君の声は聞こえない、その歌は聞こえる
真朝 一
君の声は聞こえない、その歌は聞こえる
それがきっと、彼にとっての偽善の救済だったのかも知れない。
激しい音とともに教会のエントランスの観音扉が開く。少年は地獄に行って帰ってきたような形相で立っていて、その左手には金属バットが握られていた。
少年は学生服だった。引きずられたバットが地面とこすれてガラガラとうるさい悲鳴をあげる。建物には誰もいない。ノートの罫線のように規則ただしく並べられた長椅子と、光の入らないステンドグラス。おどる蝋燭の炎。壁に反響してあちこちに飛びまわる、バットの金属質な音。
少年はそれをふりかぶり、細長い蝋燭台をかたっぱしから叩き落としはじめた。そこここに転がる火は、聖書や絨毯に引火して一気に燃えひろがる。踏みしめた足あとのとおりに野の花が咲いていくような、不思議な光景だった。炎が可燃物を食いちらかす音と、バットが蝋燭台をへし折る音だけが、神聖な静寂につつまれた教会に乱暴に響く。その煩雑なメロディに耳もかたむけず、少年は真正面のキリスト像を見あげた。
絨毯が燃える。炎が拡大してゆく。少しずつ勢力を増していく火の中、悠然とその光景を見守っている神の石像。表情ひとつ変えず、なんの感慨ももたず、天地の創造主は人間の生みだした炎を傍観している。
少年は口の端をあげた。火に取り囲まれていることなど彼の眼中にはない。
「だから言ったじゃねえか、くそじじい」
壁まで燃え広がった炎が、彼の大人びた横顔と穏やかなキリストの体を金色に照らす。少年は優しく見おろす神にむかって憤然として唾を吐いた。
「俺はあんたみたいな、史上最大の偽善者が大嫌いなんだ。どうせ誰も救ったりしないんだろう。そのくせ、そんな気色悪い立ち位置で満足していやがって」
熱でガラスが割れる。キリストの周囲にいる天使たちが焼けてゆく。すべてが燃える。なくなっていく。この世の一切のものが、誰にも知られないまま、知られる必要性も失ったまま。
ということを、昼休み、僕は焼きそばパンが突っこまれた誠二の口から直接聞いた。
「それ、マジで?」
思わずたずねる。情報の波に溺れることに慣れた身、ばか正直に全てを信じるつもりはない。
「さあ、どうだろう。ニュースではろくなこと言ってなかったしな」誠二はパンからあふれそうになる焼きそばの端を唇でキャッチした。「こんな学校だから珍しくないんだろうけどさあ。本当だとしたら長谷部先生、それが理由で休んでたんだろうな。こりゃ学校のイメージがた落ちもいいとこだ。ただでさえ奈落級に落ちてるのに、ボヤ騒ぎとくりゃあ」
「ほんとにうちの学年なのかな、あの教会燃やしたの」
「てゆうか、もう大体個人の見当ついてるって話だし」
誰、とたずねようとして、それはここで話すべきことじゃないとすぐに察して口を閉ざした。周りでは大勢のクラスメートたちが昼休みのお弁当タイムを楽しんでいて、みんなそれぞれ二週間前のニュースで事件のことを知っているはずなのに他人ごととばかりに気にせず、一夜も二夜も明けるとミーハー女子たちも自然と口をつぐんで多くを語らなくなった。それは「天草四郎事件」と称されたあの教会の火災をより複雑なものとするにじゅうぶんだった。
最初に天草四郎事件を知ったのは、毎日見ている朝の情報番組だった。事件の翌日、はじまるやいなや「ちょっとさっき入ってきたニュースなんですけどねえ」と興奮したようすで司会者が話し、いつも雑談からはいるはずの番組がいきなりニュースコーナーに切りかわった。深夜、中学生の少年が町の教会に侵入し、蝋燭を倒して小規模の火災をひきおこしたというもの。消防隊と同時にかけつけた警察によって身柄を拘束されたが、十三歳だったので逮捕には至らず、いきすぎた悪質ないたずらということで損害賠償と厳重な注意、十日間の自宅謹慎に終わった。そんなにあっさりと家に帰してしまう警察の処分法もとりあげられ、ゴシップ誌をにぎわせた。
その番組でニュースの全容を聞いたゲストの芸能人が「キリシタン迫害から逃れる天草四郎を思い出しますねえ」とボケたのをきっかけに一般へ膾炙し、この事件に「天草四郎事件」という珍妙かつ意味不明な呼び名がついてしまった。厳密には天草四郎はキリシタン信仰の側で、教会の火災などかましていないしなんの関係もないが、マスメディアの洗脳力には毎度まいる。
僕はお弁当を、誠二は焼きそばパンをたいらげたあと、教室を出て校庭におりた。くそ暑いと文句を言ったがあまり人もいないし、グラウンドのネットを覆っている木でいくぶんか日影ができるからと誠二にひっぱり連れられた。飾りのように隅においやられた小汚いタイヤの上に座り、「それでどうなのよ」と訊いた。
誠二は購買のミルクコーヒーのパックにストローをさしながら、一瞬迷うような表情をしていた。恐ろしく身長が高くスポーツ系体躯のせいか、ペットボトルごとドリンクをあおる姿は想像できても、こんな小さなパックジュースをちまちま飲むようなタイプに見えない。初対面でそれを言うと思いっきり笑われてしまったが。
ちゅるっとコーヒーを一口吸ったのち、誠二はため息まじりに「ついこないだ聞いたばかりなんだけど」言った。
「うちのクラスだよ。瀬田龍一郎」
パッと顔が出てくるには時間がかかった。三秒ほどのタイムラグのあと、「ああ」と手を打つ。暑いなかドッジボールをしている男子生徒の咆哮が響く。
瀬田龍一郎といえば、クラスメートだがほとんどからんだことがなく、暗い感じの男子生徒だった。一週間に三日ほどしか学校に来ていない。来ても大抵、自分の席で本を読んでいるか、どこかでふらついているかのどちらかで、あまり仲のいい友人がいるようには見えない。
そして奇怪な行動が目立つ。休み時間、携帯を見ながら何かに脅されたように席から立ち上がり、教室を走って出て行ったこともあった。トイレの個室に何十分もこもっていたこともあった。保健室の先生と口論をしているところを見かけたこともあった。
雑に切られた黒髪と律儀に校則を守っている学ランが、地味な空気を逆に悪目立ちさせていた。近寄ると呪われるなんていう小学生レベルの噂も手つだって、誰も話しかけようとしない。
「その瀬田が」僕は誠二が冷たいミルクコーヒーをのんきに飲んでいるのをうらめしそうに見ながら言った。「あの天草四郎事件の容疑者だって?」
「だいたいみんな瀬田で一致してるな。今日び、情報社会だろ。携帯使えばいくらでもネットで情報集まるんだよ。ニュースじゃ都内の男子中学生としか出てないけどさ、先生たちの騒ぎようからうちの学校っていうのは一瞬で分かっただろ。警察もたまに見かけてたし」
そのとおり。事件が起こった直後から教職員が落ち着きを失い、警察官が頻繁に来校し、自習がめだつようになった。自然と「あの事件の容疑者はうちの中学の生徒だ」という噂が広まり、放火をやらかしそうな不良やいじめられっ子や根暗なオタクといった生徒が片っ端から懐疑の目を向けられ、ネットで情報が飛び交い、最終的にふるいにかけられた末に数日学校を休んでいた瀬田にぶちあたったというわけだ。どこの宇宙人と交信しているんだと言わんばかりの奇怪な行動に、滅多に学校に来ないその存在感のなさ、暗い性格などが余計にイメージを後押しする。
「俺はネットの掲示板で、あの事件を目撃していたっていうやつからさっきの話を聞いたんだけどさ」金属バットで蝋燭を叩き落としていったという話。「まあ、全然信用できないけど。しょせんネット上で語られることなんだから、憶測やウケ狙いも交じってて当然だろうし。瀬田を凶悪犯罪者予備軍に仕立てあげたい一心で起きるあの共闘感は、なんかシュプレヒコールに近かったね。それに、あのおとなしそうな瀬田がバット振り回して暴力沙汰に走ると思うか?」
「おとなしそうなやつほど、日頃の鬱憤がたまって激情に我を忘れやすいんじゃないか」
「鬱憤たまるようなこと、あったっけか。別にいじめられてる感じでもなかったし、一人でぽつーんとしてるだけで」
「その孤独感のやり場を探しあぐねて、とか」
むちゃくちゃな話だ、と一蹴して誠二は不毛な憶測のやりとりを中断し、コーヒーを飲みつくしたパックを片手でつぶした。律儀に四隅をひらいて平たくする。
金属バットだの「くそじじい」発言だのは、ネットでとびかっている様々な噂によって組みあげられたフィクションで、真実かどうかは見きわめがたい。が、そうだったらいいな、と非現実を現実に求める中学生の無意識によるものか、そんな暴力的な描写がリアルよりもさらにリアルに、求めたそのままの形で頭の中にすんなり入ってくる。証拠もないのに瀬田が犯人だと勝手に決めつけ、瀬田がバットをふりまわして教会内を荒らす光景が目に浮かぶ。
「まあ、まだ分かったことじゃないし」
誠二は立ちあがって、四つ折りにしたパックを手に歩きだした。「確かに瀬田はここ最近、学校来てないけどさ。もし自宅謹慎が終わって学校に来たら、問いつめればいいんじゃねえの?貴臣が興味あるなら」
「別にねえよ、放火とかじゃないんだし。単に事故って蝋燭倒しただけかも知れない」
「そんなつまらない結末を誰も求めてないってのが問題なんだよなあ」
しみじみと呟きながら、誠二は豪快なフォームをもってコーヒーのパックを遠くのゴミ箱に投げた。かつん、と鉄の鳴る音がしてゴミ箱内に落ちる。昼休みの終了をこうるさく告げるチャイムが、あきれるほどスコンと抜けた夏空に響いた。
「あ」
第一声はそれだけだった。
僕の「あ」に気づいた瀬田もまた「あ」と声をあげた。
全ての授業が終わり、さあ家に帰ってゲームだと鼻歌まじりに下駄箱で靴をはきかえていたところ、昇降口から今頃学校へ登校してくる影が見えた。疑うべくもなくそれは瀬田龍一郎で、学校に来なくなった二週間前となんら変わらない平然とした、何も考えてなさそうな、ぼんやりした根暗の表情を崩していなかった。警察のお世話になってきたあととは思えない。
しばらく緊張した気まずい空気が流れていたが、やがて僕はぎこちなく会話をつなげる。
「久しぶり」
あるいは今のクラスになって二回目か三回目になる瀬田との会話だった。それほど接点が少なく、からみがたい、業務連絡以外であまり近づきたくないオーラを放っていた。
「うん、久しぶり。えっと、久保貴臣くん」
瀬田は少しだけ笑って答えた。「くんづけはやめろよ」と言ったが、瀬田はうなずいただけだった。
僕のことなんて眼中にないかのように瀬田はなんの感慨もなく靴を履きかえ、つま先をならした。世間をにぎわせた火災と現場にいた中学生、の中学生かも知れないと疑われて久しい、警察に厳重注意を受けて損害賠償を払って自宅謹慎をしてはじめて学校に来たやつの態度には見えない。本当に、いつものきまぐれか何かで二週間、学校をサボっていたとしか思えない。
もう夕方だというのに、朝の登校の手順をてきぱきとすすめる瀬田になんと声をかければいいのか分からず無言になってしまい、彼が僕の脇をとおって校舎内に入ろうとしたそのときになってようやく「なあ瀬田」と呼びとめた。
「サボり?」
一瞬で意味を理解したらしい瀬田は、しばらく僕を見つめたあと「違うよ」と言った。眠たそうな表情で言われたらなんとも疑えない。
「明日から学校に復帰するから、その前に先生にちゃんといきさつを話しておこうと思って」
「自宅謹慎中の?」
特に何も考えず噂の核心をつくことを口に出せば、瀬田は一瞬困ったような顔をしたあと、「なんだ、そこまで知ってんのか」と笑った。
そのさわやかさといい、あっけなさといい、SF小説の読みすぎなのか少し拍子ぬけしまった。普通は否定するところではないのか、もうちょっと困惑するところではないのか、とつっこみたかったが瀬田のあっけらかんとした態度に地味に圧倒されてできなかった。これが平成生まれ、ゆとり世代なのかと同級生なのに疑問に思ってしまう。
考えたほうが負けかも知れない。腹のさぐりあいのような会話ではないだけに逆に慎重になってしまう。
「天草四郎事件、だけどさ」
僕がそう言うと、今度は瀬田が拍子ぬけする番だった。数秒、口を軽くあけっぱなしにして「何それ」と低い声で言った。彼の眉間がぐっと強くひそめられる。
「何それって」動揺したのはむろん僕である。「あの事件現場にいた中学生ってお前だろ?教会のボヤの話」
「あ、あ、あー」
僕のあわてた声を途中でさえぎるようにぼやき、瀬田は顔を片手でおおった。「そのことかよ」とつぶやく声が聞こえた。本気で驚いている。
「何だその名前。何事件って?」
「天草四郎事件」僕はため息と一緒に答えた。
「へえ、わけ分かんないな。全然関係ないのに。俺、自宅謹慎中は親にテレビ禁止されてたから、あの事件についてメディアがどう語ってるのか、全然知らねえんだよ。そうかあ、天草四郎ね。うまいんだかそうじゃないんだか」
肩で笑う瀬田を珍しいと思った。いつも席で本ばかり読んでいる、あまり人と会話をしない無口な少年だと思っていたから。
こいつは何事にも無関心なのかも知れない、たとえ自分のことであっても、と僕は思った。クラスに一人はいるものだ、現実から乖離した空間に立っていて、生きてるんだか死んでるんだか分からない、なんちゃって哲学的で足もとのおぼつかないやつが。
「警察が発表した事件の詳細でちょっとズレてるところがあるだろうから、百も千も尾ひれやら背びれやらがついて語られてるんだと思う」僕はプチ浦島太郎の彼に、噂でしか語られていない火災のことを語った。「あれはいじめの腹いせだとか、親の虐待から逃れるためだとか、『キレる若者』だの『思春期の心の闇』だのとすげえキャッチコピーつけてあおられてんの、ニュースで。若年層の犯罪率の高さをアピールする格好の材料として騒いでるんだとしたら、現役の中学生としては不本意だな」
「確かに。別に俺、そんな理由であの教会を燃やしたんじゃねえし。いじめられてるわけでももちろんねえし、親の虐待とかってむしろ真逆だ」
その言葉を聞いてどことなくほっとした。こいつが『思春期の心の闇』を抱えているように見えないのは、ゴシップ誌を毎日必死で編集している出版社の連中よりもずっと詳しく、現役だけが知っている、ということを知っている。
瀬田は軽く手をふって角を曲がり、職員室のほうへ歩いていった。緊張するわけでもなんでもなく、軽い足取りで。一度だけ三人の女子生徒とすれちがい、彼女らが「ああ、あれが?」などと話しているのを見た。瀬田は気にしていないようだった。不機嫌になる必要もなかったのかも知れない。
翌朝の学校はまさに、空から蛇が大量に降ってきたかのような喧騒に包まれていた。
学内では鮮度を失いつつあるが、天草四郎事件の重要参考人、というよりほとんど被告だと噂されてそう長くない瀬田の自宅謹慎後初登校、となれば野次馬がさわぐのは予想のじゅうぶんな範疇だった。誰も事件の真相を知らない。学校の裏掲示板では「どうやって火を放ったのか」「なぜ警察はすぐに瀬田を解放したのか」といった疑問に嘘が答えるやりとりがくりかえされていた。
彼はまだギリギリ十三歳、つまり法的に裁かれない。事件前のように平然と鞄を片手に廊下を歩き自分の教室を目指す瀬田に聞こえるように舌打ちをする男子も数人いた。そういうやつらを横目でうかがい見えないように鼻で笑うのだから、瀬田自身「子供っぽいことすんのなあ」なんて思ってるのかも知れない。この事件をきっかけに法改正をのぞむ声もあがったが、今のところはお流れになっている。
廊下で友達と雑談をしているときに瀬田が階段のほうから歩いてくるものだから、「まじであいつが犯人なのかな」と友達に耳打ちされた。そんなの僕に聞かないで欲しい。いや、真実は知っているし本人の口から聞いたが、普段何にも関心を持たない若者が興味本位で首をつっこんでいい話じゃない、気がする。
瀬田が教室に入るところを後ろから見ていたが、ドアをひらく音に重なって「きゃっ」と女子の叫び声が聞こえたとき、つい眉をひそめてしまった。
いつもの調子でホームルームを進める先生の自然ぶった態度が不自然で、その不自然さが形容しがたい空気を教室内に満たす。杓子定規なコメントばかりで恩着せがましいよりはまだマシなのかも知れない。空気を作る教師の必死さには目もくれず、瀬田は窓際、前から四番目の席でいつもと変わらずノートをとり、頬杖をついてぼんやりと外を眺め、たまに思い出したように机の下で携帯電話をいじっていた。
「やっぱり、事件とかかわりがあるようには見えないんだけど」
「でも先生のあからさまなとりつくろった感は明らかだし」
「警察が簡単に瀬田を手放すあたりが怪しいよね。実はパイプ太い?」
「もうそろそろニュースでも流れなくなったからなあ」
そんな会話があちこちで飛び交う。事件直後ほど活気づいた調子ではなく、みんなどこか過去の出来事あつかいしている。
声をひそめているつもりだろうが実際は僕につつぬけで、つまり瀬田にもつつぬけだろう。しかし彼は今日の夕食の献立は何だろうかと思案するようなぬけた顔で空を見ているものだから、しあわせそうで何より、と僕はため息をつくしかない。
二週間前は生徒の間で大騒ぎになりそれを教職員が必死でおさえつける、という光景が目だったが、あの喧騒からたった十四日でこの落ちつきようである。当人の登校でいくぶんか熱がぶりかえしたところはあるが、結局は中学生、ブームに乗ってはすぐ降車、その無限ループだ。日本経済の中枢はティーンエイジャーの即熱即冷の性格が動かしている。
まあそのうち誰も興味を示さなくなるだろう、と勝手に結論づけて授業に意識をログインさせようとしたとき。
「ねえ、ちょっと!」
窓際の女子が叫んだ。彼女の隣の子も「何あれ!」とわめいて立ちあがる。先生が「静かにしなさい」と言ったが誰も聞いていない。女子二人が指さす窓の外を、四十人がいっせいに見た。そしておのおの「うわあ!」「まじかよ?」と騒ぎはじめる。立ちあがって窓側に走り寄り、携帯電話のカメラを構えるやつもいた。先生もさすがに窓の外の光景から目を離せずにいた。
僕はといえば席が瀬田の真横だったので、窓の外を見やるとその光景は彼をど真ん中にすえて僕の目にうつることとなった。
日本の夏らしいじめじめした七月。明るく元気よく活動する太陽とソフトクリームのように輪郭のはっきりしたふわふわの雲。岩にしみいるセミの声。全身が発酵していきそうな暑さの中、雲のむこうのスコンと抜けた透明な青空には、美しいオーロラがそのカーテンを広げうすら寒そうにかがやいていた。
瀬田はそのありさまを、立ちあがるでもなく驚嘆の声をあげるでもなく、ただぐっと眉をひそめて見ている。
真夏の日本の、しかも白昼の蒼穹に発生した巨大なオーロラは、都会の隅っこで起きた中学生の放火未遂事件なんてしょぼいぜとばかりに上書きして一瞬で時の灰にしてしまうほど、世界中で騒がれた。あのあとも複数回発生し、そのたびニュースで取りあげられた。
本場スカンジナヴィア諸国やカナダでは特に、多事争論の渦に国家ごとまきこまれた。国内のテレビは毎日のように本来のオーロラの発生条件の解説や、環境問題との関連性についてのディスカッション、立体映像による偽装工作疑惑を提唱する番組などが延々と放送されていた。京都議定書を提出した国なだけあって、自然破壊による異常気象とコネクトされて世界が騒然とした。
「なぜ、真昼の日本で巨大オーロラが発生したのか!? 番組では総力をあげて調査し、ついに、地球破滅の日付を割りだすことができました! その衝撃の真実がこちら! VTRどうぞ!」
そんな番組ばかり電波を占拠している。いっそテレビ局ジャックだ。
目撃されたオーロラはかなり明るい百キロレイリー以上だとか、磁気嵐がどうとかそれが危険だからどうとか、だから家からあまり出ないようにとか、庶民には分からないことばかりレコードの最後の溝で針がぐるぐるまわっているようにくりかえしていた。本当にテレビ局は他に何も思いつかなかっただけなのかも知れない。ニュースもワイドショーも、おバカ芸人が台本どおりにボケるだけのバラエティ番組ですら、日本で発生した巨大オーロラの話題でもちきりだった。
十日間自宅謹慎されていた瀬田の事件なんてどうでもよくなってしまったらしく、あの二週間の喧騒が嘘だったように途切れ、友達とのメール交換でも一度も話題にのぼらなかった。教会の火災と日本でのオーロラの規模を考えればもちろん後者のほうが日々の雑談のトピックとしては芳醇だが、オーロラ発生時、何も感慨を持たずにながめているだけだった瀬田に疑問を抱くクラスメートはいなかった。
天草四郎事件のときと同様、教職員から詳細を語られることはなく、全校集会で「あまり騒がないように、便乗していたずらをしたりしないように」と校長が話していたことからも、事件で生徒が大騒ぎになることを水際で喰いとめようと無駄なあがきをしているのが目に見えて痛々しかった。それが逆にネットであることないこと無数に語られる原因だとも知らずに。
「近いうちに地球が滅亡するってまじかよ?」
そんなメールが誠二から来るほどだから、生徒の混乱防止なんていうものは役に立たないということがよく分かる。
「するかよ、そんなもん。七時台の徹底検証番組とかはな、俺たちみたいに科学にあかるくない視聴者を混乱におとしいれようとするために必死で視聴率競争してるんだから、真に受けんじゃねえよ」
「なあ、あれって瀬田の事件と関係あり?」
僕は携帯を片手に、外面は静かだったが、内心、相当驚いていた。あの巨大オーロラと瀬田をリンクしたのは誠二が初めてだった。少し考えて、ぱちぱちと手早く返事を打つ。
「どうなんだろうなあ。第一、日本でオーロラが発生したこととそのへんの地味な男子中学生と、どういう関係が?」
「なんか、実は瀬田が宇宙人でとか、そういう光線とか出せる超人だとか」
「マンガの読みすぎ。仮にそうだとしても、どういう必要性を感じて?」
「さあな。単に日本を混乱させたかっただけか。環境破壊とかも問題にあがってるし、それで日本を世界から孤立させようとしてるとか」
「京都議定書に真面目に従って二酸化炭素を減らそうとしてる国が、一体この世界にどれだけあると思ってるんだ?糾弾される理由はあってもする理由はさほどないと思う。正義の味方だっていない世界なんだから」
その日の夜、僕は瀬田を見かけた。
まだ八時もまわっていないようなころ、親に見つからないように近所の公園でこっそり買った自販機のジュースを飲んでいると、外の路地を瀬田が全力疾走していった。部屋着らしいタンクトップで、薄暗い住宅地の真ん中を。息せききって、髪をふりみだしながら。
何かを追いかけているというより、追いかけられているようだった。
しかし、肉眼では彼の背後に何も見えなかった。ただ人の目にはうつらない闇、人知れず暗躍する存在、そういったものがあるのかも知れない。瀬田はがむしゃらに、部屋着のまま飛びだすほどあわてて、そういった形のない暗闇から逃げているような気がした。
「おい、瀬田!」
ブランコから声をかけたが、彼は何も言わずに走り去ってしまった。公園をつっきって低いフェンスを飛びこえるころにはもう、街頭にうっすら浮かび上がる暗い道路に瀬田はいなかった。
オーロラ事件もかなり鎮火してきたころ、僕は再び学校のグラウンドで誠二と一緒に購買のジュースを交わしていた。いつからここは僕たち専用の会議室になったのだろう。灼熱の太陽にじりじりと照らされる、着席対象はタイヤのみという、えらく質素かつ快適さに欠ける青空会議室。
これだけ太陽が元気なら、何がしかの異常やら化学反応やらが起きてオーロラも起きるのかも知れない、なんていうことをぼやいた。
「それはどういう科学的根拠で?」誠二がつづけてぼやく。
「知らない。今適当に言った」
「ここ数日チャンネルを占拠してる、『こうだからこうなんです』って説明してるだけの検証番組みたいだな」
環境破壊であれがこうなり、それによってオーロラが発生する。これは地球の危機だ!という感じ。あるていどは根拠があるのだろうが、いかんせん難しいことばかりで一般人には分からない
「知らないほうがしあわせなこともあるんだよな」
僕は何気なくつぶやいたこの言葉を、のちのち悔やむことになる。
誠二はタイヤの上にあおむけに寝そべった。腰のあたりが不自然にしずむ。「木漏れ日が綺麗だぞお」なんてすすめられたが、ゴム臭そうで同じことをする気になれない。
「なんだったんだろうなあ、あの火災といい、オーロラといい」
僕はそうつぶやいた。根本的な疑問である。数秒ブランクをあけてパックのジュースを吸った。
「瀬田に聞いたんだけどさあ」
「まじで聞いたのか」誠二が腰をあげる。
「うん。やっぱりあいつ、天草四郎事件の本命らしいな。燃やしたって言ってたし」
「正気かよ。キレるゆとり世代ってのは当たらずしも遠からずだなあ」誠二は起き上がって面倒臭そうに吐き捨てた。
あれからネットや新聞で情報を集めてみたが、どこもオーロラ事件に追いやられてしまってなかなか詳細まで行きつかない。今や天草四郎事件について騒いでいるのは学校裏サイトの荒廃した古いスレッドのみで、オーロラ事件のスレッドのほうが鮮度が高く混雑して久しくない。
誰もが携帯電話を片手に現実を追いかけて必死になり、どこがゴールだったかも忘れてしまっている。知らないことを知ろうとするあまり、真贋見きわめられず、何にたどりつきたくて親指を素早く動かしているのか分からなくなっている。
「だからどうだっていう話だけどな」
誠二が興味なさげに言い放つ。
「俺はまだ気になるよ、どっちも」
僕は言った。「放火犯がオーロラ出せるとか、かっこいくね?」
「てゆうか、あの二つの事件の関連性を探そうとしてる貴臣のが変だっつうの。俺も最初は宇宙人だとか本気で思ってみたけど、冷静になればんなわけないって気づいたし」
「どうだろうなあ。宇宙人だなんて突拍子もないけど、面白いと思うぞ、そんな非日常」
「遠慮しとく。瀬田についてはもう警察が解放しちまったんだし、どうでもいいや。もし瀬田が目の前で呪文か何かをとなえてオーロラを出したりとかしたら、もうちょっと追及したんだけど」
例えそうだとしたら。
瀬田が世間のするどい視線や冷たい声に耳もかたむけず、表情ひとつ変えず、拒否することなくいつも通りに学校へ来た理由がなんとなく分かってくる。漫画の読みすぎかも知れないけれど。
僕は瀬田のことをあまり知らない。だけど、だからこそ見えない部分を適当な憶測の風呂敷で包んでしまっているような気がして、よくも悪くも、そんなことをして背をむけようとしている自分の根性が嫌だった。
教室に戻ると、瀬田が自分の席で携帯電話をいじっていた。誰とつながっているのかさっぱり分からないけれど、その軽快に動く親指に、瀬田のどこかが誰かの何かと深く深くつながっていることは分かった。中学二年生の様式なんて単純なものである。
どうしてだか、僕は彼に話しかけることにした。
「帰り、ちょっと一緒に駅前に寄り道しねえ?」
小さい声で話したつもりだったが、半径二メートル以内のクラスメートたちには聞こえたらしくこちらをいぶかしげに見ていた。瀬田は画面から顔をあげ、不思議でしょうがないといった目でこちらを見あげた。
「自分の立場に自覚は?」
言葉の意味が分からず、聞きかえしてしまう。
「俺、こないだの天草四郎事件で連行されたってこと、知ってんだろ」
「知ってる」僕はあっさりと答えた。「そのこと抜きに、まあ、友愛?交流を深めようと思ってさあ」
あからさまに嘘くさい言いわけを並べて、僕は瀬田の机に片手をついてほとんど脅迫ぎみに言った。瀬田はひるむようすもなく、ふたたび携帯に視線を落として少し笑い「まあいいけど」と答えた。喜んでいるように見えたが、思いこみだったかもしれない。
彼の言う「自分の立場」がどうでもいい、わけではない。事件以来、誰も瀬田に近寄ろうとしない。まがった協調性を重視する学校社会で逸脱した真似なんだということも、自覚がないわけではない。いつも奇行が目だつ、珍妙な、オカルトっぽい、理解に苦しむ瀬田の行動言動のひとつひとつをいちいち拾い集めようとは思わない。しかし、一連の事件に複合的な要素をみいだすだけの理由はどことなく、あった。
授業と授業の合間の十分間の休憩時、自分の席でぼんやりと漫画を読んでいたらば、同級生の呉羽香奈に髪の毛をひっぱられた。ひとつかみ、思いっきり。
ぎゃっとかぐあっとか、自分でもよく分からない悲鳴をあげ反射的に立ちあがると、香奈は多少いらついたような調子で机の隣に立っていた。少し性格のキツそうな美人で、逆にあまり男から近寄られないタイプ。高く結ばれたポニーテールが名前のとおり、仔馬のしっぽのように揺れる。
「貴臣、龍一郎がどこ行ったか、知ってる?」
なんでわざわざ髪をひっぱるんだよと言う前にものすごい剣幕で迫られて、僕は腰をひきながら横目で瀬田の席をうかがい見た。誰もいない。前の授業の教科書もノートもそのままで。
いつものことじゃないか、何も心配しなくてもいい、てゆうかなんで瀬田の心配を、ほっとけほっとけ、と御託をならべると香奈がため息をついた。いらだたしく組まれた両腕はすらりと細い。
「話があるって言ってんのに、授業が終わるなりさっさとどっか行っちゃって。人の話聞けっつの」
それだけ吐き捨て、香奈はずんずん教室を大股で出ていった。他の女子よりかなり短めに詰められたスカートと太ももがまぶしい。その彼女の後ろすがたを、なんだったんだろうと眉をひそめて見ていると、背後からいきなり誰かにのしかかられて余計に眉の皺が深くなる。
「なんで香奈が瀬田を探してんの」
もちろん誠二である。背中にずっしりと全体重をあずけられて、僕は椅子にしがみつき、体制を元に戻すため背筋を伸ばそうと奮戦しながら、息もたえだえに答える。
「知らねえよ、そんなもん。香奈に直接聞け」
「ほら、瀬田って宇宙人っぽいけど顔はいいから、狙ってんのかなあって」
「人の色恋沙汰なんざ興味ねえよ。つうかどけ、重い」
のんびり人の背中をリクライニングチェアがわりにしていた誠二を「うらあ!」とつきとばし、膝の上で潰れていた漫画を整えて鞄に放りこむ。香奈と瀬田が話しているところは今まで見たことがない。これまでどこかで内密に会っていたのかも知れないが、細かいことまでは知らない。
他人の色恋沙汰には興味がない。それは本当だが、あの態度から恋愛感情を読みとれというのもまた難しい話だった。
そのとき、教室の前の廊下で瀬田と香奈が面と向かって話しているのを見た。彼らふたりとも落ちつきはらって、首をふったりうなずいたり、肩をおとしたり。香奈にいたっては携帯を出していじり、画面を瀬田に向けて問いつめるような仕草もしていた。会話の内容までこちらに聞こえない。
真剣なまなざしで香奈と何かを語る瀬田は、そのときになってようやく、まともな人間に見えた。本当はよくしゃべるんだ、なんて思った。事務的な態度で会話をするふたりが不思議であり、不自然でもあり、大人っぽかった。中学二年生という中途半端な時期をとっくの昔に飛び越えてしまい、僕たちの理解の範疇外ですでに悶絶している、そんな印象を受けた。
誠二が、なんだあの痴話喧嘩、と言うと同時に瀬田の携帯電話が高らかに鳴った。バイブ設定にするのを忘れていたのか、彼はあわてて通話ボタンを押し、それを耳に当てながらトイレのほうへ香奈と一緒にかけだしていった。会話は何一つ聞こえなかったが、着信音がエリック・クラプトンの「レイラ」の有名なイントロだということだけ分かった。
あれだけ香奈としゃべれるんだから、放課後はいつもみたいに無口じゃなかったりしてな。そんな一縷の期待をかかえ、僕は次の授業の準備をした。
が、ただひたすら無言だった。
学校から最寄りの駅までは徒歩十五分ほどだが、そのあいだに瀬田と交わされた言葉はただのひとつもなかった。なんとでも言えばいいのに、「昨日のテレビでさあ」や「こないだ出たアルバムさあ」といった当たりさわりのない会話どころか、「もうすぐ夏休みだなあ」なんていう作りもの丸だしの言葉すらすんなり出てこなくて、一メートルほどの距離をあけたまま道路を二人で歩いていた。
無言のままでいるということは、女子としては耐えられないことなのだろうけれど、男子としてもなかなか緊迫感があって難しい。特に瀬田のようにほとんど話したことのないやつが相手だと、時間が三倍以上も長く感じる。思えばここ数日、無口な瀬田があれだけ話したのは口数が多いほうかも知れない。
結局駅に着くまで一言も話さず、駅前のショッピングモールをスルーして小さな路地裏に入り、ようやく「ファーストライト行かねえ?」と声をかけた。瀬田は少し笑ってうなずいただけだった。住宅街においやられるように線路のすぐ近くにぽつんとある、ルクスのひくいジャズ風の喫茶店で二人してアイスコーヒーを注文した。店内で切なく流れるマイルス・デイヴィス。
「こんなおしゃれな店があったなんてな」
瀬田がようやく口をきいた。そろそろこいつは人形にでもなったのかと思いはじめていたころだった。壁に飾られているピクチャー・レコードやギターを珍しそうにながめまわしている。
「サックスやってるうちの兄貴の知り合いがよく来た店らしい。コーヒーがおいしいから、俺もたまに来るんだ」
「ジャズってあんまし、聴かねえなあ。俺はむしろテクノとか」
「ああ、YMOぐらいしか知らないけど」
「それが分かれば十分じゃね?」
なんだかようやく会話らしい会話をしたような気がする。アイスコーヒーが到着し、かっこつけてブラックのまま飲んだら苦かったので、しぶしぶミルクを投入。一部始終を見ていた瀬田が必死で笑いをこらえていた。しかし腹はたたず、「笑ってんじゃねえよ」と彼の額をこづくと、本格的に声を出して笑われた。ほとんど親友のようなやりとりだった。
僕はプレミアもののゴールド・レコードが飾られてある壁をながめながら、「そういえばさあ」とわざとらしさ丸だしのイントロで会話をつないだ。
「あのオーロラ、なんだったんだろうな」
「あんま気にしないほうがいいんじゃねえの」瀬田はほとんど脊髄反射のように早く返事をした。「気にしたら放射能がどうとか、地球滅亡のXデーがどうとか、またわけの分かんねえことで騒いで時間の無駄になるだろうから」
「でもさ、真夏よ?日本よ?ここはスウェーデンじゃない」
「国内でも意外と観測されてるもんだから。北のほう限定で、程度の低いものだけど」
「だとしたらやっぱり、あのカーテン状のオーロラは珍しいよなあ」
あれからもさらに何度か、現在にわたって頻発している。さすがに毎回いちいちニュースにのるようなことはなくまとめて報道されるようになったが、一日に四回から六回、都内に限って確認されている。
瀬田は何か思案するように延々とアイスコーヒーをストローでかきまぜていたが、やがてため息をついてそれを飲んだ。ブラックであることが僕の競争心をあおる。
彼はしばらく何も言わなかったが、やがて携帯電話を取りだし、手早く操作をして画面を僕に向けた。
それは夜に発生したオーロラを撮影した写メだった。ディスクリート・オーロラと呼ばれるカーテン状のもの。ゆったりと風に揺れるシルクと、緑がかった白。何度見ても美しかった。オーロラには神が住むと聞いたことがあるが、宗教臭くても信じずにはいられなかった。
待ち受けにしたいから赤外線して、と言うより早く、瀬田がぱたんと携帯を閉じてしまった。
「これが世間を騒がしているオーロラだけど」
そんなこと分かってる。
「見てのとおり、不気味だろ。詳しいことは言えない。でもあまり近づかないほうがいい」
「はあ?」僕は何がなんだか。「オーロラって近づこうと思って近づけるもんなわけ?」
「でかさによるけど、オーロラが発生してる真下とか、あんまり興味本位で行かないほうが身のため」
「何、実はあのオーロラを立体映像でうつしだして世間を混乱させてる怪しい組織とか、そういうテレビで言ってるような連中の一味?」
「っていうわけじゃないけど」瀬田は困ったように笑って指で頬を掻く。「決して安全なものじゃないしさあ」
オーロラが発生しているときに飛行機に乗ると放射線物質を浴びる、という都市伝説まがいの雑学を聞いたことがある。そのことではないだろうが。
「なんだ、やっぱり関係あるのか」
「正直に言うとそうだね」思っていた以上にあっさりと答える瀬田に僕のほうが面喰らった。「本当に、詳しいことは話せない。だけどあのオーロラが日本にあらわれる以上、俺がなんとかしなきゃなんねえんだ。まだ時間はかかりそうだし、これ以上ややこしいことはしたくない。それこそ教会の火事なんていうレベルじゃすまないかも知れないんだ」
アイスコーヒーに口をつけながら、淡々とした口調で話す瀬田。それは人に説教をたれるような口ぶりにも、子供をあやす優しい調子にも聞こえた。少し前に見たことがある。ピアノの蓋をあけ、鍵盤をひとつひとつ叩いて調律する人の写真を。あの写真からは、写真のはずなのに、水滴が落ちるようなみずみずしいピアノの音がはっきりと聞こえてきた気がした。
僕は手元の肌色の液体をながめながら、ふうん、と言った。
「分からねえな」それは何も考えずにするりと口から出てきた言葉だった。「お前だけそんなめんどくさいこと、しなくてもいいだろうに」
マイルス・デイヴィスが終わった。つづいて少し年を重ねたスキッフルが流れる。軽快なメロディをBGMに、頬杖をついて壁のメニューを見つめる瀬田の横顔は、けわしかった。苦しげに細められた目は何も語らない。手元は半分減ったアイスコーヒーをかきまぜるのみ。
もしかしたら今この瞬間でも、どこかでオーロラが発生しているのかも知れない。そんなことが頭をよぎった。
瀬田は重たい口を開く。
「久保、お前はいいやつだと思うよ」
そして続けた。「ただ、知らないほうが幸せなこともある」
僕はここ数日のことを思い出した。教会の火災について何も語らなかった教職員、真実を知らない生徒たちが互いに憶測交じりの情報を交換して、瀬田が金属バットをふりまわしたという噂までできあがった。詳細を知らされていない同級生たちは、瀬田をうらやみや憎しみの目で見つめ、ときに恐怖におののいた。オーロラが発生した際、原因不明のその現象に世界中が騒ぎ、マスコミは色めきだち、テレビ局はわざと国民を不安におとしいれるような番組を大量生産した。日本人にはなじみのないオーロラと地球滅亡を結びつけるような噂も流れ、すぐに時間とともに去ってゆくとはいえ、軽いパニック状態にあった。かつての新型インフルエンザ騒動を思い出す。
客席にいる傍観者たちは、ルールを知らなければファウルボールをホームランだと勘違いするかも知れない。
反論はやまほどあったが、瀬田が僕の意向をくみとったのか携帯電話を出すよう言い、赤外線でオーロラの写メを送ってくれた。僕はそれを待ち受けにしようか悩んだが、やめた。瀬田はアイスコーヒーを飲み干し、「行こうか」と言って立ちあがった。
僕たちはそのあと、ゲーセンで遊び、たこ焼きを買い食いし、解散した。駅の改札口前で互いに背中を向けた直後、瀬田の携帯がポケットの中で地味にうなる。僕は反射的に振り返ったが、彼はそれに気づかずあわただしく携帯を耳に当て、そのまま駅と反対方向に走り去った。
「香奈?またか。今からそっちに行くから、そこで待ってて」
去りぎわ、彼が電話口にそう叫んだ。その声も彼が走り去るのにあわせてやがて聞こえなくなり、代わって周りにいた人たちがざわめきはじめた。彼らが指さす空をみあげると、少し曇りがちな東の空にうっすらと、ピンク色の光の玉のようなディフューズ・オーロラが顔を出していた。僕はふたたび瀬田が去った路地を見やったが、彼はもうそこにはいなかった。
夕方発生した小さなオーロラは、夜が町をおおうまでの間に勢力を拡大し、カーテンどころか舞台の緞帳幕のような巨大なディスクリート・オーロラへと姿を変えた。通常のオーロラの滞空時間をはるかに超え、数時間にわたってゆらめく美しいその姿に、区内一体の人々が外に出てデジカメや携帯のカメラ、本格的な一眼レフで写真撮影をはじめた。大きな建物の屋上などには特に大勢の人が集まり、警察が群衆をおさえるために出動したこともあって騒動になった。オーロラはやがて夏の空全体をおおうほどの巨大なものに成長し、今にも天使が舞いおりてきそうな神々しい光景にため息をつく人もいれば、おそれおののいて逆に家から一歩も出ない人もいた。
僕の両親は後者で、どこのジャンク番組から仕入れたのか「放射能が出てるらしいから家にいなさい」と謎の論理をかかげて僕を閉じこめた。夕食のとき、リヴィングの窓はいつも街灯の明かりがうっすら漏れているだけだったが、今日はピンクと緑と白が混じった美しい光がじんわりと照らしているのを見た。
「怖いわねえ、夏だっていうのに、こんなに大きなオーロラが発生するなんて。環境破壊とかそういうレベルじゃないわよ」
「まあ、今のところ人的被害はないから、まだ大きく構えててもいいんじゃないか。別に地震とか、大火災とかじゃないんだから。むしろ見ててきれいじゃないか。オーロラなんて初めて見たよ」
「私だって初めてよ。でも、日本で見ちゃったら逆に怖いわ。何かの前触れじゃないかしら。ねえ、懐中電灯、どこにあったっけ?」
「おいおい、地球が滅亡するっていうテレビの話、信じてるのか?大丈夫だって、そんなの。何も起こらないか、それとも一気に地球が滅亡しちゃって逃げようがないか、どっちかだって」
「フォローになってないわよ。私はのんびりオーロラを楽しむほどの心の余裕、ないんだから」
夕飯どきには合わないな、と思いながら僕は父と母の会話を聞いていた。せっかく時間をかけて煮こんだポトフも水道水を飲んでいるようだった。
つけっぱなしのテレビでは、美人アナウンサーがどこぞの大学教授をゲストに招き、どうしてこんな巨大なオーロラが長時間発生しているのか、何か問題があるのではないか、とえんえん質問攻めにしている。さすがの大学教授とはいえこの未曽有の事態に頭をかかえているらしく、アナウンサーの質問にも曖昧に「かも知れません」「と考えられています」「の可能性があります」を語尾につけることを忘れず答える。そしてくりかえし、上空のオーロラをヘリから撮影した映像をたれ流す。
僕は言った。「知らないほうがしあわせなこともあるんだよな」と。そして瀬田も、全く同じことを言っていた。どこへむかっているのかを忘れてしまった、ということも忘れてしまったまま、みんな、見えない風呂敷をひっぺがそうと躍起になっている、そんな気がした。
「貴臣、明日は学校、休みなさい」
ぼんやりと思案している僕の耳に、母の声がだしぬけに飛びこんだ。僕は一瞬意味が分からず、「はあ?」と聞き返す。
「なんでまた、無茶な。この期末テストが近い時期に」
「それどころじゃないわよ。こんな大きなオーロラ、危ないじゃない」
「どういう論理をもって危ないって言えんだよ」
「まあまあ、落ち着きなさいって」
父が間に入り、「明日には消えてるかも知れないから」と母をなだめすかした。僕は行儀悪く箸を口にくわえたまま、テレビをぼんやりと見つめた。アナウンサーが「とっても綺麗ですけど、本当にどうしてなんでしょうねえ」と台本どおりに隣のアナウンサーに話しかけていた。その画面の右下で小さな画面が、ヘリからのオーロラの映像を中継で流していた。
僕は軽く舌打ちをして、コップの水を一気飲みした。携帯電話をひらいたが、メールは一通もなかった。
父の予想どおり、朝になると巨大なオーロラは消滅してしまい、野次馬たちもいなくなっていた。テレビのニュースは長時間ゆらめきつづけたオーロラについての考察でもちきりで、新聞にも大きくとりあげられた。
だが、僕の意識を否応なしに占拠したのはそんなことではなかった。最初に瀬田が学校へ復帰してきたときもかなりの騒ぎだったが、今回は「静かに騒いでいる」という感じだった。
朝、遅刻ギリギリで教室に入ってきた瀬田を見たらば、彼は頬に大きなガーゼを貼りつけていた。夏服の袖から伸びる頼りなさそうな右腕には包帯が巻かれ、手の甲にもガーゼが貼ってある。指先にはふさがった切り傷がいくつかあった。
時代遅れの暴走族と一戦まじえたのかと言わんばかりの見事な風体に、教室中が水をうったように静まりかえった。傷だらけの瀬田はそんなことは気にせず悠然と教室を横断し、自分の席につく。彼の足音や椅子をひく音がことさら大きく響いた。
ふてくされたようにガーゼの貼っていないほうで頬杖をつき、唇を突きだして窓の外を見る瀬田を、誰もが凝視し、困惑し、しかしからまった糸がほどけるように内緒話がひろがったかと思うともういつもの教室の風景に戻っていた。全員、正直には口にせず、しかし見えなかった影の部分をあえてさらに奥まった場所へ押しこむような、そんな幼稚だか大人びてるんだか分からないことを四十人がいっせいになしとげた瞬間だった。
「どういうこと」
「さあ?」
僕の机の横にしゃがみこんだ誠二に耳打ちされたが、知るよしもない。彼が僕に最初に質問したのは、昨日、瀬田と一緒に下校したことが何か関係があるだろうと勝手に思ったからだろう。
気がつけば周囲の会話はふたたび昨夜の巨大オーロラの話になっている。が、僕たちは瀬田のことで話題が尽きない。
昨日のいきさつを話すと、誠二が瀬田のようにぶすくれる。
「なんだよ、コーヒー飲んで遊んで帰っただけか?わけ分かんねえし」
「分かれよ。普通だろ。俺だって知らねえもん」
「昨日のでっかい、長いオーロラと関係あり?すげかったよなあ、町全部すっぽり覆うぐらいのでかさ」
「関係あると本気で思ってんのかよ。オーロラとあの傷と?」
「知らねえし、俺に聞くな」
誰も知らない。それが普通であるかのように、すんなりと僕の心になじんでしまっている。
知らないことが普通。知らなくていい。知っていることは異常。
一人たりとも瀬田に問い詰めたり同情したりすることがなく、いつもの活気を取り戻した教室で突然、香奈が立ちあがった。一緒に歓談をしていたらしい女子数人が驚いて硬直する。ふたたび一斉に静まりかえる教室。四十の視線がいっせいに香奈に注がれる。
そのまま香奈は肩をいからせて教室を縦断し、席でふてくされている瀬田の横に立った。彼が気づいてふりむくより早く、彼女の平手が飛んだ。空間に穴があくような高らかな音。「きゃっ」と女子の誰かが叫んだ。瀬田は顔を横にそらしたままうつむいていたが、叩かれたガーゼの貼ってある頬をおさえて、いきりたって立ちあがる。
「おっまえなあ!」
これまでの瀬田の態度からは想像もつかない、変声期の怒号にその場にいた全員が身をこわばらせた。彼の赤らんだ目には涙が浮かんでいる。相当痛かったらしい。
「バカか!? 怒ってるのは分かるけど、わざわざ怪我してるほう殴るこたねえだろ! なんの嫌がらせだ?」
「嫌がらせもしたくなるよ! なんなのその風体は。あたしが先に行ってりゃこんなことにならずにすんだのに、何かっこつけて騎士道精神アピールしてんの? バカはそっちだし。人の話聞けよ! いっつもいっつもそうやって意味分かんないことして、いつか無駄死にしても知らないよ!?」
香奈の怒声も負けず劣らずだった。瀬田は反論しようとして大きく息を吸ったが、次に続く言葉が見つからなかったらしく、ゆっくりと口を閉ざしてうつむいた。悔しそうに唇を噛んでいる。そして彼には似合わない舌うちをして、どっかりと観念したように椅子に腰を落とした。
香奈はマスカラがにじんだ目いっぱいに涙をためて、両のこぶしを握って立ちつくしていた。一度だけ鼻をすすったあと、もう一度「知らないからね」とつぶやいた。
全員が静まりかえる。隣のクラスや廊下の騒ぎ声がいつもよりことさらうるさい。聴力検査の防音室と化してしまった教室で、ただ香奈のすすり泣く声だけが切なく響く。僕たちはここでも、観客席の傍観者だった。何も言えなかったし、言うべきじゃなかった。
香奈がきびすを返そうとしたところ、突然、静寂に支配された教室で場違いにも携帯電話のバイブ音が響いた。僕はびくりと肩を震わせる。瀬田の携帯電話だ。机の上で震える携帯を見つめ、しばらく取るか取るまいか思案しているようだったが、瀬田はやがてそれを手にし、香奈に放り投げた。
「ちょっと、待ってよ!」
携帯を受けとった彼女の叫び声には耳を貸さず、瀬田は教室の後ろのドアから早足に出て行ってしまった。ぴしゃりと閉まったドアから視線を香奈にスライドさせる同級生たち。彼女の手の中の携帯はえんえんと震えつづけている。
彼女はしばらく、黒く傷だらけの携帯を見つめていたが、やがて決心したようにそれをつかんで瀬田が出ていったときと同じように後ろのドアから退室した。
かなり長いこと静まり返っていた教室だったが、やがて誰かが「何、今の」と言いだしたのをきっかけにざわめきを取り戻していった。誠二も「何、さっきの」と言ったが、僕は瀬田と香奈が出ていったドアを見つめて何も言わなかった。
午前中の四つの授業をすべて、香奈も瀬田も保健室で休んでいるということで欠席になっていたので、僕は休み時間にお弁当も食べず、保健室へ直行した。が、ほとんど入れ違いで出て行ってしまったらしく、体育館、裏門側、ゴミ捨て場などあちこちを探した。ようやく香奈を見つけたのは別館の美術室だった。
ドアをあけると、香奈は机に腰かけてうつむき、手の中で何かをいじっていた。大きな宝石にも、ストーンでデコレーションした携帯電話にも、あるいは野球ボールサイズの透明なゴム毬にも見えた。僕が美術室に入ると同時に、彼女はそれをスカートのポケットに隠した。
「ごめんね、さっき、変なところ見せちゃって」
先に行っていれば。騎士道精神。無駄死に。
僕はそういったもろもろの理解できない単語をあえて口にせず、「いや」と手をふった。
「大丈夫?保健室に行ってたって聞いた。瀬田はあの様子だから分からんでもないけど」
「うん、ごめんね、気分悪くて」
女子の言う「気分悪くて」というのはいくつもいくつも病名があがりそうで恐ろしい。僕はあえてそこから先を詮索しなかった。
「あの怪我さ」
香奈がかすかに肩をふるわせたような気がした。「何があったんだろうな」
彼女はしばらく泣きそうな表情でうつむいていた。何かを思案しているというよりも、後悔、葛藤、そういった文字が浮かんでくる。泣かないのが不思議だった。やがて額に片手をあてて目を閉じた。小さく首をふる。
「あったま痛いわ」あきれたような口調だった。「まさかあんなことになるとは思わなくって」
僕と香奈は隣りあった机に並んで座り、グラウンドで遊ぶ男子たちの声が聞こえる白昼の美術室で、しばらく無言のままでいた。野球をしているらしい、金属バットとボールがかちあう音と、レフトさがってさがって、という叫び声が窓の外から響いた。天気もいい。太陽は今日も元気に日本の夏を演出中。しかし、香奈と油くさい美術室でのんびりまったりというには少し緊迫感がありすぎて、緊張しすぎて、なんとも喜べたものではなかった。
香奈は美人だが、あの瀬田とややこしい関係になっているとは思えなかっただけに、色々と衝撃はあった。まさか付き合ってるわけではないだろう、と勝手に決めていたが実際はどうなのか分からない。見えない部分が多すぎて、何から聞けばいいのかも模索途中だった。
はじめに口をひらいたのは香奈である。
「あたしね、本当は龍一郎の役に立ちたかったんだ」
キン、と空をつきぬける軽快なバットの音が響く。歓声が周囲を凌駕する。
「それが何、あのざま。天草四郎事件のときも、こいつバカじゃないかって思ったよ。龍一郎のくせに、いっちょまえにあたしのこと女の子扱いして、守りたいだなんて言って。わけ分かんない。あたしにはまだ教えられていないことがたくさんあるから、首つっこむのも邪魔なんだって分かってるけど、それでもさあ」
途切れてしまった言葉の続きは、どうでもよかった。
ただ、今ここで香奈が悲しんでいる、つらくて涙が出そうになっている、その事実だけで十分だった。
僕は泣くのをこらえて唇を噛んでいる香奈の髪に指をとおした。いい匂いがする。絹のような髪をもてあそぶように、窓から入りこんだ風が優しく揺らす。
美術室はどうしようもなく、静かだった。
香奈は照れ隠しのようにふうっとため息をつき、苦笑しながら天井をみあげた。オーロラも何もない、ただの空虚を。
「こんなこと、貴臣に話してもしょうがないね」
「そんなこと」僕は言いよどんでしまった。僕も、何も知らされていない観客の一人にすぎない。
悲しい気持ちをなみなみたたえているはずなのに言葉にできないこの唇にキスができればいいのに。そんなふうに思った。
ファウルファウル、と男子の叫ぶ声が聞こえる。
ひらきなおったように机から飛び降りる香奈を、僕はどうすることもできずに見ていることしかできなかった。スカートをひるがえして振り返った彼女は、強気のまなざしで満面の笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ、心配しないで」
無茶なことを。
続きを聞きたくなかったけれど、香奈はささやくように小さな声で言った。
「明日で終わる。すべてが終わる。あたしと龍一郎で、終わらせてみせる」
風がひとつ、教室に乱入してきた。僕と香奈の髪や服を躍らせる。
唐突に美術室のドアがひらいた。
「あ、香奈、こんなところにいたんだ」
朝と変わらず傷だらけの瀬田があわただしく入ってくる。彼女と僕が一緒にいることに驚いたらしく、怪訝な目で見比べられた。
「お邪魔?」
僕と香奈は同時に首をふった。必死でふった。
瀬田の右手には携帯電話が握られていた。彼は香奈の肩を引きよせ、耳元で小さく「行くぞ」と言った。その声は僕にもつつぬけだったので、彼らふたりが走りだそうとしたとき、「待てよ」と止める余裕があった。
瀬田と香奈は同時にふりかえった。ふたりとも僕を部外者として扱い、同時に心強い親友のような目で見ていた。僕は香奈とは仲がいいけれど、瀬田とはつい最近知り合ったばかりで、誕生日も出身小学校も家も、何も知らない。だが、彼が最初に天草四郎事件の容疑者として連行されたときのことを思い出し、当時、自分は無駄に瀬田を擁護することも強烈に批判することもしなかったのだと自覚した。
けれど。
分厚いシルクで何枚も覆われてしまって見えない部分を僕は何度も暴こうとして、そのたび、自分の中でいつも「レイラ」の着メロが流れていた。
終わらせてみせる。香奈は確かにそう言った。
僕が口をひらいたと同時に、瀬田の手元の携帯電話が「レイラ」を歌いはじめる。あまりにも有名なイントロ。瀬田も香奈もその電話に出ず、鳴らしっぱなしにする。僕はふたりから目を離さず、ふたりとも僕から目を離さなかった。「寂しいとき、君はどうするんだい?」と英語の歌が流れる。美しいギターが鳴りひびく。
言いかけた事を、僕は口にする。
「レイラは確か、エリック・クラプトンがビートルズのジョージ・ハリスンの奥さん、パティ・ボイドに恋をした気持ちをつづった曲だよな。最終的にエリックはジョージと別れたパティと結婚したけれど、その末路はどうだっけ」
音楽が鳴りつづける。歌がつづく。「長いあいだ逃げまわり、隠れまわっていたけれど、そんなのバカげたプライドなんだって分かってるだろう」。
瀬田と香奈は互いに顔を見あわせ、やがて苦笑した。仲のいい恋人同士のようだった。そして僕と真正面からむきあい、瀬田は「別れたよ」と答えた。
消えてしまう。手に入れたそばから、失ってしまう。
僕はあたたかい風が吹きこむ美術室で、はじめてこのふたりを黙らずに見送ろうという気になった。最後に一発、なんでもいい、ぶっこいて、殴って、はったおして、それから送りだそうと思った。
僕はまだ、観客席からグラウンドに飛びこむだけの余裕はある。
瀬田がうるさく鳴りっぱなしの携帯をひらき、耳に当てる。
「ごめん、取りこみ中だった。うん。すぐに向かう。まだ学校」
そして僕を見て、少しだけ笑った。電話の相手と僕に、偽りのない言葉を告げる。「終わらせよう。何もかも」
携帯を勢いよく閉じた瀬田と香奈のふたりは、互いに目線で合図をしたのち、狭い美術室のドアを勢いよくひらいて廊下を走った。僕は階段をかけおりる彼らの後ろから「おい」と声をかける。
「帰って来いよ、必ずな。死んだらぶっ殺す!」
階下から足音とふたりぶんの笑い声が聞こえた。それだけでじゅうぶんだった。僕はその場にうずくまり、膝をかかえる。
その日の深夜にふたたび発生した巨大なオーロラは、僕たちのいる町の一角をぐるりと囲むように、城壁を作っていた。普通、オーロラはほとんど大気圏すれすれのところで出現するものだから、地表近くにおりてくるなんてありえない。けれど、あのオーロラが単なる自然現象ではないということは、とっくの昔に知っていた、ということを今、知った。
ほとんど快晴に近く星空がおがめるような美しい夜で、そんな夜空にはかない光を放つオーロラとくればじゅうぶん、北欧神秘を肌で感じられるのだが、それどころではない。テレビはさんざんとりあげるし、ヘリコプターや報道陣がうるさいし、カーテンを閉めても窓のむこうがあかるいし。そろそろ日々の雑談のトピックとしてはすたれつつあるというのに、全国、そして全世界が情報の断絶を許さない。
僕は自分の部屋でカーテンを少し開け、遠くで輝く美しいオーロラをながめた。地表近くで発生したということで近隣が喧騒の渦に包まれ、警察がまたも出動してアイドルグループのおっかけをおさえつけるように野次馬を整理していた。怪我人も出たらしく、救急車のサイレンがかすかに聞こえる。しっちゃかめっちゃかだ。
僕は何度も、この窓から外に出たいと思ったことがある。親からは相変わらず「オーロラが危ないから外に出ちゃいけない」と言われて、夕食後はこうして部屋に閉じこめられている。自己主張が強くてもしょせんは中学二年生、自立するには足りないものが多すぎる。
「放射性物質の危険性がありますので、近隣住民のかたは近づかないでください」
そんなわけの分からない報道がされている。警察までそう叫んで野次馬をおしやっているのだから本当に分からない。
瀬田と香奈は確かに言った。「終わらせよう、何もかも」と。
僕の中ではまだ、ファウルゾーンでホームランボールを待っている観客の気分が抜けていない。天草四郎事件のあと、その立ち位置からほんのわずかほどしか動いていないような気がする。
オーロラの近くでかすかに雷鳴がとどろいた。何が起こっているのか、一戸建ての二階からでは全く見えない。まさか晴天が絶対条件のオーロラで雷鳴はないだろうと一瞬思ったが、このオーロラに常識が通じないことを思い出して口を閉ざす。
何が起こっているのか、何も見えない。
夜の闇に閉ざされているわけではなく、むしろ美しい光につつまれているというのに、何も見えない。
それがもどかしくて、雷の音を聞かないふりするのが嫌で、気がつけば僕は二階の窓をあけて外の空気を浴びていた。窓枠からぶらさがり、車庫の屋根に着地する。思いのほか大きな音をたててしまったので、一階でくつろいでいる家族に聞こえたのではないかとしばらく庭の植えこみに身をひそめていたが、何事もなかったのでそのままフェンスを乗りこえオーロラにむかって駆けだした。
僕は瀬田と香奈を信頼している。それがどこまで知られているのか、それすらも分からないけれど。
僕の知っているオーロラは、写真のみだった。
小学生のころ、理科の教科書にのっていた気がする。あのカーテン状のオーロラは全体的には数が少ないんだと知らず、スウェーデンやアラスカに行けば見れるものだと簡単に思っていた。
緑と青と白が混じったような色の、美しく、神々しい、神様が住んでいる部屋のカーテンのようだった。風をふくんで優しく揺れる。すべてを包みこむやわらかさと清純さをあわせもち、人間の心のけがれをすすぎ落してしまいそうなその空気が、いつまでも人の心をひきつけるのだと思う。
まさか本物を国内で、しかも夏に見ることになろうとは思わなかった。
僕は住宅街を疾走し、オーロラの近くまで踏みこもうとおもったが、案の定パトカーや警察官に止められて不可能だった。周囲をぐるりと一周してみたが、どこも防がれてしまっている。上空にはカーテンがひろげられているというのに、その内側へ入れないもどかしさ。僕はいつだってそうだ。
きっとあそこには、瀬田と香奈がいる。そう信じて、僕は住宅街をぬって走り、なんとか突破口を見つけようとした。
あれこれ思案したあげく、警察官の包囲網を途切れさせている一般の民家の塀をよじのぼり、敷地内へ入った。立派な住居不法侵入だがそんなことを考えている余裕はない。きっと、教会に火をつけた瀬田だって不法侵入だ、同罪だ。僕をこんな奇行に走らせたのだから瀬田のせいにしても許されて欲しい。
身をかがめて植えこみに隠れ、僕は民家から民家へ、塀を乗りこえながらの移動を繰り返した。地震が来ればかなりの数が崩れるだろうと思われる昔ながらの石塀で、触るとざらざらしていて気持ちが悪い。しかし、朝、傷だらけで登校してきた瀬田の姿を思い出し、膝をこすったり爪のあいだを砂だらけにしながらよじのぼった。何をしているかなんて知らないし知ってもしょうがないとは思うけれど何かしなければいけない、という偽善まじりの正義感に駆られてしまった。
僕の中で、すでに瀬田は友達だった。まだ数回しか話したことがないけれど、瀬田なら信じていられると確信は持てた。何も言わずに黙って約束をかわすことはできる。
「死んだらぶっ殺す!」
僕はもう一度叫んだ。誰に言うでもなく、瀬田に言ったことをそのまま。
警官の包囲網からかなり内側までもぐりこんだあたりで、僕は民家の塀から路地へ抜けた。街灯のついていない道路を必死で走る。音も立てずに揺れているオーロラの輪の真ん中へ。雷鳴のとどろく、何が起こっているのかも分からない、今まで目をそむけていた場所へ。
ただがむしゃらに走っているとふと、道路脇の溝で何かが光っているのを見つけた。明らかに光源があるというよりも、ただぼんやりと発光しているだけのようなそれは、小さい水色の水晶玉のようなものだった。足を止めてそれを拾いあげると、大きさは野球ボール程度で、表面に光沢があった。内側からうっすらと水色の光を放っていて、蛍光塗料でも塗ってあるような輝きかただった。
手の中で力をいれたら一瞬でこわれてしまいそうな、もろく、優しく、小さな小さな光だった。
溝に落ちていたぶんかなり汚れていて、枯れ葉をとったり服の端で泥をぬぐったりしてみた。表面を指でこすると洗いたての食器のような音がして、きれいだった。泥を落として気づいたのは、この水晶玉はたぶん、香奈が美術室でながめていたものなんだろうということ。
はやる気持ちが先立ち、僕はその水晶玉を持ってふたたび走り出した。角をまがったところで誰かとぶつかりそうになり、すみません、と反射的に口にしたとき。
「久保」
雷鳴がとどろく中、その声はあまり僕の耳に鮮明に聞こえなかった。だけど、その雑にカットされた黒髪と整った顔立ちを見て、僕はすぐにそいつが瀬田だということに気がついた。制服ではなく、私服らしいTシャツにジーンズを着ていた。その顔に切り傷がいくつも走っているのを見て、僕は一瞬、息を止めた。
彼の姿はオーロラで逆光になっていたが、それがむしろここまでの全力疾走と無数の塀越えの末にたどりついた希望の光のように見えて、僕は初めてこのオーロラの光を真面目に神々しいと感じた。大した距離を走ってきたわけでも、恐ろしい苦労を重ねてきたわけでもなんでもないのに、今この瞬間だけは妙な達成感があった。
瀬田がいる。生きてる。なんとか。それだけでよかった。
僕は瀬田が抗議をはじめる前にと、手ににぎりしめたままだった水晶球を彼の前に差し出した。うっすらと発光するその透明な球体を目にしたとき、瀬田の目が見ひらかれた。「香奈が言ってたのはこれか」と呟いている。
「どこで?」
「すぐそこの路地の溝に落っこってた。大事なもんだったらなくさないでちゃんと持っとけよな」
瀬田が水晶球をそっと手にとる。彼の手におさまると、その切ない輝きもどこか強さを増したように錯覚してしまう。香奈か瀬田か、持ち主の手に戻ったという感じがした。
何が起こったのか分からない。分かろうとしてもきっと無理なことばかり。僕の手には負えないことばかりで、気がつけば誰もが僕より二歩も三歩も先を行っていて、僕はその軌跡を追随しているだけにすぎない。
瀬田はしばらく青白い光をじっと見つめたあと、天空に輝くオーロラのカーテンを見あげ、手早くジーンズのポケットに水晶球をつっこんだ。一体何のためにあるものなのか、どうするつもりなのか、それをたずねることははばかられた。
オーロラが揺れる。風が直撃する地表近くで輝いて、カーテンのように優しくおどる。きらきらと輝く真っ白な光が、オーロラを知らない僕ら日本人をおびやかし、また魅了する。たとえそれが町全体をおおってしまっても、何も知らない僕たちはその輝きにため息をつくだけだ。
遠くから香奈の、瀬田の名を呼ぶ声が聞こえた気がした。ちっと舌うちした瀬田は僕の前に右手を腕相撲のように差し出した。おおよそ彼らしくない行動だった。
「ありがとう、久保。何するのかと思ったら、まさかこんなことになるとは」
僕は喉でくつくつと笑って、彼の手に自分の右手を勢いよくあわせた。パン、と乾いた音がオーロラの舞う夜空に響く。
「俺、基本的に何事にも興味もたないんだけど」
そうは言ったけれど、それでも僕は主役を忘れていない。
瀬田は少しだけ笑い、「怪我するなよ」と言って、きびすを返して駆けだした。また、雷鳴が響く。空がはじけとびそうなその破裂音と、優しく輝くオーロラがかみあわない。どうして彼らはいあわせなければならなかったのだろうか。本来、いないはずの場所にお互いが、いる。
僕はオーロラの光で地表が明け方ほどの明るさになっていることに気づき、どうしても憎めないんじゃないかなあ、と思った。「迷惑だぜ、まったく」とつぶやいて苦笑し、僕はもと来た道を走った。途中で警官につかまり「どこから入ったんだ!」と怒鳴られたが、「どーもお邪魔しましたあ」などと軽い調子で謝ってすり抜け、死ぬほどまぶしいオーロラから逃れた。自宅への慣れた道を、全力疾走で走り抜ける。
雷鳴が何度もうなる。地響きがうるさい。鼓膜がやぶれそうだったけれど、耳をふさぐのは嫌だった。
誠二の大爆笑で朝がはじまる。
「何してんの、お前! どこのどいつの真似だよそりゃ。前から貴臣のこと、毎回おもろいことやらかすとは思ってたけど、まさかこれほどとはなあ。いやはや、よく頑張りまちたねえ」
ちったあ黙れ、と叫ぶほどの気力もなく、僕はぐったり脱力して机につっぷした。「笑いごとじゃねえよ、ちくしょう」と泣く真似をするが誠二の高笑いは止まらない。教室中に響く声にクラスメイトたちが何事かとこちらを見ていたが、目に涙を浮かべて地団太を鳴らす爆笑中の誠二と、その隣で呆れた顔でマグロと化している僕のとりあわせは非常に、異常だったろう。
市内をまるがかえするほどの巨大なオーロラは、あの数時間後に消滅し、雨雲も出ていないのにうなり声をあげていた雷もなくなってしまった。それ以降、国内でオーロラが観測されたという話は聞いていない。気がつけば完全に事態は落ちつき、いったいなんだったのかという謎だけが世界中のメディアを悩ませるのみとなった。きっとあと一ヶ月もすれば忘れ去られてしまうようなできごとだ。年末の一年ふりかえり番組で少し話題にはなるかも知れないが、卒業文集の最終ページにのるかどうか。
学校の裏掲示板では、天草四郎事件も、巨大オーロラも、なにひとつ話題にのぼらなくなった。いつしかゴシップがゴシップを洗い流し、僕たちは次のあらたな退屈しのぎを探すために人生を謳歌するのみだ。
結局、誰も天草四郎事件とオーロラと、瀬田をつなげることなく終わってしまった。
オーロラの真下へ突入するという自分でもかなり無謀だと思われるあの事件のあと、一週間、僕は誠二にも誰にも話さず学校で緊張した日々を過ごした。オーロラの発生しているときに飛行機に乗ると放射能を浴びるという都市伝説を信じていない、わけじゃない。それが怖かったこともあり、同時に、その一週間のあいだ、瀬田と香奈が登校していないことも原因のひとつだった。
「あ、そうか、それで瀬田たちがここ何日か、学校にいなかったのか」
事情を説明すると、誠二は拍子ぬけて天井をあおいだ。口元を手でおおい、「テレビよりよっぽど現実味があるよな」なんてつぶやいている。
瀬田と香奈が入院していることは聞いた。これまた詳しい情報は抑制されてしまって憶測半分だが、僕が青春の全力疾走をかましたあのオーロラ発生源のほぼ真下でふたりともども倒れた状態で発見され、全身の複雑骨折にくわえ傷だらけの血まみれで、そのまま病院に搬送されたらしい。怪我の具合がどれほどなのかは噂で流される程度しか知らないが、入院しているのは事実らしく、事件の翌日に担任の先生から告知された。一体いつになったら学校にまともに通えるようになるのか、僕はひとりで考えていた。
一体いつになったら。
何もできなかった、わけではない、と信じたい。
僕らは確かに観客だった。間接的にコミットしてくる雪崩のような情報を整理する間もなく、結局、どこまでが本当で嘘で真実でフィクションか分からず、試合にふみこんでいい領域をみきわめられずにいた。僕らにはポールが見えていなかっただけだ。知らないくせに、と一刀両断されることのほうが珍しくない。
僕よりも事実を知らない誠二は、まだ笑っていた。僕は完全にふてくされて、勇気を出してあのオーロラ発生時の行動のあらましを説明したことを心の底から後悔する。
「よくもまあ、警察の包囲網すり抜けてそこまでやったもんだね。どういう動機でやらかしたのか、知らねえけどさあ」
「俺だって知ったこっちゃねえよ」窓から出ていったとき、すでに何も考えていなかった。「こういうの、何、本能? そういうもんが脊髄に直接訴えかけてくるんだよ。スピリチュアルとか、ブレインウォッシュとか」
「目に見えるものしか信じないから」
「なんだそりゃ」
「常に己の信じたものが信じるべきもの、そういうスタンスだよ」
笑いすぎて目尻に涙を浮かべている誠二は、シャーロック・ホームズのように顎に手を当ててかっこつけた。僕はそんな彼の頭をひっぱたき、ふたたび机に顔を伏せた。頭上から誠二の笑い声がふってくる。どいつもこいつも、自由気ままだ。中学生なんてこんなもんだろうけれど。
結局、すべてが終わったのだ。オーロラはもう見られない。そもそも日本の夏でオーロラが発生するなんて元々ありえない。いつもの平和で、眼球がどろどろに溶けてしまいそうな常温の、変革のない極東が戻ってきた。
それでよかったのかどうか。僕は答えを出す権利がない。
灼熱の夏の太陽に照らされた教室は、期末テストを目前にしても活気を忘れていない。夏休みの予定をかわしあうやつ、ライブのチケットを見せびらかすやつ、漫画を交換するやつ、いろいろ。普遍的な中学校の光景とはいえ、あからさまに放火犯をひとり出荷したクラスなだけあって、ガラの悪い中学としてはおとなしいほうかも知れない。
きっといつか、すべてが忘れ去られてしまう。このメンバーで同窓会をして、一体何人が「そういえばオーロラなんて出てたよなあ」と回顧するだろうか。歴史はそういったことを長々と繰り返して築きあげられるものだから、別に嘆くことじゃない。
僕は机から顔をあげて、ホームルームがはじまるまでに携帯電話でゲームでもしようと思った。
が、恐ろしい勢いで、ガラスが割れんばかりに強くひらかれた教室のドアに、クラスメイトの動きが正確無比に一瞬、静止する。全員の視線が注がれているドア前には、体のあちこちに包帯やガーゼを寄生させて松葉杖をついている香奈が、どうやら登校に相当苦労したらしい、肩で息をして立っていた。いつもきれいなポニーテールを維持している彼女が、珍しくおくれ毛をぼさぼさに乱している。僕はデジャ・ヴュを初めて体感した。
ドアの音が必要以上にうるさかったのは、彼女が松葉杖をドアの間にはさんで押しやるようにひらいたからだと、左手の杖の先が宙に浮いた彼女のポーズで分かった。
僕と誠二はあわてて彼女にかけよる。
「香奈、入院したって聞いてたのに」
「あはは」彼女はいつもどおりの強気な笑顔を見せる。「見てのとおり、ピンピンしてるっての。やばかったのは骨折ぐらいらしくってねえ」
力が抜けてしまい、僕はそのまま肩をすとんと落とした。思った以上に元気な香奈を見て、ほっとしたこともある。オーロラが発生したあの現場で、香奈が瀬田の名を叫んだことは記憶に新しい。あれが助けを求める声だったのか、せかしていたのか、そこまでは分からなかったけれど。
平穏を取り戻しつつあるこの町で、彼女が無事だったことでひとつの不安要素が消えた。彼ら二人が「終わらせる」ためにこうなったことは、僕だけが知っている。
「よかったね、香奈ちゃん」
「ほんとに大丈夫?無理しなくても、プリントとか届けるよ?」
「ああ、もう平気平気。心配しないで」
他の女子たちにとりかこまれてきゃあきゃあ騒ぐ香奈は、ぱっと見は普通の女子中学生だった。松葉杖をついているあたりがなんだかスポーツ少女っぽい。快活なだけあって、逆に全身のずだぼろ具合が様になる。あの見るからに脆弱そうな瀬田が怪我まみれになると、どこの誰にやられたのかと思ってしまう。
僕は女子たちの会話を失礼ながらさえぎって、香奈に「瀬田は?」と聞いた。
「ああ、あっちのがひどい怪我だったから、もうちょっと入院すると思うよ。お見舞い行くんだったら、あとで病院と部屋番号、教えるけど」
ありがとう、と言って僕は自分の席に戻った。香奈の一週間ぶりの復帰を喜ぶ女子たちの騒ぎ声が耳に優しい。僕はセミの声がしみわたるきれいな空を見あげた。
さっさと家に帰って安静にしてろと口すっぱく言ったのにもかかわらず、香奈は僕と誠二の瀬田見舞いに同行した。「部屋番号だけ教えてくれればいいんだけど」とおしとどめたにも関わらず。
「龍一郎がああなったのはあたしの責任でもあるんだし」
理由になっていない気がするが、断固としてゆずらないので僕は松葉杖の彼女を支え支え、バスと徒歩で駅ひとつぶん離れた救急病院へ行った。
一時はICUへ収容されたが、思ったより回復が早いのですぐに一般病棟へ移されたという。複雑骨折の噂は半分本当だったらしく、足を二か所ほど折っていた。その他、意識不明だの出血多量だので、香奈の数倍は重症だったらしい。とてもではないが刃物や銃火器でやられたとは思えない、非人為的な傷痕に病院は警察を呼ぶと言ったそうだが、香奈は「それだけはなんとかやめさせたんだけどね」という。いったいどうやってやめさせたのか、考えるだに思考がからまって詮索できなかった。
救急病院の受付で事務員と話す香奈の背中を見て、僕は誠二に耳打ちした。
「オーロラって殺傷能力あり?」
すっとぼけたことを言うんじゃないとデコピンが飛んできた。
「細かいこと考えないほうがいいんじゃねえの」
「うん、まあ俺も基本的にそんな感じ」僕は肩をすくめてため息まじりに笑った。「香奈も健気だよなあ。俺たちが二人の事情を知らないの分かってて、あえてこういうことで気づかってくれるんだから」
「つき合う?」
「ノーサンキュー」
気の強いさばさばした女の子は好みじゃない。
「まあ、天草四郎事件といい、オーロラ事件といい、ここ一ヶ月は身辺賑やかだったけどさ」誠二が僕の背中を力強く叩いた。「瀬田と香奈がなんかしてくれたんだろ。正義の味方だか地球防衛隊だかなんだか知らないけどさ」
そして続ける。「この二人が生きてる。それでいい」
見舞いの許可をとった香奈が戻ってきた。エレベーターで三階へあがり、三〇五号室のドアをノックした。個室らしく、入口の名札は「瀬田龍一郎」としか書かれていなかった。
返事がない。そっとドアをすべらせて中に入ると、白で統一された部屋の中、同じく純白のベッドに横たわり、瀬田が気持ちよさそうに眠っていた。あけっぱなしの窓からはやわらかく湿った風がふきこみ、青空の透けたカーテンを揺らす。窓枠の花が唯一はなやかな飾りだった。
瀬田は頭や手に包帯が巻かれてあって、あの別れのあとよっぽどひどい目にあったということがうかがえた。閉じられた目元はうっすらと赤らんでいる。真っ白なサンタ・クロースのブーツをはいたような彼の右足はギプスで固定されて天井から吊られている。
「こりゃそうとうやられたっぽいな」
誠二の呆れたような声に、僕は喉で笑った。誠二は僕よりもずっと真実を知らないままだけど、回復を待ってしあわせそうに眠る瀬田の姿に安心していることは声で分かる。
セミの声が夏の風物詩を演出する。優しくふきこんでいる風が瀬田の前髪を揺らす。悔しいけれど、端正だった。苦痛にゆがみ、「レイラ」を聴くたびに恐怖におののいてこわばる顔を何度も見ていた僕は、子供のようにおだやかに眠っている彼の表情を見て、「終わらせるにしてもやりかたあんだろ」とつぶやいた。
香奈が振り向き、口元に人差し指をあてて「しーっ」と言った。そして自分の、ピンク色のストーンでギャルっぽく飾りつけられた携帯電話を取りだし、手早く短縮登録からダイヤルをかけた。
とたん、ベッド脇の棚の上に放りだしてあった瀬田の携帯電話が「レイラ」を軽やかに演奏しはじめる。静かに眠っていた瀬田の身体がびくんと跳ね、赤らんだ目がひらかれる。そのままあわてて起きあがろうとすると、天井から吊ってあるギプスでつつまれた右足を思いっきり動かしてしまったらしく、「いてえっ」と苦悶の叫び声をあげてふたたびベッドに頭から落ちる。
どうしようもなくその姿が滑稽で、僕と誠二と香奈はここが病院だということも忘れて腹をかかえて爆笑した。シーツをつかんで激痛に耐える瀬田の奥歯がぎりぎりと鳴る。僕らは笑いすぎてまともに話せない。お腹や頬の筋肉が痛くなる。
瀬田が必死で手を伸ばして「レイラ」がやんだ携帯をとると、着信元が目の前にいる香奈だと気づいてしばらく呆然としていた。転げまわって笑う僕らの姿を見て、寝起きの彼は半分口をあけたまま呆然としていた。僕らが笑い飽きるころ、瀬田は絶望に目を伏せ携帯を毛布の上に放り投げた。
「お前らなあ」よほど長いこと寝ていたのだろう、彼の声はすっかり枯れていた。「悪ふざけもいい加減にしろっつうの」
「俺じゃありませーん。香奈が最初にやったんだし」
「だって、龍一郎だったら絶対びびってくれるだろうと思ったから」
「予想どおりの展開になってくれて何より。期待を裏切らないねえ」
僕らの笑い声を聞いて本気で安心したのか、瀬田は両手を目の上にのせて煩悶する。
「勘弁してくれよ、全部かたづけたと思ってたのにまた電話かかってきたのかって、真面目に死ぬかと思ったぜ」
僕は耐えきれずに吹きだした。楽しくて、痛快で、いつもどおりの中学二年生の夏が戻ってきた気がした。
看護師がドアから顔をのぞかせ、「病院内で携帯は使わないでくださいね」と注意した。僕がベッドで宙づりになっている瀬田の右足をぽんぽんと叩くと、彼の表情がゆがんだ。
「なんの嫌がらせだ、久保」
「ん?つまんねえことにくそ真面目になってた罰」
「わけ分かんねえし」瀬田はこれまでの根暗なイメージを払拭するような笑顔で答えた。「別に俺、真面目じゃねえもん」
肩をすくめる。呆れたからではない。
僕ら三人はおのおの、ポケットから油性マジックを取り出した。見舞いに来るときの定番だろうと思い、担任の先生から借りてきたものだ。僕らはよってたかって瀬田が起き上がれないのをいいことに、彼の右足のギプスに「骨折厨」「爆発物」「Punch Here!!」などと好き勝手に落書きした。
「あ、こら、何してんだよ!」
瀬田の抗議もむなしく、僕ら三人によってギプスは見事にスプレーで落書きされたあとのシャッターのようなデコレーションがなされてしまった。ふたたび笑いがこみあげてきて爆笑する誠二。頬をひくつかせて呆れる瀬田。もうわけが分からなかった。自由すぎて、自由すぎて。
「だって、こういうのって絶対にされるもんじゃね?今後は覚悟して骨折しろよな」
「今後って、お前」
瀬田は右足にたかる油性ペンを絶望の目で見つめ、呆れ、苦笑し、「好きにしやがれ」と言った。声をあげて笑う瀬田は本当に珍しかった。
風が吹いた。純白のカーテンが優しく揺れる。きらきらと輝いて色鮮やかなオーロラには負けるけれど、ここに飛びついてやりたい気持ちはまだ失っていなかった。しょせん、僕らは中学二年生で、十三歳で、社会の中では無力すぎる。何をしているか、何ができているか、そんなことは重要ではないと笑い飛ばせるようになるには、あと何年かかるのだろう。
僕は風を体いっぱいに受けながら、ぼそっとつぶやいた。
「十三歳でよかったな」
瀬田に聞きかえされたのでくりかえすと、彼はくしゃりと顔をゆがめてため息をついた。
「今日、何日?」
「えっと」香奈が手に持ったままの携帯をひらく。「十六日だね」
「ああ、じゃあ、今日から俺は十四歳」
「え、まじで?」
「こんなつまんねえ嘘ついてどうすんだよ」
「本気かよ。ここケーキ持ち込みオッケー?」
「プレゼントとかぜんぜん用意してなかったなあ」
「いいよ別に。これから少年法にひっかかるから、これからめんどくさくなりそうだし」
オーロラの発生に偽装工作の噂があり、瀬田に疑惑がかかっているらしい。よって退院後は警察の事情聴取が入る。香奈はどうするんだと聞くと、「香奈には捜査がいかないようにうまいことやったから大丈夫」と言われた。またわけの分からんことを、と思ったがため息の端に消えてしまう。
十四歳からは犯罪の摘発対象になる。天草四郎事件の当時は児童相談所に何かしら手をまわしたらしく、家庭裁判所へ送致されることはまぬがれたらしい。いったいどんな裏技を使ったのか、それとも何か、そういう法律違反ギリギリなことが可能な権限を持っていたのか。僕は詳しく知ろうとしなかった。今回も同じようにして逃げられないのかと聞いたが、「香奈を警察の手から逃げさせるだけで手いっぱいになっちまった」らしい。
いずれにせよ、めでたい。僕はとりあえず両の手をパンと叩いて、「ひとつジジイになりおおせましておめでとうございます」と言った。苦笑まじりの舌うちが聞こえた。
「退院したら、なんかで誕生日パーティーでもするか」
「俺、そういうのされたことないから、こっぱずかしいんだけど」
瀬田が抗議したが、僕は無視した。「そりゃ余計に一回は経験しとかねえと」と彼の頭を軽く叩く。
「それとな、瀬田」
僕は毛布の上に無造作に放り出されたままだった彼の携帯電話をとり、無許可で画面をひらいた。「あっ」と瀬田が叫んだころには、僕は待ち受け画面にある香奈の写真を見てしまった。どうしようもなく笑いがこみあげてきて、静かに携帯を閉じる。
「着信音、レイラはもうやめたら?」
ストラップに指をかけて瀬田の目の前にぶらさげた。彼は一瞬あっけにとられたように口をぽかんとあけていたが、やがて氷が解けるようにゆっくりと笑った。こんな笑いかたもできるようなやつだったんだなあ、と僕は内心嬉しかった。
「じゃあ何にしろって言うんだよ」
「そうだなあ」僕は窓の外を見る。「ブレシッド・ユニオン・オブ・ソウルズの『ブラザー・マイ・ブラザー』とか」
瀬田が笑う。香奈と誠二と僕は、ずだぼろの包帯まみれになった彼の十四歳のパーティーを、どれだけ楽しく素晴らしいものにできるか考えた。何をしよう、何をしてあげよう、ケーキは何を買おう、何で飾ろう。そんな瞬間がいとおしくて。
優しい風が夏の日本をいろどる。燃えてしまいそうなほど暑い季節に、僕らは看護師に怒られるまで騒ぎ続けた。不自由すぎる、この自由なときに。
兄弟よ 僕の兄弟よ
何と戦ってるのか教えておくれ
この戦争に終わりを告げないといけない
僕らは互いに愛し合うべきだ
この戦いがなかったふりなんてできないから
きっとできるさ
兄弟よ 僕らの兄弟よ
君の声は聞こえない、その歌は聞こえる 真朝 一 @marthamydear
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます