつれたと言われた。


 原因は言うまでもなく明らかだった。自覚もあった。しかし解決はしなかった。得てして病気はそういうものだろう。誰かに話すことがすぐできればこうはならなかったかもしれないが、別れた相手は学科もサークルも一緒だったから、学内に共通の友人が多くいすぎた。彼らには交際を内緒にしていたから、誰かに愚痴をいおうにも、そいつの友人の悪口を聞かせることになってしまう。どうにもそれは気が引けたので、なんとかできないかと思って、いよいよ気持ちも限界になってきたころ、定期的に連絡をとりあっていたカワルから連絡があって、おもわずすべてぶちまけた。


 カワルは一週間おきに電話しようと言ってくれた。これには、かなり救われた。ひと寂しかったのだ、とにかく。孤独じゃないと思えたことは救いだった。思えばこのときから不可解なことはあったが、当時は気にならなかった。そして別れて一ヶ月目となる今日の数日前、出し抜けに会いに行くと伝えられたのだ。


 そしていまに至るというわけだ。


「聞きたいことがいくつかある」

「オーダーのあとでいい?」

「俺にもおかわりを頼む」


 注文を店員さんに伝えて話を戻す。


「最大の疑問から聞きたいところだけど、順番に行こう。カワル。おまえこの一ヶ月間、電話のたび、俺にいくつか質問してたよな」

「そうだっけ」

「グラビアアイドルの写真を送ってきたと思ったら、どっちが好きとか……そういうこと聞いてきたはずだ」

「そうかもね」

「下手なごまかしはやめろ。それって今日のためだったのか?」

「うん。そうだよ」


 カワルはあっさりと認めた。こいつ、注文を食べるための時間稼ぎをしていただけだな。


「…………次だ。次。言いたいことはたくさんあるけど最後にまとめて取っといてやる……カワル、おまえ、俺と恋人のこと、調べたりしたのか?」

「どうしてそんな発想になるんだい。ぼくを暇人だとでも思っているのか? これでも君のためにかなり貴重な時間を割いて、教授にも怒られたんだからな」

「いや、その、じゃあどうして俺がユカリとここに来たことを知ってたんだよ」


 ユカリというのは元カノの名前だ。一ヶ月たった今も当時のような呼び方が抜けずゾッとする。吐き気がしたところで、目のまえにコップが差し出された。すぐさま受け取って飲み干す。冷えた水が思考の熱まで冷ましてくれた。


「ありがとよ」

「どういたしまして。さて、その疑問の答えだけど、単純な観察と推論の結果だ、といえばいいかな」

「ホームズじゃないだろおまえは」

「コナン・ドイルは当時最先端の科学的思考に基づいてホームズシリーズを書いたんだ。すなわちホームズの推理は科学的推論に基づいている。ま、読んでいれば彼の推論にはクセがあることが読み取れるが、いまはどうでもいい。とにかく、科学的推論がホームズ流の思考ならば、ぼくが応用できない道理はないだろう」

「じゃあ種明かしをしてもらおうじゃないか」

「それはぼくが事前に情報を調べていなかったことの証明にはならないけれど、それでもいいのかい」

「あ? どうしてだ」

「いいかい。たとえば僕がいま推論を語ったとする。その推論がすべて現在の君から読み取れる間接的な証拠に基づいた跳躍的推論だったとしてだ、その論理を作り上げたのがいまだったか、それとも事前の調査によるものだったかは見分けがつかないって話だよ。これでも博士論文に着手している身なんだ。このくらいできて当然だよ」

「ハクシロンブン? ……え、マジで」

「大マジ。まあそれはいいよ。だいたい、こんな疑問ナンセンスだ。僕が君についてなにを知っているか、君は高校時代から知っているだろう。僕は君よりも君に詳しい。愛あればこそだ」

「またそれか。悪い気はしないが」

「なんだ、君、男の僕でもいいってのかい」

「俺は友情と色恋を分ける男なの」

「ふうん。まあいいけどね」


 パンケーキと二杯目のコーヒーが届く。一時会話を中断し、俺たちは注文をそれぞれ一口。カワルはパンケーキにうっとり瞳をとろけさせた。ほっぺに手を当てて、美少女の外見だからこそ似合ってしまうあざとい仕草で喜びを表現してみせる。


「ああ美味しい。ところで、君の最大の疑問はさっきも口にしていたように、なぜ僕が女装をしているか、というところに尽きるんだろう? さっさとそれを尋ねればいいじゃないか。まだるっこしいなあ、君は」

「おまえといると頭が混乱するんだっての……特に今日はな」


 またも好みの味に調整されていたコーヒーを胃に流しこむ。いつのまに店員に伝えているのだろう?


「細かいことは気にしないでいいよ。さて、この格好についてだけど、初めにも言ったように、この胸がふくらんでしまったことが原因だ。ぼくにとってこれは誤算だった。ホルモンバランスの急激な変化が即時形態変化に反映されるなんて非科学的な現象、起きるなんて思いもしていなかったんだ。嬉しい発見だよ。世紀の発見だ、と言っていい」

「そこだ、そこ! さっきからずっと気になってたんだ――胸が膨らんだっていうウソ、なんでつくんだよ」

「……ウソ?」


 そこではじめて、カワルは当惑を前面に表した。


「ぼくが、どんなウソをついているって?」


 その当惑は演技に見えなかった。俺は、なにかひどい思い違いをしているのではないか、と感じた。


「いや、だから……胸が膨らむなんて、そんなこと、ありえないだろう。カワルは男じゃないか。その胸って、いわゆる女装グッズみたいな、そういう作り物なんだろ?」

「……いや、だから、膨らんだんだって」

「……いやいやいや……」

「ウソついてないよ」

「じゃあ、いつふくらんだんだよ」

「昨日。正確には今朝かな。まさかこんなに急激な変化が訪れるなんて思ってなかったから驚いたけど、おそらく潜伏期間があるんだろうね。とにかく服を買いに行く余裕もないときた。仕方ないから、恋人が置いていった上下一式を拝借したよ」

「……なに? いや、……え?」

「……混乱しているね。考えてみたら、ぼくも驚いたのだから当然か」


 カワルはコーヒーを一口飲んで喉をうるおすと、ぽん、とその胸をたたいて背中を反らせた。


「性転換したのさ。きわめて生物学的な、遺伝学的手法によって、ね。だから胸が膨らんだのさ。見てのとおり、本物だ。触ってくれてもいいよ。なんなら生殖器の変化も確認するかい。ぼくは君になら裸を見せよう」


 どうだ、驚いたかい、なんて目で俺を見つめるカワル。

 俺は、狐に化かされたんじゃないかと思って、思わずあたりを見回した。

 頬もつねってみた。

 けど、痛いし、どうにも現実らしく思われた。


「……ついにおかしくなった、ってわけじゃない、ん、だよな……?」

「研究を始めたころ教授に心配されて連れて行かれた心療内科では、バッチリ正気、責任能力アリと診断されたよ。ご心配なく」

「じゃあ、本当に、女になった、っていいたいのか?」

「ああ、そのとおり。飲みこみが早いじゃないか。君にしては珍しい」


 カワルはニコリと微笑んだ。


「事態は飲みこめたが信じられない、って顔をしてるね」

「まあ、信じられないさ」

「そうだろうさ。そんな君のために、親切なぼくが、いちから順に説明してあげよう。この研究を始めたきっかけから、ね」


 パンケーキをひょいぱくひょいぱく食べ終えると、コーヒーをもう一口飲んで、カワルは語りはじめた。


「こういうことになったのは、君への愛がきっかけではあるのだけど、ちゃんと積み重ねあってのことだ。研究は一日にしてならず。まして性転換なんてトンデモ事業、一ヶ月で完成するわけもない。ことのはじまりは、そう、君と出会ったころまでさかのぼることになる。


 あのころ、君はギリシャ哲学を好んで読んでいたね。そしてぼくにその読書成果を披露してくれていた。専門外は興味深い。ぼくと仲良くしてくれるひとも珍しかったこともあり、けっこう耳を傾けていた。で、君があるとき、こんな話をしてくれた。『ギリシャの哲学者には、古代、人間は男と女がくっついた一対の生き物だったのだが、あるときそれがわかたれて、独立した生き物になった』。細部は大きく異なるが許してくれよ。この架空の生き物――アンドロギュノスという存在は、ひじょうにぼくの興味をそそった。これを考案した哲学者は、愛の原型を説明するためにでっちあげたというけれど、案外ウソじゃないかもしれない、と考えたのさ。


 といってもそんな、人間が二人一組になっていたような生物が実在したと信じたわけじゃない。アンドロギュノスの雌雄両性というアイデア、すなわち、人間はかつて男であり女であった、という点に注目したのさ。


 そこで登場するのがベニハゼだ。

 ベニハゼは雌雄転換を何度も行うことができる魚なんだ。こうした能力を有する魚は少なく、進化的に後から獲得した形質だとふつうなら考えられる。

 しかしぼくは、逆もありえるんじゃないか、と考えた。つまり、ベニハゼの性転換はもしかしたら、魚類にはじまる脊椎動物門に共通する形質なのではないか、と考えたわけだ。

 荒唐無稽だったが、高校生にとっての二年は大人にとっての十年に匹敵すると言うだろう。どうせ大学へ入るまでのつなぎだと思って、ちょっと研究してみることにした。それが、高校二年からのぼくの歩みってわけだね。これが存外おもしろいんだけど、くどくどした回り道は一旦置いておこうかな。

 細かい手法は君の混乱を避けるために割愛するが、やはり混乱を避けるためにも順を追って話をさせてくれ。


(俺はこのあたりから頭に入らなくなった。しばらく、熱心に説明するカワルを見ながら、もとから女顔だったからあまり変わった感じがしないな、と考えていた。女性恐怖症なのにカワルなら大丈夫なのは、そのおかげかもしれない)


 まず、ぼくは性転換機構に関連する遺伝子が共有されているかをたしかめた。雌性先熟、つまりまずメスとして生まれそれからのちにオスとなるような種にアタリをつけたんだが、これが大当たりだった。ハタ科魚類は雌性先熟する性転換魚なんだけど、こいつもオスからメスへ性転換するための経路を有するのではないかと示唆されたんだな。運が良かったのはちょうどこのハタ科魚類の性転換の詳細な性転換機構が当時レポートされたことだ。そのレポートでは、カンモンハタの性転換の引き金となる化学物質のコントロールはfshβという脳下垂体で発現・分泌される生殖腺刺激ホルモンの一種が関わっていた、とあった。fshβというのは濾胞刺激ホルモンの一種だからそりゃ関わるのは当然だし生殖腺刺激ホルモンが関わるのも当然のことだ。が、ぼくの目にはそれ以上がうつっていた。なんせ当時ぼくは分野の専門外。だったら人間にもあるかもしれない、と考えたわけさ。それからすこしずつ樹形図を下っていっついに去年ヒトの脳下垂体から分泌される生殖腺刺激ホルモンを利用すれば、ヒトにおける性転換が行えるんじゃないかってところまで突き止めたんだけど……


(と、ここで俺は我に返ってカワルを見つめた。カワルは、とたんに恥ずかしそうに視線を泳がせて、咳払いをした)


 ……これ以上は割愛させてもらおうか。長すぎてわけがわからない、って顔をされちゃ、ぼくも正直弱っちゃうし。困らせる気はなかったんだ。ほんとさ。で、だ。うん。

 ……ここまででなにかご質問は?」

「講師かおまえは」

「アハハ、話し方は弊学の教授を参考にさせてもらったよ」


 とにかく額が熱くなっていた。知恵熱ってのは本当にあるんだな。指先で眉毛の間をぐりぐりしながら、引き起こされかけためまいを落ち着ける。


「やっぱり、過剰すぎたかな」

「過剰だ」

「そっかぁ……」


 しゅん、と肩を落とすカワル。ほんとうに、感情がわかりやすいやつだ。こういう顔をされると、なんだかムズムズしてしまう。まるで親にそっけなくされた子供みたいな寂しそうな顔。

 この顔に俺は弱かった。


「頑張りはわかったよ。よくわからんが、俺がきっかけになったってことと……それからいろいろやってきたってこと」

「お、おお!」


 とたんに目をキラキラさせやがる。


「それならいい、それならいい。細部は後々知りたいとき知らせるさ。あ、もうちょっとおやつ頼んでいいかい」

「どうぞ。かれこれ一時間くらいは食いっぱなしじゃあないかよ、まったく……」

「いいだろ、別に。ぼくの体なんだから」

「まあ、そうだけど……それより、メカニズムがどうこうはわかったが、結局、今の話が女になった、ってこととどうつながるんだ。まだ研究段階だったんだろ?」

「おお。そうそう、えっとね、ぼくが研究中だったヒトにおける人為的性転換だけど、これを一足飛びで実用に持ちこんじゃおうとしたきっかけが、君だった、っていうことなんだよ」

「……俺?」

「正確には君の女性恐怖症だけどね。一ヶ月前の電話で、あ、こりゃヤバイな、って思ったんだよ。このままだと君はダメになりそうだ、ってね。女性だけじゃなく、人間不信に陥って自己不信にも陥りそうだった」

「適当なこと言うなよな」

「そんな軽口を一ヶ月前に叩けたかい?」

「……まあ、難しかったけど」

「すこしは感謝してくれよ。一ヶ月前の電話で、ぼくは君のリハビリのお手伝いを考えた。それで、まずは遠隔。次に対面に行くことにした。心療内科を勧めるべき場面ではあったが……そこはぼくのエゴだ」

「そこまで言われると察しがつくぞ。カワル、おまえ、自分が女になって俺の女性恐怖症を治そうとしたんだろ」

「よくわかったね」

「ほんとに正気だって診断されたの?」


 頭痛がまさしく本物になる。そこまでくると常軌を逸しているというほかなかった。

 たとえそれが変わりもののカワルくんで、俺のためであったとしても、だ。


「正直いまでも信じがたいけど、ああ、納得はできるよ。おまえならそういうことをしてくれそうだな、ってことくらい。高校時代もなぜか女装して俺とデートしたよな」

「よく覚えてるね、あんなこと」

「中学から付き合ってた恋人にフられたばかりだからな」


 口にしながら、なんだか呪われている気がしてきた。今まで付き合った相手全員に浮気されているんじゃないか、俺。


「あのときも励ましてやりたくてとか言ってたからな。思い出したよ、そんなことあった、って。さっき」

「なんだ、忘れてたのか……」


 またもしょんぼりするからムズムズするが、しかし恥ずかしいからずっと思い出に残っていたということは伏せておく。実際アイツは可愛かった。


「けど、まあ、ありがとう、とは言っとくよ。気持ちはうれしいし」


 じっさいカワルと話すうちに、他の女性とも話せるような気がしてきたし。


「そうか」

「うん」


 俺は恥ずかしくなってコーヒーを含んだ。甘さが、いつもより過剰な気がした。

 カワルもなんだかソワソワして、三枚目のパンケーキをぱくむしゃ口の中へ放りこんでいる。小動物っぽいがっつきっぷりで、思わず頬がゆるむ。


「な、なんだ」

「何が?」

「こっちみてニヤニヤして」

「してねえよ」

「いーや、してたね」

「なんでもいいだろ」

「ふん、まあいいさ。ぼくはこれでも全部頭脳に行ってたんだ。これからは胸にもいくだろう。これで困ることはないんだ」


 カロリー過剰を気にしてたのだと、そのとき気づく。俺は思わず笑ってしまった。

 パンケーキを食べ終えるとカワルはコーヒーを口にした。おそらく、高校時代から変わらぬストレート。口の中に残る甘味と加えられた苦味のハーモニーを楽しんでいるんだろう。こだわり性だから、かならずそういう食べ方をするのだろう。

 高校時代から、甘ったるいものをド苦いもので中和するのがカワルの好みだった。舌の好みは雌雄転換しても変わらないらしい。

 思考を巡らせていると、カワルが空咳をして、居住まいを正した。


「なあ」

「あん?」

「それで……もう一つ提案があるんだが」

「ああ」

「本気だという前提で聞いてほしいんだ」

「ああ、わかったよ」

「女になるって決めたときから考えていたことなので、真剣に検討してほしい」

「おお。どんとこい」

「あのさ――いっそぼくにしないか?」

「ああ……ああ?」


 なんて?


 呆然としていると、かあっと顔を赤くして、カワルはわちゃわちゃ身振り手振りをくわえてプレゼンを始める。さっきとはうってかわって、とってもあわてた様子だった。


「もともと君はぼくがいたからへんなやつらを寄せつけていなかったけれど、ぼくがいなかったら妙な女に付きまとわれるだろうと予想していたんだ。それが見事に的中した。聞けばその前の彼女にも『不安だったから』とかいう理由で浮気されて別れたんだろ? さすがに三人連続ときたら、妙だなあとか思うべきだよ」

「は……はい」


 すみません、としか言いようがない。思っていたよりはるかに、話してもないのに目下のところ抱えていた悩みを言い当てられて、言葉に詰まる。


「それはそれとして、君はいわゆるシスジェンダーで異性愛者だ。同性愛のケはないときた。もし男もいけるんならぼくの顔立ちでも抱けるだろうと考えたが、流石にそれはまずいだろうとぼくでもわかった。ぼくは君の女性恐怖症のリハビリを手伝いたいだけだからね。魅力的なオスが求愛活動をつまらない理由で阻害されるのはむしろ適応的に害だ」

「はい?」

「ぼくは君にもうすこし恋愛してほしいんだ。ぼくが対象じゃなくてもいいから。君が幸せにしているとぼくも嬉しくなる」


 なんだかとんでもないことを言われている気がする。


「だがな、君は呪われているのかと思えるくらい女運がない。なぜか面倒な女を引き受けて面倒事に巻きこまれる。しかしこれはだ、裏を返せば女にこだわらなければいいのではないか、と思うんだ。

 ぼくは生まれたときは男だった。つまり神様がもっているかもしれない帳簿には、オスと書かれていることになる。君の悪縁が神様の帳簿に登録されたメスにのみ適応されるなら、ぼくであれば面倒じゃあないはずだ。いや、こういう考えをする時点ですでに面倒だってことは重々承知しているのだけど」

「自覚あったんかおまえ」

「あるさ! 君がそれを許してくれてることくらいまるっとお見通しだよっ」


 なんだかこっちまで顔が熱くなってきた。


「それでどうなんだ、ぼくとその、つき、付き合ってくれるかどうか、返事を聞かせてもらおうか」


 カワルは、ちょっと声を震わせた。

 俺は溜息をつく。

 カワルは、不安そうに瞳を揺らしている。


「そんな顔でいわれても気が抜けちまうよ」


 俺は身を乗り出して、カワルの頬についていたクリームを紙ナプキンでぬぐった。自分がほっぺにクリームつけたまま真剣な話をしていたことに気がついたのか、カワルの顔が真っ赤になった。


「けど、本気で受けとったよ、うん」

「そうか」


 カワルの声は上ずっていた。

 俺は腕を組んだ。正直、答えは決まっていた。


「付き合う、ってするには、距離がありすぎると思うんだよ。俺とお前、大学二年間、離れてたし。住んでるところは県まで違うしな。ただ、なんだ、ちょっと特別な友達っていうところから、順番にやっていけないか。それで、その、そういう方で好きになったら、ちゃんと告白させてくれ」


 言いながら恥ずかしくなって、声が上ずってしまう。カッコがつかないな、これじゃ。

 だが、カワルはそれでも十分だったらしい。


「なら、今日が最初のデート、ってことかな」

「最初は高校時代にしただろ」

「はは……そうだったね」


 そう言って、笑顔を見せてくれたから。




「今日は楽しかったなあ」

「なんだよ、歩きながら」


 これ以上遅くなると新幹線に遅れてしまう、っていうギリギリまで遊んで、その帰り道。腕を組んで俺に体重を預けるカワルは、夕日に横顔を照らされて、らしくもなく感傷に浸っているようだった。


「もしかしたら拒絶されるかも、と少しは考えたからね。怖かったんだよ、わりと」

「怖いものなしみたいな顔して、けっこうかわいいところあるよな……」

「おっと、キスから先はこれからだよ。まだぼくらは友達だからね」

「しねーよ、バカ」


 駅前の人通りも、別れを惜しむ人たちが散見される。なんとなくその気持ちにあてられる。一ヶ月前まではきっとこんなことを感じなかった。カワルにはこれからも頭が上がらないだろうな。


「そういや、その、性転換だっけ。メカニズムはわかったけど、どうやったんだ? なんか注射とか?」


 歩きながら、言葉をかわさないのもなんだかいやで話題をふると、水を得た魚のようにカワルは瞳をきらめかせた。


「注射は注射だけど、いったいなにを注射したとおもう? あててごらん」

「え、わからん」

「すこしは知識を動員してみたらどうだい。ヒントは、最近流行りの新型インフルエンザかな」

「え……じゃあ、ワクチンとか?」

「御名答!」


 カワルはふふん、と鼻を鳴らした。今日一日でこの顔にも愛着が湧いて、かわいらしいな、なんて思ってしまう。


「正確には、変異させたインフルエンザウイルスだ。たまたま研究室にサンプルがあったので少々失敬した」

「おい、それけっこうヤバイんじゃないのか?」

「大丈夫だよ。ウイルスというのは感染すると感染先の複製機構を利用して増殖する。ぼくはウイルスの保有するゲノムをそっくりそのまま、生殖腺刺激ホルモンを促進するシグナルタンパク質をコードするRNAに置き換えたのさ。そのうえで、ぼくのMHCに特異的に反応するように調整している」

「つまり?

「ぼくが作ったのは、ぼくだけに感染する性転換誘発ウイルスだ、ってこと」


 かなり危ないことを言っていることは理解できた。


「それ、研究室でできるのかよ。もっと研究所みたいな……」

「二〇一〇年代ならそうだったかもね。だが、いまは二〇二五年。このくらい私費で購入できるキットでやれる時代だ。聖書を遺伝子コードに置き換えて自分に注射した男が一〇年代の終わりにはいたんだ、君は知らなかったらしいけど」

「無知で悪かったな。まあ……危なくないならいいよ。カワルも、体調とかおかしくないんだろ?」

「この短期間で子宮ができるわけではないし、うん。大丈夫だよ。もしかしたら器官が変質するかもしれないけど」

「それ、危ないってことだろ」

「まさか。君の子供を産めるようになるかもしれないってことだ。これはいい研究になるよ。人体実験をしている時点でそうとう批判は浴びるけどね。……まあ、ぼくが学会にレポートを出す頃には、それどころじゃなくなってるさ」


 その言い方に疑問をいだいたが、それより早く、カワルは俺の腕から離れた。きがつけば、もう新幹線の改札前に立っている。もうお別れか、とおもうと寂しかった。


「なあ、カワル。次いつ会えるかな」

「ん……君が望むならいつでも会おう。一緒に暮らしてもいい」

「ホントか?」

「方法はいくらでもある。今日は、一旦帰らないといけないけどね。準備が必要だから」

「準備?」

「その顔を見てたらね、しょうがないな、とぼくも思えたってこと。君はぼくがいないとダメらしい」


 反論しようとした。けど、できなかった。たった一日、二年ぶりにこうして遊んだだけで、俺はこいつと過ごす日々が好きだったのだと思いだしていたから。

 カワルは俺につつっと近づくと、頬に顔を寄せた。キスされた、と思ったときには、もうカワルは改札の向こうにいた。


「またね!」


 嵐のようにカワルは去っていき――こうなると、俺もここでやることはない。ふしぎな充足感に包まれていたから、家に帰ることにした。今までの恋人では得られなかった満足感を噛み締めて。





 さて、そこでハッピーエンドとなれば、俺も苦労はしなかった。

 だが家に帰って、なんとなく、そういえばウイルスってどういう性質なのかな……なんてことを調べたせいで、寝られなくなってしまった。


 ウイルスは大きく分けて、表面のスパイクと本体とに分けられる。抗原となるのはウイルスの本体なのだが、スパイクは吸着した細胞に感染できるかを決定する、いわば鍵のような物質だ。ヒトの細胞に受容体があれば、スパイクから信号を受けとり、ウイルス本体と細胞表面で融合する。

 カワルは自身にだけ感染するウイルスを作った、といっていた。つまり本体だけではなく、このスパイクも調整したということなんだろう。


 だが、しかしだ。そのスパイクが変異してしまったら……それは、つまり、他人にも感染する、ということになる。


 カワルは感染から一週間後突然性転換した、と言っていた。そして、記憶に間違いがなければ、カワルはひとことも、そのウイルスが増殖しないようにしなかった、とも言っていた。……であれば、カワルがわざわざ俺の住まいまで来て、そしてデートした、この一日のあいだ、ずっと、あらたな感染症を撒き散らしていたとおいうことにならないか?


「まさかね」


 とおもって、俺は酒を飲んで、その日は眠りについた。そして大学へ行き、帰って……速達で、カワルから郵便物を受け取った。


 小包には注射器とアンプルが入っていた。手紙が添付されていた。

 ただひとこと、そこには、ぼくを信じてこれを打っておいてくれ、と書かれていた。


 勿論、俺は注射した。カワルを信じないはずなかった。だが、同時に、予想が的中したことも知った。

 原因不明の性転換現象が確認されたことをニュースで聞いたのは、あのデートから、ぴったり一週間後だった。俺はきっと、男だろう。これからも――女になったカワルの恋人として生きるだろう。

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親友が女装したと思ったら女体化してた 犬井作 @TsukuruInui

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