Nordwald Café

涼瀬いつき

第1話

 むかし、学者夫婦が一人娘を授かりました。

 水面を映した透きとおる髪の赤子は「ミナト」と名付けられ、周囲の愛情を一身に浴びながら健やかに育ちました。


 齢十の誕生日を過ぎたある日のこと、母親はミナトを呼びつけて「北の森に暮らす婆さまのところへ、荷物を届けておくれ」とバスケットを準備しました。

 甘酸っぱい柑橘系の香りはミナトも大好きなフルーツパイ。うっかり手が伸びてしまうのも避けられないでしょう。


 娘のつまみ食いを制すると、母親は言い聞かせるように語気を強めます。


「いいかい、森は道が入り組んでいるからね。母さんの地図どおりにお行きなさい」


 草木が鬱蒼と生い茂る北の森は昼間でもどこか薄暗く、二桁に満たない子どもは立ち入り禁止だと、大人が口を酸っぱくする場所。

 ミナトの両親も同様に口を揃えていましたが、ついにお許しが出たのです。


 とはいえ、賢い勤勉家の血を受け継ぐ娘は、行動力のある好奇心旺盛な子どもでした。

 母親が羊皮紙に記す道順は遠回りなこと、途中にある熟れたラズベリーの木が休憩に丁度良いことも知っています。


 北の森がすでに遊び場になっていることは、ミナトと婆さまの秘密です。


 余計な一言を漏らさないように手で口を押さえていると、荷物を用意した母親が玄関まで見送ってくれました。


「さあ行っておいで。初めては心細いだろうけど、不安になったら来た道をもどりなさい。そうすれば真っすぐ家に帰ってこれるよ」


 母親の言葉に深く頷くミナトでしたが、杞憂の心配です。だって慣れた森だもの。


 奥深くへ歩みを進めると空は徐々に遠ざかり、木々のざわめきが一層大きく反響して、すぐ側を羽ばたくカラスが客人の来訪を知らせます。

 獣の瞳が茂みに光ると、生ぬるい風と水気の含んだ土草の匂いがじっとりと肌を撫でます。


 近所の兄さん達は度胸試しだと競い合い、姉さん達はフリルをあしらったワンピースが汚れてしまうと嫌厭するのですが、この娘ときたら足取り軽く、なんなら小鳥の囀りにあわせて鼻歌をこぼす程度には、心弾む道のりだというのです。


 なにせ目的は森で暮らす婆さまの家。カフェを営む婆さまは、ミナトが扉をノックするとしわくちゃの顔をさらに緩ませて、ハチミツたっぷりのパンケーキと、たくさんのおはなしを聞かせてくれるので、頭の中はすでにお花畑でした。


 母親の地図は一度も開かれずカバンの中へ。


 丸太を渡り小川のせせらぎを辿ると、やがて色とりどりの可憐な花が咲き誇る庭が見えました。家の裏側には手入れの行き届いた畑と、その隣に空色を反射した煌めく泉があり、腰の曲がった老婆が一人、ぼんやりと編み物をしています。


「おやミナト、いらっしゃい。またこっそり遊びに来たのかい? お前は本当におてんば娘だこと」


 老婆のしゃがれ声に、ミナトは首を横にふりました。


「ううん。わたし、十歳になった。こうにん」

「そうかいそうかい。ミナトも大きくなったねぇ。どれ、祝いをしてやらんとな」


 老婆は木箱から編みぐるみを取り出すと、そのうちのひとつをミナトにあげて、かわりにお土産のフルーツパイを受け取りました。

 早速パイにかじりつく老婆ですが、美味しいおやつを食べても寂寥とした背中は縮こまり、いつもなら聞かせてくれる物語も気分が乗らないようで、ぽつりぽつりと零れるため息を娘が無遠慮に拾い上げます。


「おばあちゃん、元気ない」


 まっすぐな物言いに老婆の眉は八の字に歪みますが、純真な幼子に射抜かれたなら仕方ありません。


「実はねぇ、息子家族に二番目の赤ん坊が生まれたのさ。可愛い孫を一目見ようと思ったのだけど……」


 遠い視線の先には山が連なっており、老婆はそのさらに先を見据えるように、双眼を鋭く細めます。


「なんせ遠くで生活しておるから、移動だけでもひと苦労。一週間は留守にしないといかんでね」

「たいへん」


 「そう、しかし大変は他にもあってな」と老婆の声は一段と低く静かに、周囲を確認してからこっそりと耳打ちしました。


「この森にオオカミの群れが暮らしておって、ヤツらときたら人間の姿があるうちは引っ込んどるが、ちいっとばかし家を空けたら食料を荒らしまわる。まったく、悪知恵のはたらく獣だよ」


 一週間も家主不在が続いたら、無残に変わり果てる畑が想像出来ました。老婆には留守を頼めるほど親しい友人がいないため、すっかり困っていたのです。


 ならばと、元気の良い腕が


「わたしが、おるすばんする」


 と提案しますが、


「いいやミナト、それはいけないよ。お前はまだ木登りも出来ない小娘じゃないか。留守番は頼めないね」


 当然のように断られました。


「じゃあ、お母さんとお父さんもいっしょ」


 懲りない発言を、


「いいやミナト、それもいけないよ。お前の両親は論文発表が近いそうじゃないか。無茶はいえないよ」


 拒み続ける老婆に、ミナトの手数はすっかり底つきました。「おじいちゃん」と呟けばそれもいけないと言うのですから、どうしようもないと抱きつくことしか出来ません。少女の思いやりに受け止めながら、老婆がつけ加えます。


「もし留守を頼まれてくれる大人がいたら教えておくれよ。親切なお嬢ちゃん」


 その晩、夕食の席で早速お願いをしましたが、両親の苦い表情がミナトの頬を膨らませます。熱々のごはんを食べても、絵本の続きを読んでも、あたたかい毛布にくるまったところで、老婆の言葉が何度も繰り返しました。


 夜窓から北空を眺めていると、満月の青白い輝きが星々をさらい、石畳の街に遠吠えが響きました。

 やはり婆さまを助けないと。丸めた手のひらにぎゅっと力がこもるのです。


 ニワトリが太陽の時間を高々に告げて、祖父が友人宅から帰ってくるや否やミナトは腰にしがみつきました。

 孫娘からのおねだりに弱い祖父でも、今回ばかりは旅行に出かけるため断わざるを得ませんでした。それならば、


「隣街の便利屋に依頼しよう。あそこならきっとお前の力になってくれるよ」


 露店や大道芸人が多く集まる広場はいつも活気に溢れていましたが、日頃にもまして人が集まっています。 


 演奏隊のマーチング練習を幼い兄妹が真似る後ろで、露天商の隙をついた泥棒猫が食べ物を加えて一目散に走り抜けます。

 噴水に虹がかかり、焼きたてパンの芳香。屑に群がるハトが一斉に飛び立つと、同時に無線放送の案内が流れました。


 近々、広場を中心にこの街一番のお祭りが開催されます。隣国からサーカス団も招かれる大規模な催しは、仕事の合間を縫って準備する住民もいるほどです。ミナトも友人と遊びに来る約束をしていました。


 角を左に曲がりお店の看板を二つすぎると、アイボリー色の建物が目に入ります。一階の出窓にはアンティーク雑貨が並んでおり、薄いレースがふわりと揺れて。


 「おやミナト」と、店前で掃き掃除をする娘が快く迎えました。腰まで伸ばした髪はひとつに括られて、振り返りぎわ宙で踊ります。


「なにかご用ですか」

「ご用。アヤメ、わたしとカフェやろ」

「えーと……あぁ、おままごとのお誘いですね。夕方、仕事が終わったら遊んであげますよ」

「ちがう、森のカフェでおるすばんするの」


 要領の得ない説明に痺れをきらすと、娘は客人を店内へ招き入れました。金のベルがカランと転がり、建付けの悪い軋む木の音が耳に残りましたが、ここの店主は修理を後回しにするのだとか。


 狭い部屋はものに埋もれ、埃の被った本の山は棚に収まりきらず、一種のオブジェと主張するように机の端で積み重なっています。壁にかかるコルクボードはメモ用紙や手紙でいっぱい。娘が通りすがりに一枚はがして内容を確認しました。

 看板どおり人々の手伝いで生計をたてるこの店は、とくに祭りの時期は忙しいといいます。


 本と本の間からひょっこり顔を覗かせた店主の男が、新たな用件を一瞥するなり、隠す気も無く深い息を吐きだす程度には。


「生憎仕事は飽き足りる程にありましてね」

「堅いことは抜きにしようじゃないか」


 祖父と店主が別室へ離席すると、娘が再度ミナトの話を聞きました。

 婆さまの事情を説明すると、娘は「それは一大事ですね。お向かいの夫婦喧嘩の仲裁役で骨を折るより、それはもう、ええまったく」と先程手にした紙は何も見ていないとボードに戻し、新たな依頼書を作成しました。


 娘はミナトよりもお姉さんで、けれど母親よりうんと年下ではありますが、これで婆さまも認めてくれることでしょう。


 あとは店主が引き受けてくれるか。ミナトの心配は階段の足音が打ち消してくれました。のんきに欠伸を漏らすもう一人の従業員を寝坊だと娘が咎め、掃除当番を代わったのだから多数決で味方してほしいと願えば、従業員は寝ぼけ半分に了承しました。


 天秤の皿はミナトばかりに重りを増やします。

 店主はとうとう従うしかありませんでした。


 それから娘たちは鍵束を受け取ると、婆さまを旅路に送り出し、カフェと住居の一軒にお邪魔しました。


 木製のテーブル席が四つ、カウンター席も四つ、キッチンでは使い古された大鍋が家主の帰りを待ちわびています。


 コトコト煮込んだキノコシチューは婆さまの得意料理。娘たちも口どけなめらかなシチューは大のお気に入りだったので、腹の虫がか弱く鳴けば「シチュー、食べたい」とミナトが背中を押し、「シチュー、食べたいですね」とアヤメが傾きました。おなかと背中がくっつく前に、けれど二人にはやるべき仕事が多くありました。


 留守の間、部屋の掃除に畑仕事、庭管理も任されています。もし、来客があればその対応を、それでも暇を持て余すなら新しいメニューを考えて欲しいと頼まれました。

 店の食品は好きにしてよいと言われたので、婆さまが帰ってきたらとびっきりの食事をこさえようと、秘かな計画も立てています。


 ミナトは泉へ水くみに、アヤメはテーブルとイスを隅へ追いやり、埃をたたきました。婆さまの丁寧で生真面目な性分から室内は清潔でしたが、年老いた身体には手の届かないところを、若い娘が張り切ります。


 食器を整理して水場をこすり、くすみのない窓からやわらかな夕日が差し込むと、その日の特性シチューはいつにも増して温かくとろけるのでした。


 霞む地平線の先に朝日が昇り、静寂に沈む眠りの森を呼び起こすと、二人は揃って納屋へまわり、農具を振り上げ畑を耕しました。


 涼風が髪を弄び視界を邪魔するなら、深紅のリボンでふたつに結んでしまいましょう。ミナトの手つきは不慣れなもので、左右で高さの違う髪型は街の笑いものでしょうが、ここにはアヤメと二人きりなので気になりません。


「私がやりましょうか」と解かれそうになると、ミナトはそれを断りました。神さまが彼女に与えた才能は、人の頭に鳥の巣を作ることだからです。


 新鮮な野菜を納屋に置いて、あとは庭の雑草刈りに励みました。


 シロツメクサを集めるとアヤメの指先が器用に絡み合い、あっという間に白の冠に変わりました。一方、もうひとつは形にならず、だんだんと飽きてきました。

 「お婆ちゃんに贈り物をしたらきっと喜びますよ」と提案されたので、どうにか頑張れたのです。


 日が暮れる頃には大きいのやら小さいのやら、いくつかの輪っかが並びました。


 二回の夜を越えた朝、日課の掃除を済ませるといよいよ仕事が尽きて、曇天の覆う森は出歩く天気でもなく、新しいメニューを考えようと紙とクレヨンを床に広げて意見を交わしました。


 レシピを眺めながら、親しみのある、けれど誰も食べたことのない面白い料理が良いと理想だけがぐんぐん高まります。


 アヤメは街中を探しても出会えずにいた、腹を満たしつくす特大のハンバーガー。

 ミナトは祖父の発明品である不思議なシロップを用いたジュースに決めました。


 やがて、雨粒が屋根を叩く音色をぼんやり遠くに聴きながら、微睡みの世界で大盛況に包まれる年若い店員がいました。


 しかし、やさしい世界からの目覚めは冷たく悲しいものです。


 翌朝、すっかり晴れた畑の様子を見に来ると、納屋の扉が風で開いていました。そして保管していた収穫物がいくつか消えてしまったのです。ラズベリーのカゴも見当たらず、このままではアフタヌーンティーを楽しめません。


「あっち、落ちてる」


 ミナトが指さす方には小道があり、盗人へ導くかのように真っ赤な果実が目印となりました。婆さまが心配していたオオカミかもしれません。猟銃と鎌を構えて、慎重に追いかけます。


 それは茂みに隠れた切り株の前で途切れています。陰から静かに伺うと、獰猛なオオカミではなく、ひとりの少女が孤独に座り込んでいました。


 繊細なブロンドヘアーに櫛をいれ、高価な装飾を施された衣服は、陶器のような柔肌によく馴染んでいました。

 西洋人形を連想させる少女は、潤んだ唇の端を赤く滲ませています。手元には随分数の減ったラズベリーに、納屋から持ち出された野菜がありました。


 少女は二人に気がつくと、くるりとスカートを翻し、優雅な一礼のあと潔く罪を認めました。


「ごめんなさい。ワタシはこの森に迷い込んだ哀れな小娘でございます。手荷物はわずかな身の回り品ばかり、昨晩の大雨を凌ごうと彷徨えば、丁度納屋と食料にありつけたので、主に感謝と許しを請いながら、命の繋ぎを頂戴したのです」


 少女を気の毒におもい、娘たちは武器をおろすと側に寄り添いました。こうして並ぶと年頃も変わらず、打ち解けるのに時間はかかりませんでした。もとより誰も人見知りしない性格なのでしょう。


 聞けば少女は隣国のサーカス団に所属しており、祭りのためこの国に訪れたそうです。

 折角だから観光しようと歩き回っているうちに、仄暗い自然に囚われたと語ります。


「街まで案内しますよ。けどその前に、お腹が空いたので朝ご飯としませんか」

「さんせい」


 左右に回り三人で手を握ると、老婆の家に帰りました。


 娘たちにとって初めての客人です。振る舞う料理は特別なものでないと。


 リズミカルな包丁さばき、フライパンで踊る肉とスパイスの絡み合う香りが食欲を刺激します。ミートパティと瑞々しいレタス、あいだにアクセントを添える濃厚なチーズを力強いバンズが挟みました。

 中心に国旗を差し込めば、ほおばりきらないチーズバーガーの完成です。


 欲望に忠実なレシピだと満足げなアヤメを横に、鞄に潜ませていた「不思議な」シロップがグラスに注がれました。

 なんの変哲もない炭酸水から青や緑の煙があがり、気泡が激しく暴れます。ほんの束の間、到底料理の光景とはおもえない一瞬でしたが、完成したジュースが七色に移ろう幻想的な品物となりました。


「味は、おじいちゃんのほしょうずみ」


 テーブルクロスをひきカトラリーを並べて、満を持して登場した豪華なお皿に、少女は拍手で喜びました。

 両手でつかめないハンバーガーも、虹を彩るジュースも初めて目にするものばかり。口いっぱいの幸福なひとときは、盗みをはたらいた罪の味を上書きました。


「ああ、なんと慈悲深きお嬢様方。このご恩、決して忘れることはありません。ですが、身ひとつのワタシに対等な金貨は払えないのです。どうかワタシの芸をご覧ください。いくらかの代金がわりとなりましょう」


 娘たちを外へ連れ出したその姿は、瞬きの間に異国の詩を紡ぐ踊り子となりました。


 薄白のヴェールに覆われた、触れようものならひび割れてしまう、脆く儚い印象を与えますが、草花を踏みつける重力は確かに踊り子を地にとどめるのです。

 踊りを誘導する鈴の音に似た歌声はよどみなく空へ吸い込まれ、心地よい高音が舞台背景を現わしてゆきます。


 踊り子が弾めばシャンデリアが灯り、宙をなぞれば絢爛華麗な貴族の社交界が幕を上げます。

 額縁に収まる絵画の中で、パートナーとはぐれた踊り子が物語を綴りました。


 踊り子に誘われ、枝には鳥が集まり、ウサギの親子が観覧席に加わりました。華麗に舞う姿は息つく暇もないほど、心を奪い去られてしまいます。


 そんな少女の額縁を外し、舞台から降ろす少年がいました。

 少女と似通った服を土で汚した少年は、心配と呆れに少々の怒りを込めながらも少女の無事に胸をなでおろして、遅れてきた便利屋の店主に礼を述べました。

 街ではサーカス団員が行方知らずだと騒ぎになり、人探しの手伝いと依頼が転がり込んできたといいます。




 無事仲間のもとへ帰った少女は、のちに大舞台で観客を虜にすると、賞賛を一身にあびたそうです。




***


 留守番の務めを終えたミナトが婆さまのところへ遊びに行くと、何故か祭りの翌日から客足が増したそうで、以前の活力を取り戻した婆さまに娘も嬉しくなりました。


 客の一人によれば、隣国のサーカス団がやけに「北の森のカフェ」を宣伝するので、

 足を運んでみたそうな。

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