浮かんでは消える
伏見 明
赤いマフラー
「パンツを履く時はどっちの脚から履く?」
そう聞いて来た君は赤く夕焼けに色付いていた。
西側から差す夕焼けはこの何でもない脱衣所をさも現実じゃないと、これは夢なんだと僕たちに語りかけている様だった。
僕の目に映る艶やかな彼女の肌と毛先は今まで以上に官能的だった。
洗面所の鏡の前でバスタオルを頭に巻いたまま上着を着る仕草は既に見慣れていたけれど、疑問は残るばかりであった。
いつの日かそのバスタオルを頭に巻いたまま上着を着る理由を聞いたことがある。
その時彼女はあっけらかんとした表情で「だって、上着が濡れないじゃない。」と言った。
僕は「そっか。」とだけ返し、自分がそこまでその仕草に興味がないことに気がついた。
彼女はタオルを上着の襟に巻き込んだまま僕の部屋に急いだ。急いだというのも今思えば違うかもしれない。せっかちな僕が急かしただけなのかもしれない。
彼女が二階の僕の部屋に向かう間、階段を登る時には彼女の臀部を触るのが習慣だった。
彼女は「やだ。」とだけ言い、無邪気な僕の行為を横目に、その目先には化粧水だけが写っていた。
部屋に着くと彼女は無造作にベッドの上に横になりペットボトルの水を飲んだ。
頭に巻かれたままのタオルは枕を濡らすことを阻止し、それはあたかも全て計算し尽くされた様に感じた。
しかしそれはただの結果であり、彼女の習慣がそうさせたことは当時の僕は知り得なかった。
僕はその姿を見て彼女より早くテレビ台の下に並べてある化粧水を肌に染み込ませ、ドライヤーのスイッチを入れて自分の頭を撫でながら髪の毛を乾かした。
その間彼女はインスタグラムなんかを見ていたと思う。
少しだけ髪の毛が湿っている事実を伏せ、「髪の毛を乾かし終わったよ」という意味で僕も携帯を手に取りインスタグラムを開いた。
相も変わらず携帯の画面に集中している彼女に嫌気がして「風邪ひくよ。」と僕は素っ気なく言った。
今思えば何をそんなに生き急いでいたのだろうか?彼女は五秒くらい画面をスクロールする指を動かし、電源ボタンを押してベットからスッと立ち上がって僕があらかじめテーブルに並べておいた化粧水を僕より多く肌に染み込ませた。
彼女は元々美容学生だったこともあり化粧水の塗り方は僕とは違って丁寧だった。
肌に刺激を与えない様にペタ、ペタと長く肌に手をつけ、顔の内側から外側へとその手を移動させながら化粧水を染み込ませていた。
僕はいつの日も丁寧な化粧水の塗り方と、保湿された肌とは逆に乾燥しきったその掌に見惚れていた。
先も言った通り彼女は美容学校に通っていて、今は埼玉県戸田駅前の美容室で働いている。
その乾燥し、ひび割れ、赤く爛れている掌を僕は表面から見ていた。美容師は大変そうだなとか、ちゃんと保湿しなきゃとか。
そして彼女はよくその爛れた掌を「痒い。」と際限なく掻き毟った。そのためその”赤”はより一層その色を深めた。
僕はそれを見ていられず、あたかも心配した素振りで「病院行ったの?」と聞いた。
すると彼女は「面倒臭くて言ってない。」と掌を掻き毟りながら言った。
僕は納得がいかなかった。それでは何故「痒い。」と一丁前に辛くなっているのか、それならば病院に行けばいいのに。病院に行って、それでも「痒い。」というのならば僕は納得していただろう。病院にも行かずに、顔をしかめながら掻き毟る彼女の姿は到底僕の目には理解し得ない行動に写った。
その胸の内を彼女に言うべきなのだろうか?実際問題辛くなっているのだから解決策を提示するのが本当の優しさなのか、彼女に同情しそれを静観することが優しさなのか、その当時の僕はあまりにも未熟すぎて分からなかった。(今の僕でも胸を張って分かるとは言えないけれど。)
ただ優しい言葉をかけることが本当の優しさではないと、誰も彼も口々に言っていたのをそこでふと思い出した。
やめとけばよかったのに僕は彼女の顔も見ず明後日の方向を見ながら言った。今思えばどうしてそんな言い方しかできなかったのだろうと思う。
「病院に行って、それでも痒くて辛くなってるのはわかるけど、病院に行かないでそんなに痒い痒いって言ってるの、正直聞いてられない。」
彼女は掻き毟る手の速度を落とし、数秒経ってから「スン」と鼻を啜った。
彼女の顔を覗くと、目蓋には涙が浮かんでいた。僕はまだ苛立っていたと思う。
彼女は黙りこくった。僕の発した言葉はこの冬の夜の暗闇に吸収されてしまったのだろうか?僕はこの静寂に終止符を打つ音をひたすらに待った。
涙は次々と流れて、頬を伝い、仕舞いには部屋の座布団に落っこちた。
彼女はぽつりと言葉を溢した。
「そんなの私が一番わかってるよ。」
僕は何も言えなかった。彼女が流したその涙は、僕が発した言葉にだけ向けられた訳ではなく、事実を含めて全てわかっている彼女自身にも向けられた涙だったのだ。
悲しみと苛立ちと不甲斐なさがごちゃ混ぜになった涙は(少なくとも僕に対する失望もそこに含まれていただろう。)変わらず滴り落ちていた。
僕は彼女の顔を見ていられず、また明後日を見た。その先に何があるのかは分からない。ただただ自分の考えのなさと彼女を想っていると思っていた自分を彼女の瞳に見てしまう様な気がして、目を背けていたのだ。
彼女はいつも無邪気で、優しくて、楽しくて、悲しい。
時々彼女は僕に言った。
「○ちゃんの前にいる時は、サイテーで下品で可愛くない私を隠すので精一杯だよ。少しでも可愛くいなくちゃ、○ちゃんに相応しい彼女にならなくちゃって、いつも思うんだ。」
それは勘違いだと言った。僕だって彼女が思っている様な出来た人間でもないし、彼女と一緒にいる夜は「早くお風呂入るよ。」といつも急かすくせに、自分一人の時は明日でいいやと寝てしまう。顔だって人並み以上に整っている訳でもない。
自分の駄目さ加減は一番僕がわかっているつもりだった。それを彼女にはいつも言っていたつもりだった。
しかしそれでも彼女が僕を終始そう見ていたと言うことは僕もどこかで彼女の様に自分を偽って、演技をして接していたのかもしれない。
そしてそれはお互いに”無理”を生じさせ、その”無理”はいつか心に何か蟠りの様なものを生み出す。
その蟠りは消えることはなく、僕らが無意識のうちに心を乾燥させた。物事には表と裏がある。彼女の乾燥した掌を表面から見ていた様に、僕は無意識のうちに裏やその本質を見ることをやめていた。それがもたらすことはただ少し違和感のある日常。僕はその日常を問題なく暮らすことができるだろうか?
僕らは旅に出た。
本質を見失ってしまった僕らにはそれしか選択肢がなかったのだ。
二人は目の前にある分かれ道をそれぞれ一人で歩むことにした。
この旅に意味があるのか、今はまだ分からない。もしかしたら何の意味もない事なのかもしれない。
僕たちはお互いの心の底に出来てしまった蟠りを無視していきていくことは出来なかった。
彼女がいなくなった部屋のカーテンを開けると、変わらない景色がそこにはあった。
庭にあるこじんまりとした竹藪に、小さな平家、遠くには杉の林、その足元に広がる田んぼ道。そしてその景色の頭上には青空が広がっていた。
いつもと変わらない景色と日常。今の僕にはそれだけで十分だ。
師走も半ばを過ぎて、テレビではちらほらと地方で雪が降っていることを告げていた。
もうすっかり冬色に染まった街を歩く人はぶくぶくと太っている様にも見える。
僕は玄関の扉を開け、変わらない景色の中を歩き出した。目的地はない。ただ進むべき方向へ、歩くだけだ。
冬の冷たい風が僕の襟足を揺らした。
その時僕は、押し入れにしまってある彼女から貰ったマフラーに想いを巡らせていた。
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