橋本駅(上)
やけに雲の流れが早く感じた。でも幼い頃に見た空は奥行きがあると言うか、もっと立体的と言うか。今見ているビルに形作られた空はフラットに、少し霞んで見えた。
空がそう見える理由は眺めるたびにいつも考えていたことだけれど、調べるほどの興味は正直なかった。きっと何か理由があって、そう言う風に見えるんだろうなくらいに考え、ましてやその答えがわかったとしても僕に何のメリットもない。いつも考えているからそれは僕の中でいつの日か当たり前に落とし込まれてしまっていた。
例えばシンクにたまった洗い物が洗われているとか、洗濯物が全部畳んでしまってあるとか、飲み終わったペットボトルの中を濯いで分別されていたりとか、僕が日常の中で当たり前だと考える数えきれない事柄の一つに過ぎなかった。
恐らくこの場合は本質が違っていて、後者の羅列に関しては僕の愚鈍な性格がもたらす、言うならば恩恵であって、僕とその事柄の間には第三者的な何かが存在する。よくよく考えれば当たり前だと言うにはあまりに無感情な表現だ。しかし前者の空に関しては誰かがそうしているわけでもなく僕自身が一つの事柄を一方的に見、思考しているだけの、言わば自慰行為に近い感覚だ。
誰か”異性”と街を歩いている時に僕が突然空を見上げ、このような話をしたら少し博識に見え、その後の展開に作用するかも、と思案したが、逆にと言うかそうなるべくしてその”誰か”には勘違い(或いは気付かれて)されて離れていってしまいそうなので、やはり調べるのはやめておいた。全ては想像の話である。今のところ女性と出歩く予定もないし学校ないし家庭もないし暇じゃないし格好つかないし。まだふざけた思考になりそうだったのでその前に次の仕事のことに頭の中をシフトさせることにした。
雑多な住宅街の中に僕のアパートはある。ワンルームの小さな部屋は、意図せず女の子を部屋に招くことになった時の為にすぐ片付けられる範疇で散らかしてある。シンクに置いておく洗い物はいくら面倒くさくてもその日の最後までには洗うようにしているし、洗濯物だって適当ではあるが畳んで引き出しにまとめてしまってある。ペットボトルも同様に。
帰ったらまず部屋の隅に置いてあるスタンドライトを付け、ブルートゥースで繋がるスピーカーに携帯を繋げ、隣の部屋を気にし、迷惑がかからない程度の音量でお気に入りの音楽をかける。本来であるならば、冷蔵庫の機械音、自分の鼓動の音さえ聞こえなくなるほどの音量で聴きたかったが、そこでは理性が働き今日もカチカチとスマホの音量ボタンを押し最適な音量に調節した。最近はと言うとずっとインストバンド(ロックバンドなのには変わりないがボーカルがいなく楽器のみで表現するバンドの形)を聴いている。
歌がある音楽も好きなのだが、その歌に集中力を奪われて生活が乱れてしまう様な気がしたので最近は何も考えたくない時にのみ聴いている。
そのあとは朝食を食べた際に使った食器をまた水道の音や食器同士がぶつかる音を気にしながら洗い、気が向いたら洗濯物を取り込み、気が向かなければ冷蔵庫から発泡酒を取り出す決まりになっている。ほとんどの場合は気は向かないが、そのしわ寄せにいつか苛まれると思うと憂鬱だ。今日も酒はうまい。
少し愚痴を零させてもらいたいのだが、今日はピザ屋のアルバイトでとある住宅団地の二階の部屋まで配達した。その住宅団地の周りには建物の二階と三階の間くらいの大きさの桜が八樹ほど植えられていた。春になったら綺麗そうだなと思いながら階段を上がって二階の左側の部屋のチャイムを鳴らした。
「はーい。」と明らかに無愛想な声がインターホン越しに聞こえてきた。それから十秒くらい経ったころ、小太りな上下灰色のスウェットを着たオッサン(悪意ある表現を敢えてさせてもらう)がゆっくり扉を開けた。「ピザの配達に参りました。」と伝えると、その商品を渡すや否や箱を開け「トマトが前回より二つ少ない!」と叱咤された。僕に言われてもとは思うのだが、夕方の六時にスウェットで無精髭を生やしたオッサンとは違いこちらは雇われの身なので仕方なく「すみませんでした。以後そのようなことがないよう気をつけます。」と無責任に謝っておいた。「何回言えばわかるんだよ!」と続けて言われたので「こちとら働いてるんだよ!お前みたいに堕落した生活してる奴に言われることなんて何もねえよ!」と、頭の中で叫んでおいた。
言う勇気はなくとも理性はあった。それがいいのか悪いことなのかはわからないが、浮遊感漂よって生きている僕にはぴったりだとは思う。また嫌なことを思い出してしまったと思い、また一口発泡酒をその嫌悪感と一緒に流し込んだ。少し苦かった。
最寄りの高円寺駅は朝の出勤時と夕方の退勤時には相変わらず人でごった返している。家路に着くのは決まって夜の十一時ということもあり”人はまばらで少しだけ憂鬱な気持ちになった。”というのも、元々僕は人混みが滅法苦手で(得意な人などいないと思うが)東京圏に出てきた当初は忙しなく常に出入りを繰り返している駅の改札口や満員電車など、用を足した時に水面に浮かぶ水泡のように密集している人混みが大嫌いだった。東京圏に越してきて七年たった今では滅法それにも慣れ、いつの日か人が集まり”各々の欲望に満ち溢れた繁華街の情景を目にしても気にはならなくなっていた。”
約六年半前、僕が大学一年生だったのある日、その慣れた忙しない情景の中にも静寂が訪れることに気が付いた。
サークルの飲み会の帰りに駅に赴いた。いつもは人で溢れ返っている駅のホームや電車の中などもはや侘しくも思えるほど閑散としていた。
その時は僕は嫌に静かな駅のホームに感動し、この異常な情景に心を躍らせついイヤホンの音量ボタンを最大値に近いほどまでにした記憶がある。そうするとホームのアナウンスや電車が流れる音は次第に遠ざき、音が割れるほどのファズや暴れ狂うドラマーの姿が耳から扁桃体へと伝達された。
見慣れない横浜線沿いの橋本駅を目の当たりにした僕は意気揚々と、それはまるで自分がこの世界の主人公になった様な気分でホームのベンチに座り終電を待っていた。
ここはいい。干渉はなく、あるのは音楽のみ。諸々のことなど考える暇などなかった。
その時に自動販売機を挟んだ奥に一人の女性がいるのに気がついた。確か彼女は少しくたびれたコンバースの白いスニーカーを履いていて、オーバーサイズのトレーナーにジーンズを履いていた。恐らく彼女もどこかで飲み、今時同じくして終電を待っているのだろうと思う。
顔は携帯をのぞいているため髪の毛に邪魔されて見えないが正直、雰囲気だけで言ったら僕の好みだった。
「○○な人に悪い人がいない!」が口癖な僕はつい頭の中で、「こんな格好をしている人に悪い人がいない!」と叫んだ。あまりに安直だが、半ば彼女に一目惚れをした。今思い出しても余りにバカバカしい話だが、当の本人は至って真面目だった。
あちらも僕を意識して、同じ終電に乗って、たまたま同じ駅に降りたらきっと彼女は声をかけてくるだろう。そんな妄想に耽っていた。
しかしそんなはずもなく同じ電車には乗ったものの彼女は僕が降りた駅では降りず、変わらず携帯を覗き込んでいた。意識しているならば僕が見えなくなる間、一瞬にでもこちらを向くだろう。そうしたら次に偶然どこかで会った時は彼女から声をかけてくれるはずだ。と、重ねて妄想したがそれは叶わなかった。まだ携帯の画面から目を一時も離さずに見ていた。それは敢えて概観を遮断している様にも見えたし、携帯から目を話したら殺すと言われている様にも感じるほどだった。
僕は納得がいかないまま、やけに生ぬるい夜風に当たりながら駅からアパートへ歩いた。まだ大学に進学してこの地に引っ越して日が浅くまだこの街は新しく感じた。空は以前と違い淀んでいるが、住宅街の最中、人が近くにいる感じがして夜中に歩いていても不思議と冷たくなかった。
そして僕は家に帰ってすぐさま布団に包まってズボンを脱いだ。酔っているせいかリビドーを抑えきれなかったのである。少しだけ冷たい毛布が太ももに当たって一瞬萎えそうになったが、なんとかしてもう一度自分を昂らせた。すぐ様果てると駅にいたオーバーサイズのトレー名を着た彼女のことを思い出した。
彼女を考えてたときの思考、ストーカーのそれだよな、、、。普段より冷静になって過去の自分が恐ろしく思え、そして同時に気色悪く思えた。
最低だ。でも、少しくらい気にかけてくれたっていいのに。確かに僕は秀でる様な顔面でもないしこれと言った長所もない。
でも、愛されたいと思う気持ちはそんなにも悪いことなのだろうか。いつもなぜか枕元に鎮座する陰毛に語りかけてみた。お前だって剃られたくないだろ?
記憶はぼやけて曖昧なのだが、確かに僕がこちらへ引っ越してきて、初めてあの静寂を記憶した陰毛の話だ。
話は少し逸れたが、人の慣れというのは恐ろしくて、それでいてあまりに天邪鬼な点がある。僕は初め人混みが大嫌いだった。しかしそれらと生活を共にすることで次第に慣れて、欲望を隠せずにいる大勢の若者を見ていても特に感情を揺さぶられることはなくなっていった。そんな当たり前の中で突然現れた深夜の静寂な駅。それは僕にとって癒しであり心の安念そのものだった。人を避けて歩くこともないし駅のホームのベンチにて荷物を隣の椅子に置くことができるし、なんと言っても僕が主人公のような錯覚に陥れる。
そしていつの日かそれにも慣れてしまい、今ではその閑散としたホームを見ると憂鬱になってしまう。誰かいないか。少しでもいいから関わりを、くれないか。
人の慣れは天邪鬼と先ほど言ったが前言撤回しておくことにする。天邪鬼なのは僕だった。
しかし誰しもがそうではないのだろうか?誰もが一人を恐れ孤独を嫌い、その癖一人になりたいとか言う。人が嫌いだと言う。本当にそうなのか?僕にはわからない。
名も知らないバンドが一致団結してラスサビを演奏し終わったのと同時に発泡酒を飲み干してシャワーを浴びることにした。
アルバイトの際、服に染み付いたピザの匂いが気になったのだ。
浮かんでは消える 伏見 明 @fushimiaki
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