第1話 方言っ娘の告白
「俊〜? もう起きなきゃ遅刻だよ〜」
姉の声に俺は上体を勢い良く起こす。そうか、さっきまで俺は夢を見ていたのか。関西弁の子も、幻聴も、全部夢なら説明がつく。俺は上がった息をゆっくりと落ち着ける。
「俊〜?」
「分かってるってー」
姉の二度目の呼び掛けにはしっかりと応対しておかねばならない。過去のこの過ちだけは二度と犯せない。思い出すだけで顔から血の気が……いや、やめておこう。
それはさておき、またベッドに引き付けられない内に着替えを手に取る。雨は降り続いている。どうやらまだまだ止む気配はないらしい。制服に袖を通し、一階リビングに降りる。姉は化粧台でメイクをしている。俺は、ササッと朝食を摂る。昼飯は学食でいいか。そんなヌルい日常を俺は噛み締めていた。
「じゃ、行ってくるー」
一言残して俺は家を出た。
入学して二ヶ月経った今、通学路には新鮮味も高揚感もない。ただ、降り続く雨が落とす憂鬱感のみが心を侵す。ダークグレーの空は二週間も青を見せてくれないままだ。
学校に着いた俺は傘の雨粒を飛ばす。六月に入ってから何度この風景を見たことか。俺はため息混じりに教室に向かう。昨日の変な夢は忘れて日常を謳歌しよう。
教室の戸を開けた。結論から言うと、唖然とした。夢の中の架空だった筈の人物――向が、
取り敢えず席に着こう。心を落ち着けるんだ。
「俊? 何かあったか?」
一が問いかけてくる。傍から見ても分かるぐらい俺は動揺しているのか。
「いや、何も」
嘘だ。それはもう見事なまでに真っ赤である。向に聞きたいことはある。しかしそれを聞きに行けるほど俺には勇気がない。俺は自嘲することしか出来ない。
「俊? ほんとにおかしいわよ、相談乗るわよ?」
「……ちょい、場所を変えさせてくれ」
詩涵の言葉に少し逡巡して答えた。
「それで、何があったの」
俺は昨日の記憶の一切を話した。信じてもらえるかは分からない。でも話せる人物がいる、それだけで俺は心が軽くなった気がした。
「なるほどね、もしかしたらそれ、幻聴じゃないかもしれないわね」
詩涵の言葉に俺は驚く。
「どういう事だ?」
「だから、あんたの空耳じゃなくてガチで喋ったのをあんたが聞いたって可能性があるってことよ」
なるほど、幻聴じゃない説か……。ありそうだが、それは無い気がした。
「なあ、幻聴じゃない説だが、俺が顔上げた時には向とその周りで話に花が咲いていたんだが」
「他が喋ってる隙にでも言ったんじゃないの」
「一理はあるが、確証は持てねぇな……」
「まあそうでしょうけど、本人に確認するのが一番よね。タイミングがあったら聞いてみればいいんじゃないかしら」
俺は首肯するのみだ。聞くにしても聞き方が分からない。
取り敢えず教室に戻った。鞄を漁り、一限目の用意を机の中に入れる。そこで俺は机の中何か入ってるのに気がついた。手紙で間違いないだろう。開くと、「昼休み、屋上まで」とある。女子っぽい筆跡だ。なんの用ろうか、さっぱり分からない。俺は気持ちを切り替えて、授業を受けることに専念した。
昼休み。俺は書かれていた通りに屋上にいた。雨はまだ止まないままだ。屋根のある場所はほんの一部で、スラックスの裾が少し湿っている。暫く待っているとドアが開く。入ってきたのは――悪友の一だ。
「なんだ、お前か」
「おうよ、お前今日ずっと元気なかったからな」
初っ端から単刀直入に言ってきた。
「よくこんな女子っぽい字書けたな」
「手紙か? 妹に書いて貰ってた奴だ。なんかあった時のためにってな、実際役に立ったな」
なんと言う奴だ。妹という存在を悪用していると言っても過言ではない。
「まあまあ、そう難しい顔するなよ」
俺はそこまで難しい顔をしていたのだろうか。無論、自覚は一切ない。
「それよりさ、本題入ろうぜ。単刀直入に聞く、お前何があった?」
一が屋上に来た時から、この質問は予想出来ていた。わざわざ単刀直入に、と前置きしなくとも最初からズバズバ来ているのだが。
「別に。何も無い」
俺は嘘をついた。コイツにバレたら絶対笑われる。
「ホントか? お前あんなに悩んでたの勉強以外で初めて見たぞ?」
俺はよく観られていたのだとここで気付かされた。そういえば、一は観察眼が鋭いのを忘れていた。
「マジで何も無いっての」
俺は突っ撥ねるように言った。 しかし一は食い下がる。
「いっぺん話してみろよ……いや、こうなったら詩涵に聞いた方が早いか」
何故詩涵の名前が出てきたのか。それよりもよりによって今朝、一切の事情を話したばかりである。このままではバレてしまう!
「待て! やめろォ!」
そう叫ぶのも虚しく、一は既に電話をかけていた。相手は考えるまでも無い、詩涵である。
数分後、通話が終わり一がこちらを見る。なんだか呆れたような、しかし楽しんでいるような、どうしても今の俺には腑に落ちない表情を浮かべている。
「なるほどねぇ、変な事も起きたもんだ。これは今から転校生のとこに行くっきゃないな!」
まさかとは思った。が、そのまさかであった。一に手首をがっしりと掴まれ、教室に連行される。
教室を見回すが、件の向の姿は見当たらない。
「居ないなら仕方無い、諦めようぜ」
俺は、絶好のチャンスに乗じて一に言った。
「居ないかぁ。ならアイツの周りに居たやつらに聞いてみるか」
「は?!」
こう来るとは思っていなかった。
「お、おい! やめと……」
言い切るより前に一は、向の周りに居た女子二人に話しかけていた。
「なぁ、向……だっけ、転校生の子、何処に居るか知ってる?」
するとその女子二人は顔を見合わせ、右側の女子が殆どの人には分からないほど微かに笑みを浮かべた。これで意思疎通でもしたのだろうか。すると、左側の女子が口を開く。
「ほほう、汝はかの向に興味を示すか。ならば詳しく聞かん!」
俺は直感的に思った。ヤバいやつを捕まえた、と。一よ、悪いが犠牲者になってくれ。元はお前が突っ込んだからこうなったんだ。じゃあ俺は逃げるから!
「いや、興味あるのは俺じゃなくて俊の方だ。な?」
俺は泣いていいと思った。
「ふむ、三谷の姓を負いし者よ。汝は何故向に興味を示した?」
言えるわけない。こんなネタ厨二病患者は絶対目を輝かせて食いついてくるに違いない。頼むぞ一、どうか言わないでくれ! 俺は一にアイコンタクトを送る。一はわかったように口元を歪ませ、開く。
「実はな、昨日俊がな……」
話しやがった。俺はもうメンタルがボロボロである。そして、逃亡を決行した。
行くあてもなく教室を飛び出したが、何処へ隠れようか。そうだ、旧校舎の最上階の空き教室に隠れれば暫くは見つからないだろう。俺は渡り廊下を渡り、目的地へと急ぐ。階段が鬱陶しい。三段ほど飛ばして登る。俺の足は限界だ。ギリギリのところで最上階の四階に着いた。一番手前の空き教室に飛び込む。そこで見た光景に俺は卒倒するかと思った。件の彼女――向が居たのである。
「あれ? アンタは隣の奴かいな、なんでここがわかったんや?」
俺の頭は理解が追いついていないようだ。言葉が何も浮かばない。ただただ荒い呼吸だけを繰り返し命じている。少し間を置き、息を整えてから俺は口を開いた。
「俺の悪友から逃げてきたらたまたまあんたがここにいたんだ」
「なるほどなぁ。ま、ここで会ったんもなんかの縁や、名前聞いてもええか?」
社交的な奴だ。いや、この状況ではその方が良いのかもしれない。
「俺は三谷俊だ。よろしく」
「三谷君な、ほな今度はこっちの番……やけどこの前ん時に言ってもた気ぃすんな。まあよろしゅう」
それもそうか、転校生には義務的にのしかかってくる自己紹介でもう名前は知っていて当然である。
「ほんで、あんなに息上げて飛び込んでくるってなんかあったんやろ? ちょいと聞かせてくれへん?」
俺は(社会的な)死を覚悟した。
「いや、約三名に詰問されそうだったからたまたま逃げてきた。それだけだ」
「ほんま――」
ほんまか? と言いかけたのか。その真意は推し量れない。が、その時、月日を経た扉が悲鳴を上げながらスライドした。入ってきた人物は――詩涵だった。
「あら? 俊じゃない。どうしてここが分かったの?」
彼女の物言いからして二人は元々会う約束でもしていたのだろう。先程言いかけた「ほんまか?」と言う言葉の意図も今なら容易に推量できる。
俺は目を点にしながら二人を交互に見る。
「もしやホンマに
「そ、そうだけど」
あまりにも驚愕を隠せず、狼狽ばかりしていた様子からこう考えたのだろう。実際それは合っていて、俺は九死に一生を得た。
「俊が居ても居なくてもさほど変わらない話だからこのままでもいい?」
詩涵が向に問う。向は何も言わず、ただ首肯した。
「ほな本題や。
「まあ昨日の事になるのだけれど……ホームルームが終わった後、俊に話しかけた?」
ぴったりと単刀直入という言葉が当て嵌る。
そして、向の口からは、予想も出来たが極小確率として切り捨てていた言葉が発せられた。
「
俺と詩涵は揃って戦慄した。幻聴だと、そう思っていた。否、思い込んでいた、己を騙していたと言った方が正しい。しかし、違った。詩涵は口を開いた。
「なら、なんで言ったのかしら」
「この人はな、私の恩人やからや。恩人でも言いきれへんかもしれん。そんだけの恩を受けたんや」
果たして俺は向にここまで感謝されるようなことをしただろうか。幾ら脳をひっくり返し記憶を漁ってもそんな記憶は出てこない。確か向は兵庫県からやってきた。それはつまり、向の言葉が正しいとすると俺は兵庫県に行ったことがある、ということになる。しかし兵庫に行った記憶など無い。そもそも旅行ですら関東圏から出たことが無い。
「俺は……向に何をした?」
恐る恐る問うた。これを聞かねば始まらない気がする。
「三歳の頃になるけど……いや、言わん方がええかもしれん」
三歳。俺の脳内にただその数詞が繰り返し鳴り響く。その頃の記憶など無い。三歳に兵庫に行ったとすれば記憶が無くても自然である。向はその三歳の記憶があり、それに基づいて俺に恩を感じている、という事だろうか。
「まあなんせ三谷君のお陰で今があるっちゅうことやねん」
全くピンとくる気配すら感じられない。俺は、過去に人の命に関するシーンに遭ったのなら幼くとも覚えているものだ、そう思っていたが違ったらしい。
――キーンコーンカーンコーン……
昼休み終了の五分前を告げるチャイムが静まり返った三人の周りの空気を震えさせる。
「授業始まるし、戻ろか」
俺たち二人もその言葉に促され、廊下を歩いていった。
ヌルい日常は全力逃走 赤羽 椋 @RYO_Akabane
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