失敗の箱

しうしう

失敗の箱

 これは、無難かつ、ありきたりで平凡な、何の捻りもなく、どこかで聞いたことがあるような、そんな都市伝説。


 大事な、大事な劇なのだ。

 今回は失敗できない。

 主役のミカを視察に来る大手の劇団に、ローカルだけどテレビのカメラだって入る。

 それにこの劇団に出資を考えている金持ち連中も見に来る。

 今回の劇が成功すれば、劇団がしばらく金策に困らなくなる。

 それに、もしかしたらこの小さなしがない劇団が少しばかり名高くなれるかもしれない。

 主役のミカは有名な劇団にスカウトされてさらに上のステージに上がれるかもしれない。

 それどころか、上手く行けば彼女は芸能の世界に飛び込む可能性すら掴むだろう。

 それに何も引っ張られるのは主役だけとは限らない。

 順主役は主役と並んで注目されるし、主役とセットで気に入られる場合もある。

 いい演技をすれば、脇役だって、とるに足らない小さな役だって目に留まる可能性はある。

 実力で、あるいは主役への注目にあやかって、とにかくあわよくば。

 そんなことを考えている役者達からのプレッシャーは今までになく強い。

 それに出資が増えれば裏方の器具だって良くなるかもしれない。

 照明係の男はそんな緊張と欲を腹に潜めて、最初の予行に挑んだのだった。


 結果から言えば大失敗も良いところだった。

 寄りにも寄って下手と上手を間違えるなんて初歩的なミス。

 場面転換の暗転きっかり三秒。

 そして満を持して灯った照明が照らしていたのは、誰もいない下手だった。

 鋭い照明の光から外れた暗がりの中、ミカが髪を振り乱すほどの勢いで振り向くのがシルエットでわかった。

 スポットライトにの外にその表情が隠れていたのがせめてもの救いだが、きっとその顔は美人女優にあるまじき、鬼の形相だっただろう。

 予行後の反省会では、いったい何人に怒鳴られ、何人に嫌味を言われることだろう。

 想像するだけで胃がきりきりと痛みだす。

 照明の失敗は目立つ。

 だから、アドリブで多少フォローできる舞台上の失敗よりも、案外重大な失敗になることがある。

 だからこそ酷く神経質に粗を探される。

 舞台に幕が降りるまでの少しずつ減っていく時間が、絞首台へのカウントダウンのようだった。

 事実、物理的にではないが吊し上げられるのは必至なのだ。

 役者勢はどうにも裏方に厳しすぎる。

 裏方がリラックスして仕事できる雰囲気を作らないチーフが悪い。

 責任転嫁の呪詛を吐きながら、それでどうなる訳でもない失敗に男は悲痛な溜め息を付いた。


「失敗を取り消せれば良いのにね。あの都市伝説みたいに」

 案の定、反省会で散々に扱き下ろされた男に、恋人が慰めるように言った。

 彼女は役者だが、お世辞にもミカのような人目を引く外見ではない。

 それでも、演技はそつなく、目立ちすぎることなく、それでいて確実に主役を際立たせる。

 そして何より素朴で自然体で付き合える、男にとって大切な恋人だ。

 彼女は少しオカルト好きで、何かと都市伝説やら怪談やらを話に持ち出す気がある。

 その日彼女が男に教えてくれたのは、失敗を無かったことにしてくれる者が深夜非常階段に現れる、と言う話。

 もちろん怪談らしく、最後は代償として命を取られて終わる。

 それ、俺が死んじゃうじゃねぇか、と笑うと彼女はそれもそうだね、と笑い返してきた。

 幾分気分が晴れて、次の予行の為に少しは前向きになろうという気が湧いてきた。

 恋人が帰っていくのを見送ってから、少し照明台本の確認と、人が居なかったら練習をしていこうとホールに戻った。

 しかし、運悪くホールの入り口でミカに出くわしてしまった。

 これで舞台裏を知らない観客ならば、主演女優との鉢合わせと言う幸せなハプニングだろう。

 だが、この女の人間性をよく知る男には、なるべく、特にあんな失敗の後には会いたくない相手。

 ミカには自己中心主義とサディストの傾向がある。

 要するに性格がすこぶる悪い。

 自分を好かない人間を許さず、苛めを好む女なのだ。

 とりわけ男は恋人と付き合いはじめてからは、ミカによく思われていない。

 と言ってもミカは別に男を好いている訳ではない。

 自分にはまるで魅力を感じておらず、自分でない女性を選んだ。

 そういう人間が自分の側に居ることが、この女は嫌なのだ。

 女王様は、自分に関わる全ての人は自分の虜になり、他の人間など目に入らなくなるべきだと思っているらしい。

 なまじ、そうでもおかしくない容姿をしているのが彼女の天狗の鼻を伸ばしていく。

 今回も男の顔を見るなり有らん限りの悪意を込めて炸裂した、ミカの嫌味と小言をなるべく聞き流そうと、男は注意を他に反らす。

 と言ってもやっぱり心に来る言葉はあるし、全く好ましくない相手でも美人に罵られると、通常の倍くらいの攻撃力で心が酷く傷つけられていく。

「あら、もうこんなに時間が経っちゃった。流石、反省会の時間を独占しているような人は、時間を無駄遣いさせるのが得意ですね」

 最後に痛烈な嫌味を吐いてミカが脇を通り過ぎていった。

 ミカのヒールの音が聞こえなくなるまで、男は息を止めるように立ち尽くした。

そしてやっと静かになったホールの中に、来たときよりずっと重くなった足を引きずった。

 照明の調節台の前に腰を降ろして、内臓まで吐ききるような溜め息をつく。

 恋人がくれたふわりとしたやる気は、ミカの嫌らしい悪意に汚されてしまった。

 気力が失せたまま、のろのろと手を動かす。

 ビニールテープの切れに下手、上手と書いて照明のスイッチの下にそれぞれ貼る。気休めみたいなものだ。

 一応照明台本を手に取ってみたものの、確認する気力もなく、めくることすら億劫な位だった。

 ぼーっと誰もいない舞台を眺めて、何となくぱちぱちと照明のスイッチをもてあそぶ。

 男は何の意味もなく明滅するスポットライトを、しばらく呆然と見つめていた。

 恋人の笑顔を思い浮かべて、台本を開くも、ミカの嫌みが思い出されて、また閉じる。

 そんなことを数回繰り返して、男は調節台に突っ伏した。

 多少見目こそ劣るが、ずっと素晴らしい恋人よりも、容姿と演技以外良いところの無い美人の方に振り回されている自分が嫌になる。

 固く冷たいプラスチックと金属の凹凸に頬を押し付けて、男は目を閉じた。


 次に男が目を覚ましたとき、壁に嵌め込まれたデジタル時計は11時23分を指していた。

 反省会が終わり、解散して恋人を見送ったのが9時50分位だったから、ずいぶん寝ていたことになる。

 ふーっと長い溜め息をつく。

 しょぼしょぼする目を擦って、ずっと握っていた台本を開く。

 寝起きで頭がぼやけているのと、そもそもやる気が無いせいで、台本の内容がなかなか頭に入ってこない。

 紙の上で文字が踊っているのを眺めているような気分だ。文字の意味を捉えることが、まず難解だった。

 目と目の間を押さえて、何度も溜め息をつきながら、ようやっと照明の一通りを再確認し終えたときにはもう、12時52分。

 調節台の電源を落として、緞帳を降ろし、戸締まりを確認して、ホールを消灯する。

 裏方としていつも遅くまで残る内に、いつの間にかルーティンになった一連の作業を終えて、ホールの入り口に鍵をかける。

 この鍵も元は予備の鍵だったが今となっては、男のキーホルダーに自宅の鍵とぶら下がっていても、誰も文句を言わなくなっていた。

 廊下に出ると、非常灯以外の明かりは消えていた。

 薄暗い中に、どこか現実味無く灯る緑の光を頭上に掲げたグレーの鉄の扉。

 男はいつもこの扉をくぐって帰る。

 エレベーターではなく非常階段を使って帰るのも男の習慣の一つだった。

 ここは3階建ての小さな劇場で、1、2階の一部が突き抜けて2階席有りのホールになっている。

 劇団は建物の三階を事務所として借りていて、公演をするときだけ1、2階のホールも借りるのだ。

 その時、男はいつも2階の一部の照明用の部屋で仕事をする。

 2階、3階からわざわざエレベーターを待つのも馬鹿らしい。古い建物なだけあって、エレベーターの稼働速度も遅いのだ。

 それに、二本の道に挟まれた劇場から出るときは正面玄関の階段より、非常階段から裏口に出た方が男の最寄り駅に行くのに、道が分かりやすい。

 厚い扉を引き開けて、コンクリートの階段と鉄の手すりだけが隔離された空間を、今日も男は降りていく。

 男の腕時計は深夜2時を指した。

 男の靴が階段の踊り場に音を響かせる。

 緑の非常灯は3回瞬いて。

 都市伝説は現実になる。


「はぁい、毎度ありがとうございます。あなたの失敗何でも一つ、無かったことにして差し上げますよ」


 非常灯と同じ緑の光を纏って、男の前に非現実が姿を現す。

 男は悲鳴をあげはしなかった。

 代わりにポケットに手を突っ込んだままの姿勢で、そのままへたりこんだ。

 悲鳴をあげるほど恐ろしくはなく、ただ平静に直立不動でいれるほど普通のことでも無かった。

 目の前に、突然白い箱が現れて、浮かんで、喋っていると言う衝撃は、適切に見積もってそれくらい。

 それは一辺50センチメートル位の大きな立方体で、声がする度、上の面一枚がぱたぱたと開閉する。

 さながら口の様に蠢くその蓋が、箱が喋ると言うおかしな事実を認識させる。

呆然自失の体でその『箱』を見つめる男に、箱は人間が首を傾げるように若干傾く。

「おや? もしかしてこのカラを訪ねて来たのでは無いのです?」

「……から?」

 男は戸惑う脳みそで、どうにか言葉の中から箱の名前らしきものを拾い上げた。

 箱は蓋をぱかぱかさせながらぐいっと男に迫る。

「はい! 私はカラ! 空っぽのカラと申します! まあ、私に会いに来てくれたのではなくとも、こうして条件が整って出会いましたのも何かのご縁。どうです? 何か取り消したい失敗はありませんか?」

「は、はぁ。……取り消したい、……失敗?」

「ええ。どんなことでも良いですよ。どんなことでもきっと消して見せましょう」

「消す…………あっ、いや、いい! いらない! 殺されたら堪んないから!」

 男は気づく。

 この箱は恋人がつい数時間前に教えてくれた都市伝説。

 深夜に非常階段に現れる、失敗を取り消してくれる者だと。

 さて、ではそのお話の結末は?

 代償として命を奪われるバッドエンド。

 現実だなんてとんでもないし、二の舞なんてなおさらだ。

「ころ……? ……あの、私をなんだと思ってるんです?」

 しかし、尻餅をついたままずるずると後ずさる男にカラは心底意外そうに言った。

「怪談だろっ! 失敗を無かったことにするって、甘言で騙して命を取るんだって聞いたぞ!」

「はぁ? 命? そんなくだらないもの要りませんよ。いや、そりゃ多少お代は頂きますけど、お客様殺しちゃったら商売上がったりじゃないですか」

「信じるかっ! 結局なんか取るんだろ? 金なんてねぇし、代わりに言いなりになれとか、悪いことしろとか言われても困るし!」

「落ち着いてください。もー、事前調査もしないでアポ無しで押し掛けられた挙げ句、そんな騒がれたらこっちだって困るんですよ」

「えっ、あ、すみません」

 社会人の悲しき性か、アポ無し、押し掛けと言う非常識ワードが男の頭がさっと冷やす。

「そうですよ。とりあえず聞いてください。一応対応してあげてるのも、説明してあげるのも私の善意なんですからね」

「は、はい」

「んっ、ごほんっ。そうですね、お代は現金や、労働じゃありませんから安心してください。一回目はお試しサービス、二回目以降はそれ相応の物を。でも払えないような物を要求はしません。あなたが持ってるものから選ばせていただきます」

「や、やっぱり命取るのか!」

「要らないって言ってるじゃないですか! 命なんて何の使い道もないもの。そうですね。もし二回目を望まれる場合、最初のお代はその腕時計でも頂きましょうか」

「えっ、……こんなので良いのか?」

 カラは男の腕に向かってすり寄ってくる。銀に近い銅色の腕時計。

 なんてことはない時計。

 古ぼけていて若干メッキも剥がれ落ちている。

 それを箱の中に納めたがるように、カラの蓋が大きく開閉する。

「ええ、ええ、スッゴく掘り出し物の香りです」

「えっ、もしかしてすごい高級品だったりするのか」

「いえ、千円台が良いとこですね」

「なんだよ。それなら何で……」

「私は紙や金属なんかに興味はありませんよ。付加価値と言うか、付録エピソードがありそうなのがそそりますね」

「紙とか金属って金のことかよ? 付加価値?」

「はい。何か無いんですか? 小話みたいな」

「いや特に。実家出るとき親にもらってずっと付けてるから、俺と言えばこの腕時計だよなって皆に言われるくらい」

「へぇ。あなたの代名詞ですか。いいですね。もし、二回目があったらその時計にします! て言うかその前に、今回はどうするんです?」

「えっ」

「消したい失敗無いんですか?」

「失敗……」

 小さな、しかし劇を見ていた人間で気づかなかった者はいない失敗。

 今日よりはいくらか下火になるだろうが、明日になってもきっと事あるごとに指摘されるのだろう。

 誰もが善意の忠告のふりをして、裏に嫌味と嘲笑を込めて、チクチクと刺してくる。

 別に死んでしまうような事ではないけれど、もしそんなことが無くて済むならその方がいい。

 一回目なら無料だし、対価があっても古ぼけた腕時計一つで済むことなのだ。

「……なら、今日の劇の下手と上手を間違えた失敗、取り消してほしい……」

「はい、なんなりと」

 カラは少し男から離れて、蓋をいっそう大きく開いた。

「それでは、瞳を閉じて。良いと言うまで開いてはいけませんよ。あ、開けたら死ぬかもしれないですけど、それについては責任とりませんよ。命が私の物になるわけでもないですし」

「ひぇっ」

 男はあわてて目を閉じる。

 カラを中心に世界の全てがモザイクがかかったように小さな四角に区切られていく。

 紙片が剥がれ落ちるように、その細やかなスクエアは一枚、また一枚とカラの中に吸い込まれる。

 男には見えない場所で、男以外の全てが書き換えられる。

 やがて余すことなく全ての四角は、その下にある男の失敗がなかった世界に更新された。

「さあ、良いですよ。終わりました」

 カラに促され、男は顔をあげる。

 どこを見ても、そこはいつもの非常階段で。

「特に、何も変わらないんだな」

「失敗と言う概念を一つ消去しただけですからね。目に見えては何も変わりませんよ」

「そうか……」

「安心してください。私の仕事は完璧です。安物の漫画みたいにどこかで矛盾が生じたり、そのうち効果が切れたりなんてことはありません」

「心強いな。まだ本当の事なのかわからないけど、とりあえずありがとう」

「はい。今回のご依頼は完遂させていただきましたので、今日はこれにて。また何かございましたらご贔屓に。次がありましたら」

「この腕時計、か?」

「はい。まあ、何もないに越したことはありませんけれど、私はいつでもここにいますから。ご用がおありなら、深夜非常灯が3回目瞬くときに」

 カラはゆっくりと男から離れながら言った。

 そして最後に営業の言葉を残して壁に溶け込んで消えていった。

 後には何の変哲もない、褪せた灰色のコンクリートの壁がつるりと澄ましているだけだった。

 男はカラがいなくなった踊り場に佇んでいた。

 あまりにも平然と受け入れていたが、ここに起こったことは夢と片付けてもおかしくないことだった。

 むしろ現実として受け入れる事の方がよっぽどおかしな事だった。

 それでも、男は喋る箱の言うままを信じて願いを告げた。

 阿保らしいが、夢と言うにははっきりしすぎているし、目が覚める気配も一向にない。

 ベタに頬をつねってみるが、普通に痛い。

「うわ、現実」

 男は呟くだけだった。

 白くてでかい、浮いて喋る箱。

 やっぱり不思議と怖いところはなくて、ただただ強かな衝撃があるだけだった。


「照明……は、特に言うことはないな。昨日と同じようにやってくれ」

 翌朝チーフに言われた言葉に男は目を見張る。

 言うことが何もない?

 昨日と同じように?

 ねちっこくって嫌味ったらしいあのチーフが昨日の失敗を持ち出さない?

 チーフが去っていくのを見詰めながら、男は唖然としていた。

 いや、カラの存在が現実であることは昨夜、頬の痛みが主張していた。

 でも、あれは自覚できない白昼夢で、頬をつねる直前に目を覚ましただけだったのでは、なんて思っていた。

 夜風で冷静になった頭で考えれば、その方が現実的な説明になる。

 それに、例え現実で、本当に夢など見ていなかったのだとしても、50センチ四方の六面体に過去を変える力が果たしてあるだろうか。

 ああ、俺、疲れているんだな、と。

 半信半疑どころではなく、一夜の幻と片付けるつもりだったのに。

 カラはどうしようもなく現実で、その言葉は紛れもなく真実だったのだ。

 立ち尽くす男に同僚が声をかけてきた。

 確認の意味を込めて男は問う。

「なあ、昨日、俺すごい失敗しちまったよな」

「はぁ? 失敗? 何の事だよ。特に目立った失敗なかったから、予行一回目から絶好調だなって話したじゃねぇか」

 息が詰まる。

 現実、事実、真実。

 カラは本物。

 半ば茫然自失の体でふらふらといつもの仕事部屋に向かう。

 二階の廊下で鉢合わせたミカも、嫌味など言わずに横をすり抜けていった。

 会う人の誰の視線にも悪意を感じなかった。

 照明の仕事部屋に入り、後ろ手に扉を閉める。

 ふらつくように、戸に寄りかかった。

 外に光が漏れだしても目立たないように、照明の仕事場の明かりには青いフィルムが貼られている。

 青い光で満ちた部屋は、どこか心を現から切り離すように現実味を欠いている。

薄闇に、カラの言葉が蘇る。


 私の仕事は完璧です。


 マジかよ、すげえな。

 これ、現実なんだぜ?

 俺、すごい奴に出会っちまったよ。

 突きつけられたカラの力に、男は高揚と、そして今になってやっと恐怖を感じた。

 白くてのっぺりとした無機物。

 喋って浮いて、過去を変える箱。

「すげぇ、本当にすげえ」

 男はぶつぶつと呟いた。

 口の端が歪むように弧を描く。

 脂汗が止まらない。

 だが、とてつもないものを手に入れたような興奮も沸き上がる。

 震える手でスイッチを操作する。

 心ここにあらず、体の末端はかじかみ、目は気づけば網膜に焼き付いたカラを見ている。

 そんな状態で挑んだ予行。

 二度目も当然の様に失敗ばかりだった。

 場面転換を間違え、明るさの調整を間違え、単体スポットを当てるタイミングまで間違えた。

 しかし、昨日と同じ様に男の胃やら心臓が痛むことはなかった。

 また、カラに消してもらえば良い。

 そう思えば男の心は穏やかだった。

 幾度となくこちらを振り向くミカの仕草も、微塵も気にならなかった。


「昨日の今日で悪いけど頼む」

「おやおや、案外早いですねぇ」

 深夜2時、踊り場で待っていると、カラは先日の言葉通り律儀に現れた。

 男は今日自分が犯した失敗を一通り説明してから、腕時計で足りるかどうかと尋ねた。

「ええ、足りますよ。ちょっと多いけれど、その腕時計にはそれくらいの価値がありそうですから」

 余りにも気前の良い台詞に、カラは神様なんじゃないか? と男は思った。

 利益を深く求めることなく大きな力を持ち、慈愛と優しさだけで人を救ってくれる。

 きっとそうに違いないと思いながら、男は腕時計をカラの中に落とした。

 そのとき除いたカラの中身は、星のない天球のように真っ暗だった。

 落とした腕時計がその暗闇の中に小さくなって消えていく。

 それから昨晩と同じ様にカラは男に目を閉じることを要求した。

 目を閉じれば、何の音も、何の香りも、何の色もない。

 外がどんな喧騒にまみれていようが、大抵の場合静かであろう非常階段にいるのだから、当然と言えば当然かもしれない。

 目を開けたい、何が起こっているのか見たいと言う好奇心はある。

 だが、今日丸一日かけて痛感したカラの力に、目を開ければ死ぬかもしれない、と言う言葉も嘘ではないと思える。

 気を抜けば緩みそうになる瞼に力を込めて男は待った。

 一時の間を置いて、カラが仕事を済ませた。

「さて、終わりました」

「ありがとう。次は何をお代にすればいい?」

「また来る気満々ですか。そうですね。今はめぼしいものは持って無さそうですけれど……。その時に考えさせていただきます」

「そっか。本当にありがとうなー」

 男はカラを残して、手を振りながら階段を降りていく。

 カラは静かに佇んで、男の後ろ姿を見送った。

 顔も、手足も、表情もないただの箱は、パッと見何も恐ろしさを掻き立てることもない。

 話し相手を失って沈黙した箱は何を思うのかも、悟らせない。

 ひとり、ゆっくりと壁に溶け込むカラは、何かそういう仕組みの機械のように、まるで生命感を欠いていた。


 週末のベッドで男は清々しい朝を迎えた。

 男の心は余裕に満ちていた。

 何も怖くない、無双な気分だった。

 自分にはカラが、神様がついている。

 ミカも、チーフもなんだと言うのか。

 世界の全てに堂々と向かっていける気がしている。

 運命が自分を祝福している。

 何も知らない人間が聞けば、どこぞの妄想癖が何かほざいてる、と思うような事だが、本当のことなのだ。

 男は顔を洗って、鏡を覗いた。

 イケメンでも、金持ちでも、天才でもないけれど、神様に愛されている男が鏡の中から見返していた。

「日頃の行いが良かったのかな。やっぱ地道に頑張る人間が勝つんだよ。神様は見てるね」

 男はにやにやと鏡に笑いかけた。

 鏡の中の男も堪えきれずに笑っていた。

 牛乳とバナナで朝食を終わらせて、テレビのチャンネルを適当に回した。

 いつもは何が楽しいんだと、疲れた頭で思っていた番組が面白くて笑った。

 カーテンから差し込む朝日が心地よくて笑った。

 手持ち無沙汰で手に取った漫画がいつもの何倍も可笑しくて笑った。

 そうだ、この追い風が止まない内に色やっておかなきゃな。

 神様が俺を見捨てない内に。

 なんて、俺は神様に愛されてるんだから心配ないか。

 でも愛が一番強い時期って言うのはあるだろうしな。

 男は真面目にそんなことを考えながら、とりあえず宝くじを買うことを決めた。

 それから、恋人にプロポーズすることも、それとなく考えておこうと決めた。

 不安定な仕事柄、稼ぎがそれなりにしっかりするまではと渋っていたが、神様が味方についた以上、将来安泰。

 あとは思いきりだろう。

 人生薔薇色、先行きは明るいな、と男は一人いつまでも笑っていた。

 そうしている内に日は暮れて、一日は過ぎた。

 男は机の上の宝くじを眺めながら晩酌と洒落混んでいた。

 ふと、一日静かだったスマートフォンに目を向ける。

 そういえば今日は母親からの電話が来なかった。

 ほとんど毎週結婚はいつだとか、いつまでそんな仕事をしているんだと聞いてくるくせに珍しいこともあるものだ。

 たまには自分から電話してやるか。

 仕事は続けるつもりだけど、結婚を考え始めたと報告して安心させてやろう。

 男は連絡帳から母の番号を選び、スマートフォンを耳に当てた。

 数回無機質なコール音が響いて、電話がつながる。

 母の声が応答する。

「はい、もしもし」

「あ、もしもし、母さん。俺。今日は電話来なかったけどどうしたの? まあ、そんなことより、その、色々あって俺結婚しようかなーって考えてるんだ。だから、えーっと、ちょっとは安心してくれよな」

 通話口に一気に喋りまくる。

 一息つくと、電話の向こう側が自棄に静かだった。

 母さん、感極まっちゃったかな? と男は笑いそうになる。

 しかし、数秒の空白を置いて、母の声が酷く戸惑った様に言った。

「あの、間違い電話だと思います」

「え?」

 聞き返すより先に電話は切れていた。

 ツーッ、ツーッと音を鳴らしながら通話終了を告げる画面を眺めて男は首を傾げた。

 どうしたんだ?

 電話番号変えたのか?

 母さんついにボケたかな?

 ちょっと早いけど苦労かけてるし、申し訳ないな。

 まあ、なんか疲れてて間違えたんだろう。

 今かけ直すのもめんどくさいし、また来週にでも改めて電話してみよう。

 男はスマートフォンを机に置くと鼻唄混じりに風呂場に向かった。


 数日後、男はまた予行を迎えていた。

 例によってまた失敗をしたのだが、今回はもう始まりからアウトだ。

 寝過ごした。

 ついでに電車も乗り間違えた。

 うん、今日はカラのところに直行コースだな。

 扉をくぐった瞬間、針のむしろにす巻きにされた男は心の中で頷いた。

 小言も当て付けも聞き流し、注意をされても気にも止めなかった。

 何を言われても、いつかのミカの嫌味のように男の心が傷つけられることはなかった。

 どうせ明日になれば彼らは忘れてしまうのだから。

 この数日で男の面の皮は随分厚くなっていた。

 予行自体は目立った失敗をすることはなかったが、男が遅刻でスケジュールをすべて遅らせてしまったから終了はかなり遅くなった。

 反省会と言う名の吊し上げと当てこすりも男はさらっと流した。

 こちらが気にしなければ、どうと言うことはないのだ。

 カラに消してもらうのだから嫌がらせをされたりとか、後日に響くこともない。

 解散後、仕事仲間が気まぐれで差し入れたらしい大量のおにぎりの中から昆布の物をもらっておいた。

 残っていた何人かの人間に、お前迷惑かけたんだから自重しろよ、と言いたげに睨まれたが無視しておいた。

 吊り照明の点検をして、軽く仕事部屋を片付けると非常階段に向かった。

 そう長く待つこともなくカラが現れる。

 もはや驚きも感慨もなくなった三度目の光景。

「また頼みたいんだけど、お代はこれでもいいかな」

 男はカラに昆布握りを差し出す。

 特に持ち物に目新しいものを持ってきた訳でもないので、これで断られると困る、と思いつつ、頬を掻いた。

 まあ、持ってるものから選ぶって言ってたし引き受けてくれるだろう。

 案の定カラはぱこぱこと蓋を鳴らしながら承諾してくれた。

「おや、良いですね。良い香りがしますよ。これは一体どんな付加価値がおありで?」

「あー、同僚つうか、友達からの差し入れ。労いみたいな?」

「なるほど! 素晴らしい。いただきますしょう」

 頼んでおいてなんだけど、カラ、少し安すぎねぇかな。

 いや、神様だから見返りとか本気で考えてないんだな、きっと。

 男は納得しながらカラの中におにぎりを落とす。

 パッケージを取っておこうか? と聞いたがカラはそのままでいいと言った。

どうやって食べるんだろうと不思議に思いつつも、カラの中に小さくなって消えていくおにぎりを見送った。

 あとはいつも通り目を瞑り、カラが良いと言ったら開けて、礼を言って去る。

 男は非常階段を出て、夜の町を歩き出した。

 途中、帰る途中の同僚とすれ違ったが珍しく挨拶をされなかった。

 結構真面目な奴なのに、俺に気づかなかったかな?

 男は帰り道のコンビニで缶ビールと、さきいかを買って帰った。


 翌朝、その日は練習だったので予行ほどみんなの様子がピリピリしていなかった。

 大道具の点検や、照明の調整、小道具の手入れや場面ごとに細かな練習などをして予行よりも早く、夕暮れ時には解散になった。

 荷物を引っ提げて、さあ帰ろうか、と腰を上げたとき同僚に呼び止められた。

「おーい! ……照明!」

「うん? なんだー。って言うか照明ってなんだよ」

「あー、ごめん! いや、照明のことでちょっと聞きたいことあったんだけど、なんかお前の名前ど忘れしちゃってさー。悪いなー」

「おいおい、ふざけんなよ」

 口では怒りながらも特に気分を害するような事でもなく、台本のここ、ちょっと照明暗くしてくれ、と言われて同僚と別れた。

 最後に悪いなーと笑って離れていった同僚に、気を付けろよ、と笑い返してやった。

 まだ明るい内に帰る日は気分が少し浮く。

 あ、明後日はまた予行だな。

 失敗続きだけど、まあ、どれも言うほど大きな物でもないし、またやっちゃったらカラに頼めばいいか。

 カラに会えて良かったな。

 小さな失敗でも、あとに引きずらないのってでかいし。

 鼻唄を口ずさみながら男は家に向かった。


 予行当日、最初は何事もなく進んでいた。

 だが、さすがに失敗してもいいや、と言う考えは慢心しすぎていたのか、二回目の通し練習が終わったとき、大きな失敗をした。

 舞台で、照明の見解から役者の立ち位置を話し合っていたとき、大道具の背景パネルを倒してしまった。

 幸い大怪我にはならなかったが、二人ほど捻挫や擦り傷を負った。

 照明の失敗とは規模が違う。

 怪我人が出たことで、叱責もいつもより低い怒鳴り声が飛んできた。

 血の気が引いていく。

 悪意のある当てこすりとは格が違う、皆が本気で怒っている。

 怪我の手当てを終え、パネルを元に戻し、反省会は簡略化して予行は終わった。

 チーフが念のため車で怪我人二人を病院に連れていった。

 怪我をさせた負い目もあり、車まで付き添うと運転席のチーフに鋭く睨まれた。

 心臓が縮み上がって、頭が冷たくなった。

 ゴタゴタがあったせいで、時刻はもう深夜。

 男は非常階段を駆け登った。

 踊り場に飛び込むのと同時にカラが現れる。

「カラ、頼む! 今日の失敗を消してくれ! これは本気で洒落になんねぇよ!」

「おや、どうしたんですか?」

「大道具倒して、怪我人出しちまった……。このままじゃ、このままじゃ、本当に失敗ですむ話じゃなくなるかも……」

「わかりました。お受けしましょう。お代はそのジャケットでいかがですか?」

「……え、これか?」

「ええ、ダメですか?」

「……いや、いいっ。これでいい。早く頼む」

「その前に、煩わしいとは思いますが何かしらのエピソードを」

「恋人と交際一年記念の時、選んでもらったんだ! ああ、もう! 早くしてくれ!」

「はい。それでは」

 ジャケットをカラの中に押し込むと目を閉じる。

 いつもと変わらないはずの数秒間が酷く長く感じられた。

 何度も手を組み換え、足を所在なさげにばたつかせて、カラの言葉を待つ。

「良いですよ」

 やっと、その言葉を受けて、男は心底ほっとして目を開けた。

 いつもより丁寧に重ね重ね礼を言って、ようやく解放された気分になった。

 やっぱり俺、神様に愛されてるわ。

 男はそう思いながらいつものコンビニをくぐった。

 いつも通りビールを買おうとして、ふと雑誌コーナーで足を止めた。

 そうだ、恋人に結婚のことを切り出しても良いかもしれない。

 そう思って結婚雑誌を手に取った。

 俺にはカラがついてるからな。

 ビールとつまみと結婚雑誌。

 レジに並ぶいつものラインナップ二つと、特別な一つ。

 それが男の心をどうにも浮わつかせた。


 次の日、練習が終わり、解散した後に楽屋に寄ると、ちょうど恋人が一人で台本を開いていた。

 最高のタイミングだ。

 切り出すなら今しかない。

 男はなるべくさりげなく装って恋人の座る隣に立ち、机に結婚雑誌を置いた。

 思惑通り、恋人は話に持ちかけてくれた。

 しかし。

「先輩が楽屋に来るって珍しいですね。あ、結婚なさるんですか。良いなぁ。どなたと?」

 どなたと?

 男は固まった。

 誰とって、俺が交際して結婚を考えるのなんて、君以外いないだろう。

 叫びそうになったが、嫌な予感がしてなるべくふざけた風に言う。

「いやー、そうだね。君と、何て……」

「え、やだぁー、先輩。付き合ってもいないのにー! ごまかされると気になりますよ!」

「あはは、そう? でも、内緒。まだはっきり決めた訳でもないし」

「そうなんですか? とりあえずお幸せに!」

「うん、ありがとう。あ、ここにある懐中電灯持ってって良い?」

「あ、どうぞ!」

 食い下がらない方がいい。

 とっさに直感して男は、恋人の話に合わせた。

 楽屋に来た用事として適当に懐中電灯なんかをこじつけて、笑顔を張り付けて楽屋を出る。

 恋人の視線がなくなった瞬間、男の身体中に嫌な汗が溢れ出した。

 恋人が、俺を恋人だと思っていない?

 そんな、恋人じゃないと誤解するようなことは何一つしていない。

 告白もしたし、結婚を考えたお付き合いをしたいと告げて了承を得た。

 キスもしたし手も繋いだ。

 ペアルックも買ったし、同僚だって知っている。

 一緒に旅行にも言ったし、彼女の両親にも挨拶をした。

 だとしたら。

 心臓が自棄に大きく跳ねた。

 間違い電話だと思います。

 お前の名前、ど忘れしちゃって。

 付き合ってもいないのに。

「あ……」

 嫌な予感はほぼ確信になる。

 これが初めてじゃない。

 慌ててスマートフォンから母に電話をかける。

 指先が震えてスマートフォンを取り落としそうになる。

 数回のコール音、電話をとる音。

「もしもし! 母さん? 俺、おれ……」

 母が応答するより早く捲し立てる。

 なあ、母さん。

 気にしすぎだよな。

 そんなことあるわけないよな。

 いつも通り、あら、あんたからって珍しいわねって言ってくれるよね?

 しかし、沈黙の後告げられたのは、断罪を言い渡すような言葉だった。

「あの、この前もかけられてきましたよね。電話番号間違えて登録なさってません? 我が家に息子は居ませんけど」

 ひゅっと喉の奥が鳴る。

 確かに間違えようがない母の声で、そう告げられた。

 気づいていなかっただけなんだ。

 でも。

 俺が皆の中から消えている。

 手を離れたマートフォンが床に落ちて、液晶にひびが入った。

 呆然と、通話の切れた音を背景に聞きながら立ち尽くす。


 カラ。


 白く染まった頭にようやくそれだけ浮かんだ。

 スマートフォンを取り上げ、全力で走る。

 非常階段を二段飛ばしで駆け降りて、踊り場でカラを呼ぶ。

「カラ! 出てこい! カラ!」

 しかしどれだけ喚いても、カラは出てこない。

 スマートフォンのロック画面には7時28分の文字。

 カラはいつも深夜2時ぴったりに現れる。

 あと、4時間32分。

 男は階段に脱力するように腰かけた。

 思い返せば、カラに渡した物と、忘れていった人たちはリンクしている。

 初めてのお代は両親から貰った腕時計。

 男を最初に忘れたのは母。

 電話にはでなかったけれど、きっと父も。

 二度目のお代は同僚から貰ったおにぎり。

 忘れたのは同僚。

 彼は男の名前を忘れていた。

 よく考えれば、彼以外にもしばらく名前を呼ばれていない。

 三度目は恋人と選んだジャケット。

 忘れたのは恋人。

 男と恋人だったことを忘れていた。

 冷や汗がだらだらと流れ落ちる。

 8時15分。

 あなたの持っている物から。

 男自身の存在も男の持ち物としてカウントされていた?

 9時21分。

 全員が男の存在全てを忘れた訳じゃない。

 しかし両親は男の存在自体を忘れている。

 それはなぜ?

 10時44分。

 付加価値の重さ?

 11時35分。

 おにぎりと腕時計の価値の違い?

 12時9分。

 恋人として買ったものだから、恋人としての記憶が消えた?

 1時56分。

 カラは見返りもなしに助けてくれる神様、じゃ、ない。


 2時00分。

「おや、今日は早いですね。どうしたんです?」

 やっとカラが現れた。

 男は飛びかかるように激昂した。

「お前、ふざけるなよ! やっぱりお前、悪党なんじゃねぇか。神様じゃないんじゃねぇか!」

 男の言葉にカラは不思議そうに言った。

「神様? 私は自分で神様を名乗ったことはありませんよ?」

「何で、物だけじゃなくて、それに関わる奴の記憶も持ってくって言わなかった!」

「聞かれませんでしたから。あなたがすんなり納得なさったもので」

「何が命はとりません、だ。こんなの命を取られるのと変わらない!」

「あなたが命のことばかり聞くから、命『は』とりません、と言っただけですよ」

「ふざけるな! ふざけるな……」

「私は何もふざけてませんよ」

「返せ! 今までの全部!」

「残念ながら、返品は受け付けておりません。だってあなた、私から買ったもの返せないでしょう?」

 カラを神様だと勘違いしたのも男。

 物だけで済むと思ったのも男。

 付加価値のあるものを持っていくことを、追及しなかったのも男。

 カラは静かに男の言葉を跳ね返す。

 今になってやっと男はカラを心底恐ろしいと思った。

 つるりとした白くてでかい立方体。

 幽霊やら骸骨みたいな見た目のインパクト的な恐ろしさはない。

 しかし、そこに蔑みも残虐性も窺えない、何の変化もないただの白い面が今はとにかく恐ろしい。

 何もわからない、何も窺えない。

 何を考えているのか、何を思ってこんなことをするのか、男には悟れない。

 無機質な白い箱は、一切の悪意も慈悲も感じさせないまま、男から全てを奪っていく。

 どこか遠くで悲鳴を聞いた。

 男は自分で認識するよりも早く、逃げ出していた。

 悲鳴も景色の流れも一拍分の認識の差を置いて、他人事のように感じられた。

 どうやって帰ったのか詳しく覚えていない。

 気づけば家で明かりもつけぬまま、布団の中で震えていた。

 もう二度と、もう二度とカラの力は借りない。

 そう心に決めた。


 次の日は本番だった。

 これで練習だったなら体調不良を言い訳に休んだのだが、さすがに本番は休めない。

 非常階段は使わずに、正面玄関から入る。

 準備をするにも非常階段の近くすら、なるべく通らないようにした。

 カラが恐ろしかった。

 ふとしたときにカラ思い出して、手足が震える。

 非常階段の扉を見るだけで、心臓が収縮した。

 青い光の仕事部屋に本番まで引きこもり、呼吸を整え、頭からカラを追い出す。

 開始のブザーが鳴る頃には心が多少落ち着いていた。

 劇は始まり、難なく進行していった。

 目立った失敗もなく役者達は観客の目に最高の演技を叩き込んでいく。

 男も劇に熱中して、一時カラのことなど忘れていた。

 あとは最後、ミカの台詞の後間髪入れずに照明を落としておしまいだ。

 最後の台詞は……。

「ああ! どうして私はこんなに空っぽなのでしょう!」

 ミカの堂々とした台詞が男にもよく聞こえた。

 瞬間、男の脳裏に悪夢の始まりが蘇る。


 私はカラ、空っぽのカラ。


「ひっ……」

 反射的に調節台から飛び退いていた。

 当然、最後の暗転による見せ場は、間抜けにミカが光の中に晒されたまま。

 慌てて裏方が緞帳をおろして舞台を締めた。

 男は仕事部屋のすみに丸まって震えながら、目の端でそれを見ていた。

 客波が立ち上がり、引けていくざわめきが遠くに聞こえる。

 やがて静かになっても、男は部屋を出なかった。

 反省会が始まる。

 早くいかなくては。

 それはわかっている。

 しかし思い出してしまった恐怖に男は動けなかった。

 どれ程たったのか、乱暴に仕事部屋の戸が開けられた。

 男はびくりと跳ね上がる。

 そこにいたのはもちろんカラではなかった。

 怒りに顔をひきつらせたミカと、少なからず顔をしかめている恋人。

 ミカから痛烈な罵倒を浴びせながら引きずられるように部屋を出る。

 ミカと恋人に挟まれながら、全く嬉しくない両手に花で廊下を歩いていた時だった。

「ほら、あなたもこのゴミになんとか言ってあげなさいよ」

 ミカが恋人を男にけしかけた。

 男は恋人を見る。

 恋人も男をみる。

 そして心底軽蔑した目で言った。

「何でよりによって本番で失敗するんですか。私たち、これに賭けてたのに!」

 いくら失敗しても、ずっと優しく励ましてくれていた恋人から責め立てられたことは、男を絶望に叩き落とした。

 男は二人の女から逃げるように走り出した。

 非常階段の近くだった。

 ほとんど無意識に非常階段に飛び込み、哭きながらカラを呼んだ。

 カラの力は二度と借りない。

 これ以上何を失うかわからないから。

 そう思っていた事はすっかり男の中から消えていた。

 もう4回も味わってしまった強大な力には、麻薬のような中毒性があって。

 追い詰められた男はもう、理性の歯止めが聞かない場所でカラを求めた。

 カラは2時ではないのに出てきてくれた。

 その優しさが頭のネジがとんだ男を陶酔させる。

 神様、神様、やっぱりカラは神様だ。

「消してください、消してください、俺の失敗を消してください」

 カラの無機質な形にすがり付き、頼み込む。

 カラに要求されるまま、その中の暗闇にスマートフォンを落として、目を閉じる。数秒の間を置いて、目を開けるとカラはいなくなっていた。

 顔をあげると、非常階段の入り口からミカと恋人が見下ろしていた。

「あら、私たち何してたのかしら」

「さあ? それよりミカ先輩、早く行かないと反省会が」

「あ! いけない。急がなきゃ」

 そうか、反省会。

 俺も急ごう。

 男は非常階段の向こうに消えていったミカと恋人を追った。

 一階では既に反省会が始まっていた。

 遅れてすみませんと、ミカと恋人ともに輪の中に混ざる。

 役者から順に反省と良かったところなどあげていく。

 次は俺の番だな、カラに消して貰ったんだ。

 誉められるだけで終わるよな。

 男は回らない頭で考えた。

「あれ? 照明って誰だっけ」

「え、外部の人に手伝って貰ったんじゃありませんでした?」

「そうそう、うち照明いませんからね」

 いけね、うっかりしてた、なんてチーフとその周りの人が笑う。

 男は首を傾げる。

 何を言っているんだろう。

 この劇団の照明係りならここにいるじゃないか。

 この俺が、俺、おれ、オレ。

 あれ?

 オレってダレだっけ?


 静かになった非常階段。

 カラは静かに蓋を大きく開いた。

 そこから、側面を開き、底も開く。

 大きな展開図になったカラは、今度は裏返しに自分を閉じて行く。

 カラの中身だった暗闇が外に広がり、代わりにカラを包んでいた世界のすべてがカラの中に収まる。

 カラは蓋を閉じると、カラの中に収納された世界を取り巻く空間と同じ暗闇にリセットする。

 残るのはカラを包む真っ暗な空間。

「ふむ、これも失敗ですね。なかなかうまくいきません」

 カラは暗闇の中で呟いた。

「さて、次はどんな予行を致しましょうか。ワタシの中身をどんな世界にするかというのも、なかなか難儀な決定ですねぇ」

 新しく生まれたばかりの、まだ空っぽの世界は自分の中でシミュレーションを繰り返す。

 まず試しに小さいifを創造してみて、それからできの悪い失敗の要素を引いてみて。

 でも、やっぱり何かしっくり来ないから、全部消してもう一度。

 どんな世界になろうかな。

 妖精なんかがいるのも良いかもしれない。

 そうだ、次は空の色を黄色にしてみよう。

 それから、鈴と同じ音で鳴く猫を作ってみよう。

 全ては産まれたばかりの世界が織り成す、とるに足らない予行に過ぎません。

 造ってみたいもの、なりたい世界。

 自分の中身を埋めるため、やりたいことはたくさんあるので。

 終わってしまった予行はどうぞとっととご消滅ください。

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失敗の箱 しうしう @kamefukurou

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