節句s
平賀・仲田・香菜
節句s
「それ、捨ててしまうのならばあたしが貰ってもいいかい?」
背後に聞こえるは鈴を転がすように澄んだ声。その声は繊細であったが、身体の真芯より発声されたような力強さもあった。夕刻と宵の間、あやふやな時間帯。人通りのない橋下で、私はそれを投げ捨てようと振り上げていた腕をゆっくりと下ろし、振り返る。
「……男性とは思わなかった」
それは私にとって意外であった。背中に感じた声に、私は女性特有の響き方を聞いたからだ。しかしその音源たる人物は、線が細く艶が見えるが、紛れもなく男性であった。彼は一瞬、目を丸くしたがすぐにくつくつと笑った。冬の冷たさを未だ内包する春先の夕陽は彼の背後で揺ら揺らと瞬いていた。
「なんだい。男がそんなものを欲しがるのが可笑しいかしら」
彼の笑いは無邪気にも見えるが、どこか妖しげな雰囲気も感じさせる。呟きの意図は正しく伝わっていないようであるが、どうでもいい。
「別に。でも理由くらいは話してくれる?」
私は硝子ケースに鎮座した内裏雛を地面に置いた。
※※※
「あたしは所謂、女方ってやつでね」
彼は歌舞伎役者であると言った。それも女方。男の身に産まれながら女性を演じる役柄だ。十五歳──私の今の年齢で弟子入りし、初舞台から二十となる現在に至るまで女方を演じているらしい。
私はそれを聞いて、納得を覚えた。有体に言って彼は美しい。町を歩く並の女性も彼には及ばないだろう。私など彼の影にも及ばない。
「あたしは男でね。お雛様にはとんと縁なく育ったもんだ」
それはそうだろう。雛人形は女の子に贈られるものだ、私も親から贈られた。私は傍に置いた内裏雛を一瞥する。二つの人形のその目は、私には不自然なほど無表情に見えた。
「だから、女方だから、お雛様が欲しいの?」
彼は言葉を止めた。私は続けて言った。
「女の役なんてやってさ、女にでもなりたいの?」
初対面、歳上の人間に言うことであろうか。私は自責する。彼は顎に手を当てている。数秒の沈黙の後、口を開いた。
「女方ってのは、女性ではないんだよ」
何を当たり前な。
「ああ、はい。言いたいことはわかる。莫迦なことを言っているなあとでもお思いでさあね」
彼は困ったように、はにかむように頭をかいて続ける。
「現実の女性を演じているのではないのよね。芸の上にある理想の女性をやってるというわけでして。女性が女性を演じても女方と同じ意味を出せないんで」
正直、私にはよくわからなかった。だけれど、彼が女性を演じるため、その所作や立ち振る舞いを常に高く意識していることは不思議と伝わってきた。
「じゃあ、どうして?」
改めて雛人形を欲しがった理由を問う。
「本当はそんなもんいりゃあせんのよ。思い詰めた表情の人間が川に向かっていくんだ、声くらいかけるわね」
さも当然のことを、とでも言いたげだ。思いもしなかった返答に私は虚を突かれた。その後、羞恥に顔が熱くなった。さらに鼓動が強く脈打つのも感じた。見知らぬ人が声をかけるほどの顔をしていたのだろうか。
「入水はしないようで安心したがね」
彼は、かか、と高く笑った。それに釣られるように私も口角が少しだけ上がった。
そうだ。私が神妙な面持ちで川に向かっていた理由は、この雛人形を捨ててしまおうと思っていたのだった。
「これを捨てようとしていただけだから」
「そいつは一体どうしてだい」
「……手前勝手に私を女として扱う両親が嫌いだと思った。女の子なんだから、女のくせに、こうしなさい、あれはしてはいけない。うんざりしていた」
私は堰を切ったように続けてしまう。初対面の相手にどうしてしまったことであろうか。
「女なのだから進学を諦めろ、とまで言われた時はどうしてくれようかと思った。恋人だと言って女性を連れていったのは当て付けだったかもなあ」
私は今どんな顔をしているのだろう。話を聞いている彼の険しい面持ちの意はなんだろう。
「なのに、どうして雛人形は新しく買いなおして与えるものか」
見るだけで、女としての性を意識せざるを得ない。そんな象徴として飾るなど私には吐気を催すものだった。
──さっきまでは。
「だから捨ててやろうと思っていたけれど、もう少し考えてみる」
「心変わりも甚だしいねえ」
「自分でもそう思う」
羞恥と思っていた早い鼓動が収まらない。むしろ、早鐘のようになっていた。その理由が違っていたと、さっき気づいたのだ。私は実に単純な人間で、単純な女であった。
「今日は持ち帰るよ。少し、考えたい」
私が足元の硝子ケースを持ち上げようとすると、彼はそれを制した。気付けば日は完全に沈み、静寂が辺りを支配していた。彼は私を家まで送ると言う、荷物も持つよ、とも言う。私は、素直に従った。
※※※
私は、自分の部屋に改めて内裏雛を置いてみた。洋風に彩られた現代の住宅には実に似合わない。
私は、別れ際の、彼の言葉を思い出す。
『あたしの性別も、あやふやに揺蕩う風来物さ。あんたがそれを大切にするならそれでいいし、棄てるならあたしも付き合うよ』
ふと、女雛と目があった。昨日までは無機質で無表情に見えていたそれは、ほんの少しだけれど笑っているように見えた。
節句s 平賀・仲田・香菜 @hiraganakata
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