かざはな
三月の頭、雨ばかりの日々が続いていたが、その日は少しだけ晴れていた。雲の隙間に覗く申し訳程度の太陽の光は雨という連続の合間に読点を打っているように思えた。
その日僕は暇を持て余し大学に遊びに来ていた。小さい大学の校舎の周りには梅の木が植えられており、小さな花たちは昨夜の雨に濡れていた。
来たはいいけれど特にやることもなく、僕は食堂でいつも売店で買って食べていた芋ケンピを食べていた。軽音サークルに所属していたのだが、後輩たちの協調性のなさと意欲のなさに呆れて随分と足が遠のいてしまい、その日も少し挨拶をし逃げるように食堂の椅子に腰をかけていた。
食堂の端で一人芋ケンピを食べることしかやることがなかったので、とある掲示板で仲良くなった”サヤ”(仮名)という同い年の女の子になんとなく連絡を入れた。多分今何してるの?とか、本当になんでもない内容だった。彼女とは定期的に連絡を取り合い、月に二三度電話をする仲だった。特に共通の趣味などがあった訳でもない。お互い音楽は好きだけれど、彼女はジャニーズが一向に好きで、オルタナティブやシューゲイザーを聴く僕の話は恐らく退屈だっただろう。(彼女がジャニーズの話をしている時に僕が退屈であったように。)
電話の際にも僕は「ukロックだとthe whoが一番好き」とか「ビートルズは少し退屈で自分はあまり趣味じゃない」とか、音楽の話を一方的に話していた。彼女は大らかに「へ〜、そうなんだ!」と楽しそうに聞いてくれていた。今思えば彼女が愉快そうにジャニーズの話をするときは、決まって僕がジャニーズの話を切り出したときだけな気がする。そう、彼女はいかにも消極的であまりにも優しかった。
約半年ほどそのような関係が続き、彼女を比喩するとしたら何だろう。例えば”カランコエ”(多肉植物の一種)のような大らかさと、風に揺れるカーテンから見え隠れする窓辺に飾られた”赤いシクラメン”のような彼女の”病み”に惹かれていった。その”病み”は恐らく彼女は気付いていない、と言うか、気付いてはいるもののそれを”病み”だと自覚していないように感じた。
そしてその食堂での時間にも飽きてきたところで僕は一計を案じた。
きっと魔が刺したんだと思う。僕はその掲示板で仲良くなったその彼女に「今日、いっていい?」と連絡を入れた。(今思えばあまりに唐突で迷惑だと思うが)
時期も時期でお互い暇を持て余していたのか、すぐ返信が来た。「え?今日?」
「そう。迷惑だったらいいんだ。」保険をかけるような言い方は僕の癖だった。恐らくよほど困惑していたのか二分ほど返信がなかった。
芋ケンピを食べて待っていると「いいよ。緊張しちゃうな〜。」と、返信が来た。僕は彼女のこう言うところに惹かれていたんだと思う。
彼女は大らかで、何度も言うが、ひたすらに優しかった。そんな彼女の大らかさに幾分か甘えていた自分の不甲斐のなさにはほとほと呆れるが、そう思っているだけで居心地が良くて自分からそうしていると言うのも重々承知だった。
もう少ししたら大学を出ようと思い、携帯を閉じ相変わらず食堂の端で座っているとマナーモードにしている僕の携帯が震えた。閉じたばかりでまた携帯を開くのも何か忙しなくて嫌だなと思いつつ携帯を再び開くと、彼女からのメッセージが入っていた。
「夕飯作って待ってるね。」
「ありがとう。」そう彼女にメッセージを送り、僕は直ぐに腰を上げ車を停めてある駐車場までいつもより少し早く歩いて向かった。その視線の先にはきっと手作りの夕飯があった。
時間は十三時ごろ。僕は車に乗り込んだ。相変わらず読点の空は晴れているし、風が少し暖かかった。
大学のある筑波市からはおおよそ五時間、当時の僕にとっては気が遠くなる、永遠にも感じられるような時間だった。
だが僕は夕飯の亡霊(そんなものが居るとしたら笑い草だが)に取り憑かれたように車に乗り込み高速道路を走っていた。大学のある筑波から住んでいる栃木県益子町は車で約一時間半、往復にしても三時間。それくらいの運転だったらなんてことはなかった。しかしそれ以上ともなると流石に応えた。運転を始め三時間と四十五分を過ぎたあたりから意識と身体が乖離していくような感覚に陥った。
意識は真前を向いている。だがこと身体に関して手足の感覚も失われ、ふわふわと水の中を漂っているような、温いベッドの中で毛布に包まれているような、不思議な感覚が僕を襲った。(襲うと言ってもそんな大袈裟な話でもないが)
そんなこんなでクラシックを聴いたりロックバンドを聴いたり、途中にあるコンビニエンスストアくらいのパーキングエリアで後悔したりして、なんとか気を紛らわせながら僕は五時間と言う長い道のりを走っていた。
山形市の彼女のアパートに着いたのは夕方の六時、日も大分暮れ、あたりは少し暗かった。
「そろそろ着くね。」と連絡を入れ、程なく彼女の住むアパートの前に到着した。
彼女はいつか流行ったモコモコのブルゾンを着てアパートの前に立っていた。彼女に駐車場の場所を教えてもらい、車を駐車させた。
車を降り僕はなるべく平然を装いながら(僕は重度の人見知り)「はじめまして〜。」と言ってみた。
彼女も「はじめまして〜。」と言った。よほど緊張していたのかその時の会話の内容はあまり覚えていない。多分、急に来ちゃってごめんねとか、遠かったでしょとか、彼女の部屋がある三階までエレベーターの中でお互い扉を見ながら話をしていたと思う。彼女もそんなに緊張していた風には見えなかった。それで少し僕も安心した気持ちになったのも束の間、エレベーターのボタンに添えられた彼女の手を見ると、小さく、小さく震えていた。
彼女の顔を見るのは初めてで、彼女が僕の顔を見るのも初めてだった。彼女が僕にどのような印象を持ったのかは分からないが、彼女の顔からはその電話で話していた時と同じような優しさが伺えた。でも申し訳ないことに僕のタイプではなかったのは確かだった。(申し訳ないという表現も高飛車な感じがして気が進まないが敢えてそう表現させてもらう)
アパートの部屋の前まで相変わらずの口先だけの会話を(お互い?)楽しみながら歩いた。部屋の扉を開けるとスニーカーとローファーが一つずつ綺麗に並べてあるのが目に入って、彼女をまた一つ感じられた気がした。その綺麗に並べてある靴の隣にまた二つ、スニーカーを追加して僕は彼女の部屋に入った。一人暮らしの女の子の部屋に入るのはその時初めてで、新鮮で尚且つ小っ恥ずかしい気持ちになった。その時僕の目はその視線の落とし方を忘れ、所在なさげに相当泳いでいたと思う。
彼女の部屋は玄関を開けると右手側に台所があり、その向かいには脱衣所と風呂場、その通路を奥まで行くと洋室がある1Kのアパートだった。
部屋の真ん中に膝の高さくらいの小さなテーブルが置かれ、その隣に敷かれた座布団に僕は「どうぞ。」と言われ腰を下ろした。まだ視点が定まらない僕は部屋の上部に飾られているジャニーズのメンバーのうちわを見たり、部屋の端に置かれたテレビの横にまた綺麗に並べてあるDVDを見たりしていた。すると彼女がハンガーを取り出し「かけるよ。」と僕のダウンジャケットをかけてくれた。彼女はまた丁寧にハンガーの中心とダウンジャケットの中心を合わせてクローゼットの中にしまってくれた。
少し気まずい空気の中僕は「女の子の一人暮らしの部屋に入るの初めて。なんか、女の子って感じだね。」と小手先だけのオチがない話を彼女に持ちかけた。
彼女は笑っていたと思う。その笑みは少しだけ、春の訪れを予感させた。
お互いに一つ笑みを溢しあったところで「お腹空いてる?」と、彼女が聞いてきた。
芋ケンピ以来何も食べていないので僕は意気揚々とお腹空いていると言った。女性に「夕飯作って待ってる。」と言われたのも又初めてで、僕は大学を出てからわざと何も食べずにお腹を空かせていた。彼女は「じゃあ、あっためてくるね。」とキッチンへ向かった。部屋に入る時には気づかなかったが、キッチンのコンロに小さい鍋とフライパンが置かれていた。彼女はキッチンに立つと少し前屈みになりながら二つのコンロに火を灯した。彼女は白い長袖のシャツに藍色のジャンパースカートというのだろうか。とても可愛らしい服装に身を包んで、菜箸を握っていた。そんな彼女を眺めていると、不意にこの情景を写真に残したいと思い立ち、僕は携帯を取り出し彼女にカメラを向けた。彼女はそれに気付いて、顔を隠しながら照れながら「やめてよ。」と言った。少しずつ温まってきた鍋の中身とその場の雰囲気を感じた後、無事夕飯が出来上がった。メニューはハンバーグとミネストローネ。ハンバーグの隣に丁寧に盛り付けられたサラダとトマトもまた彼女の性格を表しているように感じ、また一つ彼女の好きなところが増えた。
僕は盛り付けられたものから小さなテーブルに置き、先に座布団に座っていた。彼女は小さなグラスと大きいペットボトルのお茶を冷蔵庫から取り出して注いでくれた。
彼女が作ってくれた夕飯は家庭的で暖かくとても美味しく感じた。それを彼女に伝えると、申し訳なさそうに顔を隠しながら喜んだ。
所在ない僕の視点は彼女へと落ち着いて、僕はその特徴的な垂れ目を唐突にからかった。彼女は「気を抜くとすぐ垂れちゃう。」と笑った。僕が「垂れ具合、調節できるの?」とまたくだらない事を言ってみると「垂れ目にも段階があるから。」とやけに真面目な顔で言われたので、思わず笑ってしまった。
「ウインクができないんだよね。」と彼女もまた唐突に眉間にシワを寄せながら両目を瞑った。その表情を見ていたら急に急に靴下とデニムのズボンが窮屈に感じてきたので、僕は部屋着に着替える、と彼女に伝えて着替えることにした。
「あ、部屋着持ってきてない。」(急遽山形へと来たので何も持ってきていなかった)呟くと彼女は立ち上がり、恐らく僕が着れるくらいの部屋着を探してくれていた。
クローゼットを開けいくつかの引き出しの中を「これじゃ小さいかな。」と呟きながら僕のために探してくれていた。無事部屋着を貸してもらえた僕は、じゃあ着替えてくるね、と部屋を出てキッチンの向かいの脱衣所へ向かった。脱衣所には歯ブラシと洗顔料、丁寧にコードに巻かれているドライヤー、必要最低限のものと少しだけ溜まった洗濯物があった。何の気なしに鏡は少しだけ水滴の跡があり、そんなところにも愛らしさを感じてしまう僕はいささか考えすぎなのだろうか。
そんな鏡を芒と見ながら僕はドライヤーが置いてある棚のところに紙が一枚貼られているのに気がついた。紙の大きさは小さいメモ帳くらいの大きさで、ボールペンでそこには
「わたしは”いい人”なんだ。」と、書かれていた。
僕は何の根拠もなく、”それは彼女が「私はペシミストである」と公言している”と解釈した。”公言”と解釈するには恐らく彼女の本意とは違う、あまりに希薄な解釈になってしまっているとは思うが(多分彼女にとってその紙は当たり前で部屋に誰か来るとなっても取るに値しないものなのだろうと思う。すなわち公言しているわけではない)彼女がどこか心のどこかで、彼女自身も気づかないところで誰かを待っているような気がした。
そんな彼女の一部を垣間見た後、部屋に一人でいる彼女が今どんな顔をしているのかを想像するのには少しばかり恐怖を感じた。
僕は先ほど見た紙のことを特に彼女に言うわけでもなく、何の気なしに部屋に戻った。彼女はテレビを見ていて、帰った僕に気付いた彼女はテレビを見るのを中断し僕の方を振り返り、「おかえり。服、小さくなかった?」と朗らかな表情で聞いていた。
「うん、いい感じ。」僕が言うと、先とは違う(あるいは僕の見方が変わった)また一つ笑みを溢した。
程なくして僕らは順番にシャワーを浴び、一抹の不安を抱えながらシングルベッドに二人で寝ることになった。(その理由は単純明快で敷布団がないからというものである)
好意を持った男女が同じベッドに入ると殆ど多くの場合、その好意がもたらすリビドーを満足させるために好悪関係なく(見えなくなると言っても良い気もする)半ば衝動的にセックスをしてしまうため、僕はそれを危惧したのだ。
しかし僕たちはその夜、当たり前のように交わることなく眠りについた。そのことに僕は安堵していた。セックスをするというのはそんなに軽率であってはいけない、彼女が”いい人”でよかった。そう思いたくて僕は彼女を僕の中で”いい人”に落とし込めた。落とし、”溜めた”と表現してもいいような気もする。彼女と僕は半年ほどやりとりはしていたけれど、まだお互いを深く理解していなかった。恐らくこの部屋で過ごすであろう理解と小さな幸せに満ちた一瞬の日々の中で僕たちはそこでお互いを浅く理解し、人生の中で束の間の出来事にもかかわらず、僕たちはそれを大いなる幸せだと信じてやまないだろう。それは勘違いで、そして間違いでもなかった。しかしそんな事は僕たちにはどうでもいいようなことに思えた。実際問題、どうでもよかったから。シングルベッドに入って一時間、入眠障害を持つ僕はそんな取り止めのないことを考えながら彼女のいびきを聞いていた。深夜一時のこと。今まで気づかなかった時計の音が嫌に大きく聞こえた。
無事眠りにつくことができた僕は浅い眠りの中で綺麗な花びらが舞い降りてはふわっとすぐに消えていってしまう夢を見た。その花びらはピンク色だったり薄い水色だったり、パステルカラーの花びらたちはふっと現れては溶けて消えていってしまう。その夢は未だにどのような意図で僕の夢に現れたのか、どんな意味を持っていたのかは分からない。ただその夢はずっと僕の記憶の部屋の壁の右端の方にその美しさを何となく保ちながら貼り付けられている。いつの日か一目惚れして買ったポスターを部屋の壁に貼って、いつの日か忘れてしまうそれのように。
そんな夢を見たのも束の間、朝がやってきた。僕は彼女より早く起きて、彼女の寝顔を見てみた。特徴的な垂れ目はその垂れ具合が増しており、いつの日か彼女が冗談めかして言った「垂れ目にも段階があるから」という言葉を思い出し、今はどれくらいの段階なのだろうと、くだらない考えにふけっていた。
そして何となく部屋を見渡すとカーテンの隙間から差すいつもと違う雰囲気の光に違和感を覚えた。僕はベッドから立ち上がりカーテンを開いて窓の外に視線を落として、
「雪だ。」
呟くと「ん」と彼女が起きる声ががした。「雪降ってる、、、?」と寝ぼけ眼(以前として垂れ目)でこちらを覗く彼女は寝起きが頗る悪そうに思えた。
「雪降ってる。今日、帰れないかも。車のタイヤ、スタッドレスじゃないんだよね。」雪は想像以上に積もっており車道にもいくらか積もっていた。僕の考えが浅かった上、山形県に来るという予定もなかったのでノーマルタイヤのままだったのだ。「今日、バイトじゃなかったっけ?」彼女が僕に嫌な事を聞いてきた。
「そう。」僕が答え少し考えを巡らせた。出勤の時間までに帰れる時間帯なら溶けているかなとか、代わりを探して休んでしまおうかとか。その間彼女は心配さを形にした垂れ目で僕のことを見ていた。どちらにせよ次の日にアルバイトを入れているにもかかわらずこんな妄りな事をしている自分に失望したのは確かだ。
しかし熱に浮かされていた僕は携帯電話を枕元から手に取り、アルバイト先の店長に「今友達と山形県に泊まりにきてるんですけど、雪が凄くて帰れそうにないです。申し訳ありませんが今日お休みいただいてもいいですか?」カジュアルな職場なのでなるべく固くなりすぎずに、そしてできるだけ申し訳なさそうに連絡を入れた。すぐに既読がついて
「了解!いつでも入れる”スポットマン”がいるから大丈夫だよ!気をつけてね!」と店長からカジュアルでしかない返信がきた。その時僕は店長にこき使われている”スポットマン”という自分の一つ年下のタクミに心の中でほんの少しだけ申し訳なく思ったと思う。そして彼女に休みが取れた事を告げ、少し申し訳なさそうな彼女の垂れ目を横目にベッドに再び横になった。
「まだ寝る?」と彼女が聞いてきたので少しだけと言い、僕はまた眠りについてしまった。自分の中ではほんの一瞬、しかし確実に時間は過ぎている。そんな瞬きのような眠りだったのは、今日も休みだからという安堵の気持ちか、それとも彼女の存在自体に安心しているのか分からないが、相変わらず部屋の空気は冷たく僕の頬を冷やしていた。
「おはよう。」声のする方を向くと彼女は既に起きていて座布団に座りニュースなんかを見ていた。
「雪止んだよ。積もってたのも全部溶けちゃった。」彼女に言われ僕はベットから立ち上がり、窓の外を覗くと太陽が照っていて、ただ地面が濡れているだけの見慣れない風景がそこにはあった。「バイトサボっちゃったみたいな感じだね。」彼女が笑っていった。僕は一瞬自責の念に苛まれたがその笑顔を見て何事もなかったかのように僕の心もまた読点の空のように晴渡った。
そこでも尚、彼女は”いい人”だった。無責任に仕事を放棄した僕を咎めるでもなく行為的に肩身を狭くするでもなく、彼女はただ笑った。その時の僕はその笑顔のことしか考えられなかったし、明日のことさえも忘れていた。ましてや一年後や十年後のことなんて思い出せもしなかった。それが善か悪かなんて事は当時の僕も今ここでソファーに突っ伏してクロード・ドビュッシーの月の光を拝聴している僕にも分からない。(ただ中身があるのか定かではない茶色い瓶のような”そういうことがあった”という事実だけは胸に留めておくべきだと僕は考える。)
意図せず時間ができてしまった僕らはカーテンの隙間から差す日差しの中で今日日何をするか独り言のような声で話した。「夜は私がバイトしていた居酒屋で飲もうよ。」彼女がそう提案したことで終着点は決まった。「じゃあそれまでは適当に過ごしてようか。」僕も一つ、提案とも言えない提案を溢した。そして何となくお腹が空いた僕らは徒歩で十分くらいのところにある彼女がいうところのマクバ(マックスバリュー)に食材の買い出しに行くことにした。彼女は髪の毛を櫛で梳かし、僕はアイロンをあてた。彼女は毎日の連続の中にいるせいか、何一つ化粧もせずありのままの姿で準備を終えた。そこに彼女の生活感も窺える。僕は嬉しかった。
山形大学の近くにあるアパートを出て片側1車線の歩道の狭い道を僕たちは歩いた。彼女にとっては見慣れた風景でも僕にとっては全てが新鮮で、その景色の中を歩く彼女の姿は僕の中の感覚と少しギャップがあるように思え、違和感ばかりを撒き散らしながらマクバまで導いてくれた。アパートから南に進むこと五分、山形大学の正面口、向かいにはファミリーマート、在学生たちがちらほらと歩いていて僕たちはその中を歩いた。鰯の群れの中ににいるような感覚だった。
程なくしてマクバに到着する頃、そのまた向かいにあるラーメン屋さんを指差して「ここ、私のお気に入りなんだ。」と彼女が呟いた。
「そうなんだ、何だか、いい雰囲気だね。」と言いながら僕は隣に隣接されてある不動産屋のことを考えていた。なんでラーメン屋と隣接してるんだろうなあ。
そうして買い物を終わらせ、食材が入り少し重くなった彼女のマイバッグを持ち外に出た。相変わらず晴れていたがそのまっさらな空にはキラキラと雪が舞っていた。狐の嫁入りみたいなもんか?
ここで僕は彼女が「夕飯作って待ってるね」と言ってくれたときに似た悦びをまた覚え咄嗟に僕は「こういう普通な感じの生活ってすごく、なんか、いいよね。」とどうでもいいようなことを言葉にして伝えた。彼女はまたそうだねと優しく笑った。僕は素っ頓狂な事を言ってしまったことに少し気恥ずかしさを覚え、昨日より少し冷たい風がそう言わせたに違いないと、彼女の顔と空を二三度交互に見て帰ろうかと呟いた。
そのあとのことはよく覚えていない。多分二人で料理をしてテレビを見ながら朝食兼昼食を済ませ何となく時間を潰していた。きっとこの時間も茶色い瓶に違いないんだろうな。そんなことを考えながら。
そんな思い出せない時間の中にも幾分かの幸せと安心感を覚え、当時の僕は恐らく人生で一番幸福を感じていると思っていた。それはそうとも言えないし違うとも言えない。なぜなら僕たちの生活は答えのない論文を書いているように、正解を求める過程の中で時として間違いをしてしまう。それは後から気がついて修正する場合もあるし、勘違いだと気づかずに愚かな僕たちはそれをさも正解だと思いその後の展開を思考する。だけれどそもそも正解がないのだから間違いなどないのではないかと考え始めたところで僕の思考は停止する。ただ、その瞬間に正解だと思ったその事実は甘んじて受け入れなければいけないというあまりに漠然とした話しだ。
すなわち人生で一番幸福だと信じて止まずに何ともない時間を共有していた僕らには(恐らく彼女もそうであった。)過去や未来のことなどどうでもよかったのだ。
そうしてぬるま湯のような幸福な時間を経て僕たちは彼女が働いていた居酒屋に赴くことにした。彼女が働いていた形跡が見られると思うと胸が躍った。
アパートから徒歩でおよそ十五分、二歩前をゆく彼女の慣れた足取りにまた見惚れながら山形駅の方へ向かった。少し遠くて風が僕の頬を冷たくした。
その居酒屋というのは串焼き屋さんで、少し高級感のある店の佇まいから少し緊張してその引き戸を開けると若い女性の店員さんが快く迎え入れてくれた。席に着くと店長らしき人物が彼女を茶化しにきた。「こいつのことよろしくお願いしますね〜。」という店長の嫌味な顔は少し気持ち悪く思えた。しかしそのテリトリーに足を踏み入れているのは僕なので彼女には吐露せず、唾と一緒に飲み込んだ。
いつまでもその嫌悪感に苛まれていたくもないので席に着くや否や気さくな女性の店員さんを呼び注文をした。店員さんは「はい!、、、はい!」と歯切れの良い口調で僕らの注文を聞いてくれた。僕たちは彼女のお勧めで何種類かの串焼きと海老のお刺身を、僕は決まってハイボールを注文した。彼女は緑茶ハイを頼んでいたと思う。いつも「乾杯」か「お疲れ様」、どちらを言うか迷う僕はグラスを手に取り彼女の第一声を待った。随分と間抜けに見えていたと思う。
そうして迷っていると僕の向かい側で少し照れ臭そうにグラスを持つ彼女がいることに気がついた。多分彼女も僕が向かい側にいることに何か違和感に似たものを感じていたんだと思う。それと自分が働いていたお店に同い年の男性と来ていることに。それは単なる気恥ずかしさなのか、はたまた後ろめたさなのか推し量ることは僕にはできなかったが、そんな思考も彼女の穏やかな「かんぱい」によって停止した。
僕は次々運ばれてくる料理をつまみながら「この料理、厨房のあの人が作ってるの。」とか「今の板前やってる人少し前に異動してきたんだけど辞めたいって言っててね。あの人いなくなったらどうするんだろう。」とか彼女が話すこのお店の内情を頷いて多少相槌も交えながら聞いていた。正直このお店の内情に興味はなかったがそれを話す彼女が少し恥ずかしそうに話をしているので、彼女と僕を区切る線のようなものの奥から手招きしているように思えて嬉しくなった。ハイボールを五杯くらい飲んだところで、十四代という日本酒と追加でまた海老のお刺身を注文した。「海老、美味しいね。でもあまり飲みすぎちゃダメだよ。」という彼女の笑顔を素直に聞いたフリをして僕は際限なくグラスを傾けた。程なくしたところで案の定視界が反時計周りに回転して見えるほどに。日本酒は後から来るんだな、不覚だった。
彼女もいつもよりかは飲んでいる様子だったが、合間に水を飲んだり休憩したりしていたのでそこまでではないようだった。置いていかれるのが嫌で「酔ってる?」と僕が聞くと「結構酔ってるよ。」と言葉をくれた。それでまた嬉々として飲む僕は恐らくただの馬鹿なのだろうと思う。
あまり覚えていないのだが彼女の話だと働くアルバイトの子を見て涙目で「頑張って。」と言いながら一人二千円ずつ渡していたらしい。どうりで八千円少なかったわけだ。傲慢から来るその行動は僕を僕たらしめるそのものに違いなかった。僕にそんな余裕などないはずなのに。
店員さんとも少し会話をして、程なくしてお会計をして店の外に出た。その時チップをあげたにもかかわらずそれに見合わない出送り方が気に入らなかった。自惚れには違いなかったが少しくらい特別扱いしてくれてもいいじゃないか。寂しい男だろう?僕は。少し気分が落ち込んでいたところ、睫毛に冷ややかな感覚を覚えた。雪だ。雪が降ってる。
「結構降ってるね。」耳の奥で彼女の声が聞こえた。先程の不本意と酔いが相待って感覚はズボラだった。何とか意識を保ちながら僕は平然を装い言った「ね。びっくりした。寒いや。」
「かえろっか。」彼女が言うので頷いて帰路についた。彼女に手を引かれながら。ぼやけた視界に映る雪は形を持たず、ただ白い綿が黒の背景の上を滑っているように見えた。でも感覚は確かにある。頬は冷たく足も冷え切っていた。でも右手だけはほんのりと暖かかった。
しばらく歩いていると次第に酔いは覚め、彼女の左手の温もりを直に感じられた。彼女は僕の歩くスピードに合わせ一歩一歩違う間隔で歩んでいた。それに気づいた僕も彼女に合わせぎこちなく歩いて見せた。次第にその感覚のズレは狭まり、いつの間にか同じ間隔で、同じ速さで歩いていた。これが人と生きると言うことか?未だにわからない。
彼女の部屋についたのはそこから十分ほど経過した頃、冷え切った部屋に二つの温もりを足した。
ただいま。そう言うと彼女はまた僕のダウンジャケットをハンガーにかけてくれた。いつものように真ん中を合わせて。
「居酒屋さん楽しいところだったね。またいつか行きたい。」僕が言うと彼女は「ね。」とだけいい朗らかに笑った。そうして僕たちは彼女の部屋の低いテーブルの側に二人で座った。
そこからは思い出話(と言ってもついさっきのことなのだが)に花を咲かせ、飽きもせず僕らはマクバで買っておいた缶チューハイを飲んで談笑を続けた。
また中身のない話をしていたと思うが僕は相変わらず楽しかった。そのためまた少し飲み過ぎてしまい視界が今度は時計回りに回っていることに気付いた。この二日間、全てが夢のような感覚に陥っていたせいかふわふわした感覚にはいつもより鈍感になっていた。少しして「トイレ借りるね。」と僕は平然を装いトイレに立った。そして嘔吐した。綺麗な便器に頭から吸い込まれそうな無様な姿で僕は焦っていたのだ。「この時間を現実だと思いたい。」この明らかな現実を酒という夢と現実を混同させるものから僕を解離させるべく、なるべく静かに、悟られぬように、喉の奥に指を入れた。目に映る吐瀉物は夢や現実がごちゃ混ぜになったピンク色したパステルカラーのもので少し綺麗に見えた。
跳ねた吐瀉物をトイレットペーパーで拭き取り、一度流しただけでは流しきらないのでタンクに水が溜まるのを待って、二度、流した。洗面所で丁寧に手を洗い僕が嘔吐したことなど知る由もない彼女が待っている部屋に戻った。「ただいま。」というと彼女は相変わらずの垂れ目でおかえりと言った。
酔いが少し覚めたので喉に張り付いてある胃液を流し込むついでに酒を飲んだ。少し沁みるけど、今はそれさえ有り難かった。
三十分くらいして彼女が何の気なしにトイレに立った。いってらっしゃいと言いながら僕は携帯を手に取り居酒屋で撮った写真を見返していた。艶やかに画面に映る海老は恐らく新潟の南蛮海老だろう。本当に美味しかったなとか店員さんへの少しの不満を隠せずにいた自分が不甲斐なく思え少しだけ複雑な気持ちになった。
次に昨夜の夕飯の写真を見返したところで彼女が帰ってきたので携帯を閉じ彼女の顔を見て「おかえり。」と先の彼女の真似をした。彼女は笑みを含み言った。
「ただいま。吐いたでしょ。だって、トイレ、海老の匂い。」
確かにこの世界、漁港の近くか魚市場のトイレでもない限り海老の匂いは決してするはずもないことを僕はすっかり忘れていた。ましてや海から遠く離れたこの町で、その小さなアパートの小綺麗なトイレの中で、その匂いがするのは不可解な現象に違いない。
「ごめん。吐いた。」僕は思わず笑いながら謝罪した。何故か照れ臭そうに笑っているの彼女を見てほんの少し視界が揺らいだ。
恐らく半分以上残っているであろう缶チューハイを彼女は”カン”と小さい音量でテーブルに置き、もう寝る?と僕に聞いてきた。きっと優しさがあったのだろう。でも今日ばかりはその優しさが煩わしく思った。浸っていたいのだから、だって。
もうお布団行くよと半ば強引にベッドに連れ込まれ、暖かかった空気に浸っていた僕は唐突な冷ややかな布団の温度に萎縮した。目を瞑り布団の温度が一肌程の温度になるのを待った。五秒くらい経った時だと思う、手に温もりを感じた。目を開けると彼女が目を合わせずに僕の手を握っていた。彼女は今どんな感情でいるのだろうか?僕を一男性として好意を持って接していてくれているのだろうか、それともただのリビドーによる行為か。分からなかったが、僕の中は明らかに前者の方だった。しかし、彼女と一緒になったからと言って月並みな未来を想像することはできなかった。この遠く離れた距離で、半ば決まりきっている人生を賭けてまできっと僕らには一緒になる勇気はなかった。今目の前にいる彼女の体温を直で感じているのに、何処か遠くにいるような、まだ電子回路の奥深くで関わっているような、途方もない感覚。どうしようもない、そう納得するしかなかった。
僕は彼女の顔を見た。目は合わせてくれなかった。
しんしんと雪が降るその夜、小さなアパートの小さなシングルベッドで僕は彼女にキスをした。
彼女は驚く素振りもせず、ただ目を閉じ、時計の音が響く部屋で小さく小さく震えていた。
ご察しの通り、その夜僕は彼女と最初で最後であろうセックスをした。温かく冷たい身体を理解し共有するように一つ一つ丁寧に事を紡いだ。
彼女と僕はわかっていた。これが最後の夜であることを。その痛みを受け入れる準備はできているはずだった。出会ってしまったことを後悔してしまう思考に陥らないために、そこから目を背けるように、僕はただただ彼女の目を見ていた。
すると彼女は一粒だけ涙を流した。そのような事実はなかったと言わんばかりの小さな涙は、音もなく彼女のなだらかな頬を無視し万有引力の方程式に基づいて耳の中へ落ちていったように見えた。
僕は昼間に見た雪のことを思い出した。マクバの外で見たその雪は、雪とは程遠い青空の下キラキラと光り輝いていた。この彼女の涙のように静かに舞う雪はふわりと浮かんでは消える”儚さ”と体現している言っても過言ではない。後に調べたのだが、晴れた日の雪は”風花”と言うらしい。
「私たち、もう一生会えないかもしれない。」彼女が震えた声で言葉を漏らした。
僕は沈黙した。否定も肯定もできなかった。そもそも未来のことなど誰にも分からなことは僕も彼女も分かっている。それを踏まえたとしても彼女はきっと僕との未来を展望することができなかったんだと思う。そして僕も同じだった。未来のことはわからないと言っても肌で感じるそれは、そうとは言わなかった。それと同時に僕は頬に伝う感覚を覚え、初めて涙を流していることに気がついた。止め処なく流れる涙はこの部屋を水浸しにしてしまう程の勢いに感じた。何が悲しかったのかは分からない。ただただこの人生で出会って、束の間かもしれないが同じ時間を共有したことへの喜びと、既に確信に近い感覚である、もう一生会うことがないと言う逃れることができないであろう未来が悲しかったんだと思う。
「楽しかった。三日間。」
重ねて言うと彼女も一粒だった涙を二粒三粒と流し、次第に数では数えられない涙の形に変わっていた。それでも僕は何も言えず、只々彼女の腕の中で咽び泣いていた。
彼女は今現在新しい出会いがあったらしくその彼と同棲しているらしい。その報告を受けた後は一切連絡を取っていないので分からないが、苦楽はあるものの幸せの渦中にいるのは確かだろう。
僕にも新しい出会いがあったり別れがあったりしていたがそれとなく平凡な暮らしをしている。
それでも当時の僕らは目の前の現象が全てだと信じて止まず、それが悲しくて肉体が壊れてしまうほど一晩中涙を流していた。
今目の前にある事柄が未来のどこかでどう作用してくるのか分からない人生を以前僕は中身の見えない茶色い瓶に例えたが、一つ、”風花”をつけ加えておくことにする。
ふわふわと舞い降りる雪は僕たち。時たま太陽の光に照らされキラキラと輝く。そうして僕らは散り、また新しく生まれ、この空虚な空間へとふわふわと舞い降りてゆく。
きっと僕はこの先もこの”風花”のように太陽の光に照らされながら出会いと別れを繰り返しその度にキラキラと音を立てて輝きそしてまた一つ思い出を心に追加して生きていくことになるだろう。
その一層寂しい雪たちに敬意を込めて。
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