第34話「もう逃げないでね。俺の前からいなくならないで。お願いだから」

 朝、サリタが目を覚ますと、エリアスはまだ隣で眠っていた。望み通り熟睡しているようで、ぐぅぐぅといびきまでかいている。サリタはしばらくエリアスの顔を眺めたあと、その三十年後を想像してにっこりと笑う。相手が好みの容貌になるまで待つのも悪くはないかもしれない、とサリタは納得する。

 布団の中から出ようとして、エリアスの太い腕や足が体に絡まっていることに気づく。エリアスが起きるまで待つか、無理やり引き剥がすか悩みながら、脱ぎっぱなしだった衣服を手繰り寄せる。

 それにしても、体が痛くて重い。自由に動かせないのがもどかしい。あの朝とは大違いだ。経験すればわかる。あれはやはり誤解だったのだ。

 肌着を着たあと、日課となっている賛美歌を歌おうとして、気づく。純潔を失った自分から、もう聖女の力がなくなってしまっているということに。


「あぁ、そっか……」


 それは不思議な感覚だ。いつもそばにあったものが、見当たらない。何が、どんなふうに存在していたのか、言語化できない。ただ、大事なものがなくなった。それだけはわかる。

 もう歌ったところで、『瘴気の澱』を祓うことができないのだ。今までのように、国や民を守ることができないのだ。眠る前に庭に出した聖獣アンギスも、もうどこかへ行ってしまっているだろう。

 心の中にぽっかりと穴が空いてしまったかのような気持ちだ。聖母神から「あなたは必要ない」と言われているかのような、そんな虚無感だ。

 あの朝と同じだ。サリタは今、思い出した。あの日、エリアスに役割を奪われたものと思い、腹を立てていたのだと。


「サリタ様、泣かないで」


 ぎゅう、と逞しい腕がサリタを捕らえて布団の海へと引き戻す。大きな指がサリタの涙を拭い、柔らかな口づけが落とされる。赤銅色の瞳が心配そうにサリタを見つめている。涙が零れていたことに、サリタは気づいてもいなかった。


「体が痛い? 大丈夫? 優しくできたかわからないんだ。無理はしないで」

「……私、もう聖女ではなくなったのね」


 じわりとまた涙が浮かぶ。あれほど結婚をして聖女でなくなりたいと思っていたのに、実際に力を失うとなると悲しくて仕方がないのだ。

 そんなサリタを抱きしめ、エリアスは頬に額に首筋に耳にキスを落としていく。


「そうだよ、先代聖女様。次、あなたは勇者の妻になるんだから」

「……妻」

「勇者の妻はすごく大変だよ。ラグナベルデの勇者って、奥さんを誰よりも大切に思っているから、『瘴気の澱』を祓うのもそこそこに、毎日理由をつけて家にいたがると思うんだ。それを叩き出さなくちゃいけないんだよ。大変だよねぇ」

「……そうね」

「それに、聖職者や権力者が寄ってくるからそれをあしらわなくちゃいけないし、もちろん神官にも毅然とした態度で接しなきゃいけない。副神官長なんか先代聖女を愛人にしたいって思っている変態だから、彼には特別に気をつけなくちゃいけない。愛想を振りまいちゃダメなんだからね」


 エリアスが至って大真面目な顔をしてそんなことを言うものだから、サリタは笑うしかない。


「一番危険なのは、俺なんだけど」

「……自覚はあるのね」

「まぁ、一応はね。サリタ様が俺を受け入れてくれるのが先か、俺の我慢が限界を迎えてサリタ様を監禁するのが先か、ってところだったもん」


 普通に監禁するだけではないだろう、とサリタは想像してゾッとする。エドガルドもブロテ侯爵も思いつかなかったようなことをされるに違いない、と。


「ありがとう、サリタ様」

「どう、いたしまして」

「もう逃げないでね。俺の前からいなくならないで。お願いだから」


 そのお願いを聞かないと国が滅びそうな気配すら漂っている。それを厭わない、危険な男を勇者に選んだ聖母神の考えも恐ろしいものだ。


「……大丈夫よ、たぶん」

「安易に約束しないあたり、サリタ様だねぇ。そういうところも好きだよ」


 エリアスは何度もサリタにキスをしたあと、微笑んだ。


「明日か明後日には新しい聖女への神託が降りるかな。挙式は新しい聖女のお披露目が終わってからのほうがいいよね。婚礼衣装を作る時間も必要だから、もう少しあとでもいいかなぁ」

「でも、婚礼衣装なら」

「ベルトランのがあるって? あれも似合っていたけどさ、やっぱりダメだよ。俺だけのものを着てくれないと」


 再婚ゆえに挙式はしなくても構わないと思っていたサリタだが、エリアスは式を挙げたくて仕方がないようだ。そういうものなのだろうとサリタは諦める。この際、エリアスのやりたいようにやってもらおうと。


「ねぇ、サリタ様」

「うん?」

「俺、正直に言うと、サリタ様とこんなに早く結婚できるとは思っていなかったから、あんまり結婚生活に夢は見ていなかったんだよね」

「へえ」


 じゃあ昨日受け入れなければ逃げ切れたかもしれない、とサリタは一瞬だけ考える。おそらく、エリアスは晩年に結婚する予定だったのだろう。そういう覚悟をしていたのかもしれない。


「でも、せっかくこんな若いときに結婚できるんだから、ちょっとは夢を見ていいと思うんだ、俺」

「そう?」

「うん。で、子どもは何人欲しい?」


 いつの間にか、サリタはエリアスに組み敷かれている。両腕がまとめて押さえつけられている。眼前に迫る赤銅色の瞳が欲を帯びている。


「五人? 十人? 二十人? 俺、頑張るね!」

「待っ、待ってエリアス。そんなには無理。無理だから」

「ふふ、楽しみだねぇ。俺はサリタ様そっくりの女の子がいいなぁ」

「聞いて、私の話を聞いて! 聞け、コラ! エリアス!」


 エリアスにキスの雨を降らされ、それを鬱陶しがりながら、サリタは考える。

 エリアスが言うことを聞いてくれるようになるまで、やはり逃げ続けるほうがいいのかもしれない、と。







読了ありがとうございました。


(年齢制限アリ版、番外編などは希望がありましたら……)


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【3/4完結】逃げても逃げても勇者が追ってきます!~先代聖女は溺愛包囲網から逃走中~ 織田千咲 @chisaki_ash

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