第33話「一瞬たりとも我慢したくない」

 夜、ドロレスは客室に戻り、青年たちは帰っていった。広い居室の大きなソファに腰掛け、サリタは葡萄酒のグラスを揺らす。


「……あぁ、美味しい」

「オルキデアの葡萄酒は国内随一だからね」


 エリアスは自分が作ったのだと言わんばかりに胸を張る。彼が故郷を自慢するのを聞くのは、初めてだ。サリタは笑う。テーブルの上で飾られた二十八本の薔薇を見ながら、笑う。


「葡萄酒ならたくさん箱の中にあったわよ。持ち帰るならお好きにどうぞ」

「いいよ。俺はここに帰れば誰かのご相伴にあずかることができるから」

「そう? じゃあ、フィデルのお土産にしておこうかしら」


 副神官長の名前が出てきたため、エリアスは一瞬ムッとする。相変わらず、仲は悪いのだ。


「サリタ様は俺よりフィデルのほうが好みなの?」

「まさか」


 サリタは笑って焼き菓子をつまむ。香辛料を入れた焼き菓子は葡萄酒によく合う。

 フィデルは細すぎる、性格が合わない、全体的に好みじゃない、とサリタは嘆く。会えば憎まれ口を叩かれるため、なるべく接触しないようにしているのだ。


「サリタ様の好みの相手って、エドガルドとかレグロなんだよねぇ? 年上好きなの?」

「そう。だから、エリアスは全然好みじゃないの」

「そっか。じゃあ、三十年後の俺は? 好み?」


 サリタはじぃっとエリアスを見つめながら、彼の三十年後を想像する。皺が増えて張りがなくなった肌、白いものが混じり始めた髪、厚めの胸板――めちゃくちゃ好みである。


「あら、意外と悪くないわね」

「ほんと!?」

「うわぁ、割と悪くない……どうしよう」

「本当に!? 俺、三十年後に結婚できるって期待してもいい!?」


 エリアスは本気のようだ。結婚できるのなら三十年後でも構わないらしい。気の長い勇者だ。おそらく、サリタがエリアス以外の男と再婚したとしても、彼ならまた待つのだろう。

 それを残酷だと思うくらいには、サリタはエリアスに情を抱いている。ここ数ヶ月で、サリタ自身も驚くほどの心境の変化があった。


「……いや、ダメだ。期待しないでおくよ。俺が死んだら大変なことになる」

「大変なこと?」

「うん。俺が死んだらすぐに弔わないと、ものすごい『瘴気の澱』になってしまう」

「どういうこと?」

「『瘴気の澱』は、死んだ人間の『生きたい』という願いや希望から生まれるんだよ。たぶんね」


 エリアスはこともなげに話す。

 マルコスに殺された娘には生への執着がなかった。「生きていても仕方がない」という言葉を信じるのであれば、エドガルドも同じだ。今際のきわの無念さから『瘴気の澱』が発生するのではないか、とエリアスは考えたのだ。


「だから、いつかサリタ様と結婚できるなんて期待していると、国を滅ぼすほどの『瘴気の澱』が発生してしまうかも」

「……なるほど」

「不慮の事故には気をつけないといけないねぇ、俺。うっかり死んでしまったら大変だ」

「大丈夫。エリアスは殺しても死なないわよ」

「いや、死ぬでしょ。殺したら死ぬってば。俺、不死身じゃないんだから」


 エリアスは「三十年後かぁ」と寂しそうに呟く。あと三十年、サリタを愛し続けることは容易ではないのかもしれない。来年のこともわからないのだから、気の遠くなるような年月に期待するのは難しいことなのだ。


「でもなー、十年以上片想いで、またさらに三十年片想いに苦しまないといけないのかぁ。うーん。二十年くらいにならないかな? いや、十五年? 十年? ねぇ、サリタ様。あと何年待てばいい?」

「そうねぇ、何年なら待てそう?」


 エリアスの空いたグラスに葡萄酒を注いだあと、サリタはすとんと彼の隣に座る。そうして、戸惑うエリアスを見上げる。


「どれくらいなら、我慢できる?」

「一瞬たりとも我慢したくない」


 即答である。サリタは苦笑する。


「今すぐにでも結婚したい。今すぐにでも抱きしめたい。今すぐにでも……今すぐにでも、あなたを」

「エリアス」


 びくりと肩を震わせるエリアスを見上げ、サリタはそっとその頬に手のひらを当てる。真っ赤な頬は、想像した以上に熱を持っている。


「いつも追いかけてくるくせに、私が立ち止まったり振り向いたりしたら、こんなふうになるんだ。へえー」

「サリタ様、やめてください。俺、そんなふうに触れられたら、俺、ダメです、期待してしま」


 初めて触れた唇は、想像通り熱く柔らかいものだ。ほんのり葡萄の味がする。

 エリアスはそれでも、サリタを抱きしめはしない。簡単に理性を飛ばしたりはしない。大事にされてきたのだと、サリタは知っている。必死で追いかけてくるくせに、最後の一線は越えてこない人だと、知っている。


「サリ、タ、さま」

「何百回も聞いてきたけれど……あなたに言うのは初めてね」

「いやいやいやいや、ダメです、俺が言う、俺が言います! 言わせてください!」


 エリアスは慌ててソファから飛び降りて、床に跪く。両手でしっかりとサリタの両手を包み込んだまま、赤銅色の瞳で見上げてくる。


「……サリタ様。あなたのことが好きです。聖母神にあなただけを一生愛すると誓います。俺と、結婚してください」


 長い長い追いかけっこの終わりは、あっけないものだ。意地を張らず、彼の歳を取った姿を想像し、その隣に立っていたいかどうかを心に尋ねる。それだけだった。

 サリタは「私でよければ」と笑い、再度唇を押し当てた。エリアスはぎゅうぎゅうとサリタを抱きしめ、大粒の涙を零しながら泣いた。「鬱陶しいなぁ」とサリタから引き剥がされても、エリアスはなかなか泣き止まなかった。

 そんな勇者に困惑の視線を向けながらも、サリタは笑っているのだった。




「で、記憶を失ったというのは嘘なんだよね?」

「……ふふふ」

「笑って誤魔化さないで。俺から逃げられるわけないのに、馬鹿だよねぇ、ほんと」


 サリタは愚かな行為だったと自認しているものの、エリアスから言われると反抗もしたくなるものだ。


「すみませーん、反省していまーす」

「まぁ、別にいいけど……別にいいけどさぁ。お詫びにキスして」

「へえ。キスだけで我慢できる?」

「……できない。俺も馬鹿だから」


 見慣れた瞳が欲を孕む。ぞくりと背中が粟立ち、触れられた箇所が熱を帯びる。サリタはようやく、十年以上拗らせ続けた片想いを受け入れる覚悟をするのだった。



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