ビター、スイート、そしてダーク

片栗粉

ビター、スイート、そしてダーク

 『ねぇ、あーちゃん、覚えてる?』


 忘れたことなんか、あるはずがない。

 あの夏の日の濡れたアスファルトの匂いを。

 痣だらけの顔で笑ったあんたは、まるで青空から落ちてきた天使みたいだったよ。

 それがずっと、あたしの脳裏に焼き付いて離れないんだ。


久しぶりにチョコレートタルトを作ろう。

 別に大して甘い物が好きな訳でも、誰かにあげるわけでもない。そんな人間もいない。

 これを教えてくれたあの子も。

 材料は、市販の安い苦めの板チョコと、ビスケット。それと牛乳と、バター。

 昔、学校で家庭科の授業があって、好きなデザートを作るって課題。その時、あの子が教えてくれた。

 あの時はバターが買えなくて、マーガリンだった。

『昔ね、お母さんが作ってくれたの』

 少しだけ泣きそうな笑顔でそう言いながらビスケットを取り出したあの子は、今にも崩れてしまいそうで。

 大した材料を揃えなくても作れるタルトは、どう頑張ってもチープな味だったけど、何故か酷く、懐かしいと感じた。初めて食べたはずなのに。

 百均で買ったビスケットを袋のまま擂粉木でぶっ叩く。

 叩く。

 叩く。

 粉々になるまで。


 あの時、スマホの充電が切れてなければ、何が起きてたのかすぐに知ることが出来ていた筈なのに。



 両親が離婚して、母親とクソボロい県営団地に引っ越したのは、中学1年生の時。

 そこで、あの子と出会った。

 裏の駐車場の、隅っこにある汚い水道で、痣だらけの顔を蛇口へくっつけるようにして洗っていたポニーテールの女の子。青いワンピースの、同じく青いつっかけサンダルに、青いリボン。

 それと対照的な、お古の真っ黒なバンドTシャツとジーパン姿のあたし。

 風も吹かない7月の蒸し暑い昼下がり。すぐ目の前で油蝉がぼとりと落ちた。

 下から見ると団地に囲まれて、四角く切り取られたキャンバスみたいな青い空とその子の恰好があんまり同じ色だから、思わず声を掛けていた。


「あんた、青が好きなの?」


 びしゃびしゃの痣だらけの顔が、きょとんとこっちを向いて、ひまわりみたいに笑った。

 女の子は、顔をびしょびしょにしたまま、ニコニコ笑ってゴミ捨て場の掃除用の箒を手に取ると、勢いよく出ている水道の水に浸した。何をするのかと首を傾げていると、そのまま彼女は影になってない、駐車場のアスファルトの方へ歩いていって、水で濡れた箒で何か書き始めた。よく見れば、それは文字だ。


「折笠ちひろだよ。よろしくね」


 ちひろは、汚い箒をステッキみたいに振り回しながら、八重歯を見せてにっと笑った。あたしはぽかんとそれを見た後、ハッとしてから「あ……ああ。そっか。あたしは、上原あや」と名乗った。

 彼女は、この世界中で、たった一人の親友になった。


 次は、袋の中に室温に戻したバターを入れてひたすら揉む。

 ぐにぐにと粉々だったクッキーが粘土みたいになっていく。

 タルト型を取ろうとしたら、キッチンの真ん中に置いた不釣り合いなスーツケースが邪魔くさくて、蹴っ飛ばしてどかす。

 まとまってきたら、タルト型に敷き詰める。

 強く強く、押し込んで、平らに敷き詰めてゆく。


 転校した学校は酷く荒れてて、家の中も滅茶苦茶だったあたしには、逆に心地よかった。

 母親からパクってきたタバコを屋上で吸っても何も言われない。

 どうせ勉強しても大した人間なんかになれるわけじゃないし。クソ親父が良い例だ。いろんな場所で種まいて、離婚届置いて蒸発した。身近にクソみたいなお手本があるってのは、本当に助かる。人生に希望や期待なんて持たなくてもいいから。

 でも決まって二本目を取り出そうとしたら、隣で本を読んでたちひろに取り上げられた。

 ちひろは意外なほど読書家で、図書室でしょっちゅう本を借りていた。こんな底辺校で数少ないヘビーユーザー。多分ウチと同じくお金なかったから。


「駄目だよ。あーちゃん。病気になっちゃう」

「いいんだよ。こんな人生。早く終わったほうが清々する」

「嫌だよ。わたしが生きてる間は、生きてて欲しいもん」


 まだ痣が消えない顔にくっついたでっかい眼からは今にも涙がこぼれそうで、逆にぎょっとした。


「だって、わたしにはあーちゃんしかいないんだよ」


 あたしだって、そうだよ。

 そんな言葉は照れくさくて、ため息と一緒に消えた。

 ちひろの膝に置かれたヘミングウェイの老人と海の表紙に、ぽたりと雫が落ちた。



 牛乳を冷蔵庫から出す。ああ、賞味期限2日過ぎてる。まあ、なんとかなるだろう。

 タバコに火を点けながら、鍋に牛乳を入れて、カチカチとコンロに火を点ける。

 思いっきり強火にしながら、胸いっぱいに煙を吸い込んだ。



 中二の時、母親に殺されそうになった。

 辛うじて子供を餓死させない程度に養うという、親の義務を最低限果たしていた母親は、恐らく別に心の拠り所という名の、依存先が無いと駄目だったのだ。その依存先に手酷く捨てられ、彼女はまるで世界の終わりが来たみたいに喚き、怒鳴り、暴れ狂った。

 あたしは冷めた目でそれを見ながら、ヘッドフォンを着けて、音楽を掛け始めた。セックスピストルズのBodies。この女の、前の前くらいの男が置いてったCD。この退廃的な感じが好きでずっと聞いている。

 洗濯物や空き缶が散乱した、ゴミだらけの部屋で、ただそこだけがあたしの世界。

 ジョニー・ロットンの破天荒な歌声が、脳髄に染み込んでいこうとした時だった。

 後ろから首を絞められた。

 凄い力で、世界が回る。

 息ができない。

 あや、あたしとしんで?とかなんとかババアがほざいてやがる。

 クソ喰らえ。

 中指を立てようとしたら、物凄い衝撃があたしを襲って、ごろごろと部屋の反対側まで吹っ飛んだ。

 霞む視界に何故かちひろがいて。

 泣きながら叫んでた。

 あーちゃんを殺すんなら、わたしと一緒に殺してよ!



 色々考えてたら、牛乳が沸騰しそうになっていた。

 慌てて火を消して、刻んだチョコレートを入れる。

 ばらばらばら。

 じわじわと白い液体に溶けていくチョコレートが、バラバラになった人間の身体みたいで、ぞっとした。


 間一髪のところをちひろに助けられてから、あたしたちは更に仲良くなった。

 あれからババアは火が消えたみたいに大人しくなって、まるであたしを空気みたいな存在としか考えていないみたいだった。週に一回僅かな金だけ置いていく、知らない女。あたしにとっても、ただそれだけの存在。

 ちひろとは、学校サボって真夜中に海までチャリで行って花火したり、墓地で肝試ししたり、郊外の廃屋の中に秘密の場所を作ったりして、色々アホな事をして遊んだ。

 ちひろだけが、あたしの居場所だった。

 ぐちゃぐちゃだったあたしたちは、お互い一緒に居る事で、辛うじてその形を保っていた。

 でも、二人だったら、なんにでもなれそうなそんな気がしていた。

 ずっと、あの夏の日々が続くんだとあの時はそう思ってた。


「あーちゃん、わたしね、ジソーってとこ行くんだって」


 夕闇が迫る小さな公園で、パンダの遊具に腰掛けてソーダ味のアイスを舐めていたちひろがぽつりと言った。


「え、なんで」

「わかんない。でも昨日ケーサツの人が来て、お父さんが捕まったって言われて。お母さんはだいぶ前にいなくなっちゃったから、わたしが代わりをしなきゃいけないって言ったら、色々話聞かれて」

「ちひろ…」

「お父さんに殴られたり、蹴られたり、イヤな事されたりしなかったかって。だってさ、それが普通だったもん。誰もヘンって教えてくれなかった」

「……」

「そしたら、ケーサツの人に明日ジソーって所に行くから、準備してって言われて」


 あたし達の世界は、元から壊れてた。そんな事、幼すぎた二人には分からなかったんだ。


 カナカナカナ、とひぐらしが鳴く。コーラ味のアイスが溶けてあたしの手から地面へ真っ逆さまにぼとりと落ちた。


「それで、あんたはどうしたいの」

「……行きたくない。あーちゃんと一緒に居たいよ。ずっと、おばーちゃんになっても」

「じゃあ行こう。どっか、知らないとこ」


 ちひろは痣だらけの顔をくしゃくしゃにして、あたしに子供みたいに抱き着いて、大声で泣いた。オレンジにダークブルーが混ざった空はなんだかぐちゃぐちゃで、ちぐはぐで、まるであたし達みたいだと、震えるちひろを抱きしめながらそう思った。



「けど、結局連れ戻されたんだっけな」

 すっかり茶色くなった鍋の中を静かにかき混ぜながら、短くなったタバコを空き缶に捨てた。


 夏の終わりにあての無い逃避行を決意した14歳のボニーとクライドの旅路は、たった4駅で終わりを迎えた。

 けど、電車の中から見えた景色はまるで別の世界みたいで、生まれて初めて希望って奴があたしの中に顔を出した。

 ちひろ、アンタ何処に行きたいの?とがらんとした電車の中、スポーツバッグを抱えながら聞くと、ちひろは「あーちゃんが行く所に、行きたい。あーちゃんが、私の家だもん」と、きらきらした笑顔で言ったんだ。


 「あーちゃんは、何処に行きたいの?」

 「……どっか遠い、誰もあたしらを知ってる人もいない、海が綺麗な所かな」

 「ふふ、わたしもね、海大好き」

 「そこでバイトして、狭いアパート借りてさ、あんたと暮らすよ。ちひろは料理上手いし」

 「嬉しい……。わたしもあーちゃんにいっぱいご飯作るから」

 「ちひろ、行こう。そろそろ降りよう……おい、ちょっと、何すんだよ!」

 「あーちゃん!」


 そして、無粋な大人共がやってきて、ちひろとあたしは離れ離れになった。


 二本目のタバコを取り出す。もう咎めてくれるあの子は此処にはいない。

 タルト型に敷き詰めた生地の上に茶色の液体を流し入れる。

 どろどろの茶色い濁流が、みるみる白い生地を覆ってゆく。

 その光景は、無垢な身体がどろどろに汚れていくみたいで、まるであたしみたいだなってぼんやりとそう思った。


 それからかなり年月が経って。

 あたしは今で言うといわゆる毒親から無事に逃げ出して、遠く離れた町で働き始めた。

 バイトをいくつか掛け持ちして、まあどうにか生きてた。

 引っ越し、居酒屋、工場、風俗その他いろいろ。

 生きていくために忙しくて、色々な事を忘れていった。

 あの団地の駐車場の真夏の暑さも。二人乗りの自転車でブレーキもかけずに下り坂をぶっ飛ばした時の頬に当たる風も。真夜中の河原でやった花火の燃えカスの匂いも。あのチョコレートタルトの味も。抱き付いてきたあの子の体温も。

 全部。

 忘れていた。

 そんな時だ。


「あーちゃん……??」


 偶然立ち寄ったファミレスの前で、すっかり大人びて綺麗になったちひろが、昔と変わらない声とまん丸の眼で、あたしを見ていた。こっちは汚い作業着姿で、向こうは綺麗な薄いピンクのシフォンワンピースで、ちょっと恥ずかしかった。


「わたしね、結婚したの」

「マジで!? おめでとう」


 テーブルの向かいでアイスコーヒーの氷をストローでつついていたちひろが、照れくさそうに笑った。

 お互いハタチになったばかりだ。早い方であるが、彼女が幸せならいいと、あたしは思っていた。

 ちひろの相手は、二回りくらい年上で、バツイチの会社員。

 少しだけ、昔の事を思い出して鉛のような重さが胸にずしりと落ちる。サラダの中のトマトをフォークで乱暴に突き刺した。

 父親からあんな目に遭わせられたのに、アンタはまた同じような男に。


「どこで、知り合ったの?」

「うん……その、お店のお客さんでね。ずっと大切にするよって言ってくれて」

「お店って……」

「フー(風俗)だよ。だってわたしそういうのしかできないもん」


 嫌な予感がした。アルミホイルを噛み締めたような、無機質な不快感。

 でも、ちひろの顔には痣も無くて、ゆで卵みたいに綺麗な肌で。

 だからもう一度、確かめた。


「ねぇちひろ。今幸せ?」

「うん。幸せだよ。大丈夫」


 からんとアイスコーヒーの中の氷が音を立てた。

 あの時、ちゃんと確かめればよかったんだ。本当にあんときのあたしを思い切りぶん殴ってやりたい。


 粗熱が取れたタルトを、冷蔵庫の中に入れる。三本目のタバコに火を点けた。

 キッチンの床に転がるスーツケースを蹴っ飛ばす。全く。邪魔な奴。


 それからもう一度ちひろから連絡があったのは、つい先月の事だ。


『あーちゃん。お願い、話聞いてくれる?』


 21時頃、バイト終わりにラーメン屋でチャーシュー麺を食ってるとき、ピロンとスマホが鳴って、そうメッセージが届いた。

 再会したファミレスで会うことになって、アイスコーヒーを二人分頼んだ。

 こつこつとヒールの音が響いてきて、顔を上げると、茶色いセミロングのちひろが、本当に嬉しそうに笑った。

 その右腕は白い三角巾で釣られていて、あたしはあんぐりとアホみたいに口を開けるしかできなかった。


「ごめんね。あーちゃん。忙しいのに」

「ちひろ……それ」

「転んだの。お家で……ううん。旦那さんにね、怒られちゃってさ」

「あんた……」

「シャツのね、アイロンがけが苦手で、上手にできなくて。怒られて、引き摺り回されたら、折れちゃった」


 ドジだよね。わたし。と困ったように微笑むちひろが、あたしには子供にぼろぼろに叩きつけられてもにっこり笑っている人形みたいに見えて、少し寒気がした。

 ちひろの旦那は、想像した通りのろくでもないクソ野郎だった。しかも、顔とか見えるところには一切痕跡を残さない。

 中卒で風俗上がりのちひろを支配して、自分の思い通りにならなかったら、殴ったり、暴言を叩きつける。

 ちひろが何もできないのを知っているから。

 本当に、胸糞悪いタイプのクソだ。


「……ちひろ。あんたは、もっと怒っていいんだよ」


 ちひろが怒った所を見たのは、あたしが死にかけた時だけだ。

 アイスコーヒーのグラスについた結露がだらだらとコースターを濡らす。


「怒る?」


 きょとんと首を傾げる彼女に、あたしは苛々とポケットからタバコを出そうとして、やめた。禁煙席だった。


「そうだよ。あんたはいつもそう。ずっと我慢して、いい子で、自分の為じゃなくて、人の為に怒ってさ」

「あーちゃん」

「良い子でいなくていいの。もう、14歳のあたしたちじゃないんだよ。だから、あんたを傷つける奴がいたら、本気で怒って、戦えばいい。それにね」


 あんたを傷つける奴は、あたしが絶対許さない。今からそのクソ旦那殴りに行っていい?

 そう言うと、ちひろは眼をまん丸にして、それからケラケラと大きな声で笑い出した。


「あっはははは! やっぱりあーちゃんに話してよかった!」

「本気だよ? そのクソ野郎の面、ぶん殴らないと気が済まないよ」

「ふふ、大丈夫、あーちゃんにそんな事させられないよ。でも、ありがとう」

「本当に、なんかあったらあたしに連絡入れてよ? マジでシャレになってないかんね!?」

「あはは。ねえ、あーちゃん」

「なに?」


 大好きだよ。

 そう言ったちひろの笑顔は、あの時の夏晴れみたいに清々としていた。

 でもやっぱり、あたしは照れくさくて、返事は出来なかった。


 何であの時、あたしもって言えなかったんだろう。

 本当に、あたしは馬鹿野郎だ。


 それから数日後。

 その日は朝から寝坊して、駅までダッシュで走っていた。化粧も出来ず眉だけ描いて、スマホも充電し忘れて、最悪な朝だった。


「クッソ!  最悪!!」


 スニーカーなのが救いだ。勢いよく構内の階段を駆け下りて、人の波をすり抜けて、目当てのホームへ一直線。

 汗だくになって辿り着いたホームには、大勢の人が不安そうに時計と電光掲示板を見つめていた。

 いつもは10分毎に来る電車は、待てど暮らせどやってこない。


≪現在、○○線、○○で人身事故が発生しました。車両の安全確認と点検の為、今しばらくお待ちください≫


 アナウンスにげんなりとする。たまにある光景だけど、あまりにも他人事のように感じて、日常の一部になっていた。

 この時までは。


 どうせもう遅刻だ。サボろう。

 人だかりに背を向け、さっさとその場を離れて駅前のファストフード店に入った。

 適当にマフィンやら何やらを頼んで席に着く。そういや、スマホ充電してなかったわ。とショルダーバッグからぐちゃぐちゃに絡まったコードを引っ張り出した。

 カウンターのコンセントにアダプターを挿込んで、トレーの上のマフィンに齧り付く。

 暫くしてスマホの画面が明るくなって、人差し指でタップした。


 ピロンピロンピロンピロンピロンピロン。


 いきなり通知が山ほど鳴り響き、慌てて消音に切り替えた。

 ったく。バイト先のクソ社員か…?

 そんな事を思いながらアプリを開くと、一分おきに何十回とかかって来てた、不在着信の文字。

 その相手を見て、肌がぞっと粟立った。

 ちひろに、尋常じゃない何かが、起きているとあたしの勘がそう言っていた。

 スクロールして、最後にあったのは、ボイスメッセージ。

 震える指でそれをタップした。


『あ、あー…ちゃん。あの、ね。わたし、頑張ったよ。怒っていいって言ってくれたから、馬鹿とかグズとか、お前みたいな雑巾を貰ってやったから感謝しろとか言われて、やめてって怒ったの。そしたらね。凄い怖い顔で怒鳴られて蹴られて、まるで、お父さんみたいで、怖くて……倒れてたら、床に落ちた包丁があって、訳わかんなくなっちゃって……気づいたら、わたし、血だらけで……隣で旦那さんが倒れてたの……でね、なんだか可笑しくて、笑っちゃった』


 ひゅ、とあたしの喉の奥で息が鳴った。スマホを耳に当てたまま、がたんと席を立った。


『そ、それでね。わたし、全部お掃除して、綺麗にして、今、旦那さんの車をあーちゃんのアパートの近くの駐車場に停めたの。それでね、あーちゃんにお願いがあるんだ……』


 カンカンカンカン。

 嫌な音が、スピーカーから聞こえてくる。

 それを聞きながら、全速力で来た道を戻る。

 駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。



『あーちゃん、覚えてる? 初めて会った時の事』


 ああ、覚えてるよ。

 忘れるはずなんてない。

 忘れるわけないだろ。


『わたしね、あーちゃんが天使に見えたんだ。大嫌いな世界から連れ出してくれる、天使だって。本当だった』


 違う。天使はアンタの方だ。アンタが現れてから、あたしの世界は白黒からカラーに変わったんだよ。


 ちひろ。

 あんたと二人だったら、あたしは何処でも行けるのに。

 何もいらない。

 だから。

 神様。


『あーちゃん。大好きだよ。ずっと』


 トランペットみたいなけたたましい警告音が近づいて、それきりぶつりとメッセージは途切れた。

 あたしは呆然と、アパートにすぐ近い踏み切りに群がるパトカーや、人だかりや、ブルーシートを見つめる事しか出来なかった。


「ん……しまった……寝てた」


 どうやら冷蔵庫に寄り掛かったまま寝入っていたようで、お尻がすっかり冷え切っていた。

 時計を見れば、午前3時。もう固まっただろう。

 冷蔵庫を開けて、タルト型を出す。

 冷えて固まった茶色いタルトはずっしりとしてて、すぐにでも食べられそうだ。

 包丁を丁寧にいれると、さくりと小気味良い音を立てて切れ目が入った。

 小さな箱に、それを入れて、綺麗にラッピングする。

 リボンは深いロイヤルブルー。

 さぁ、準備は整った。

 ひび割れたスマホの画面の中で微笑むちひろを眺めながら、あたしはにっと歯を見せて笑って見せた。


「さぁ、デートしよっか」


 ポケットの中のスマートキーを取り出して、キッチンの片隅のスーツケースを手に、あたしは部屋を後にした。



 申し訳程度に置かれた仏花の束を尻目に、青いリボンでラッピングされた箱を遮断機の近くに置く。味見はしていないけど、多分上手くできたと思う。


「任せてよ。いつだってさ、あたしはあんたの味方なんだから」


 箱の中に残っていた最後の一本に火を点けて、くしゃりとそれを握り潰す。月すらも無い真夜中の踏切の前で暫くそうしてから、あたしには不釣り合いな程に高そうなセダンに乗り込んで、思いっきりアクセルを踏み込んだ。

 あんたの事がこの世の何より大好きなんだ。

 こんな簡単に、逝きやがって。

 馬鹿野郎。

 ふざけんな。

 だから、せめてあの時の逃避行の続きをしようじゃないか。

 ねぇ? ちひろ。



 《次のニュースです。〇〇日未明、〇〇県〇〇市の〇〇ダム内に落下したと見られる車のトランク部分から、身元不明の男性の遺体が発見されました。遺体の状況から死後数週間が経過しており、警察では身元の特定を急いでいます》

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