マルチトラック
マツモトキヨシ
マルチトラック
会社まで通勤するのはつくづく非効率的だ。リモートワークが始まってからの数ヶ月間でそれを思い知った。かつては満員電車に揺られ、駅の構内で人ごみに揉まれ、挙げ句仕事を終えて家へ帰るころにはもう夜中になっていて何もできないのが当たり前だった。それがリモートワークによって終業後すぐに自分の時間を持てるようになったのだから、これはもう画期的なことである。
とはいえ始めの頃は仕事を家に持ち帰るのに抵抗がないでもなかった。会社から貸与されたPCの置き場に困ったし、Web会議でもしようものなら散らかった部屋の様子が丸見えになり、それがなんとも気恥ずかしかった。私は週末を丸々潰して部屋の掃除をすることで対処したが、同僚たちの中には未だに似たような理由を挙げてリモートワークを拒否する者が少なくない。こればかりは日ごろの行いであろう。
中でも断固として拒絶する姿勢を見せたのがE(仮名)という男で、これは少し意外な気がした。というのもEは社内でも一番の年下で、独り身の上賃料の安い郊外に住んでいる。都心まで出社する必要がなくなるのは願ったり叶ったりではないかと思うのだが、本人としてはそうでもないらしい。
当初は皆そのことをいぶかしみながらも看過していた。が、そのうち社内で「リモートに移行できる者がいつまでも出社しているのはけしからん」という風潮が高まってきた。Eは周囲の攻勢をのらりくらりとかわし続けたが、打診を蹴ることを内心負担に感じてもいたようだ。ある日彼はぽつりとこんな言葉を漏らした。
「家にいたくない」
社内チャットでリモートワークが話題に上った時に出た時のことである。どういう意味か尋ねると、「今住んでるとこ気味悪いんですよ」と言う。
「えっ何怖い話?」これは私の発言。
「怖いっちゃあ怖いです。霊感とかじゃなくて…治安の問題?」
「治安悪い系?」
「まあ」少し間があった。「変な女がマンションうろついてるっぽくて」
なんでも、だ。このEは時折「なんでそんなものを」というような忘れ物をして朝から家まで取りに帰ることがあるのだが、二月ほど前にもそういう日があった。行きの電車で忘れ物に気づき、マンションの自室へとんぼ返りしたのが昼の十時のこと。資料を探し出して部屋を出ようとしたところで、インターホンが鳴った。
学生向け賃貸に毛が生えたような安アパートなので、インターホンはすぐ外の廊下についている。玄関の戸を開ける前にドアスコープを覗いたという。宅配便なら印鑑の用意が要るから、とかそんな理由だそうだ。
廊下に立っていたのは見知らぬ女だった。
「見た目はそこまで不気味じゃなかったです。確かに髪は長かったですけど」
「で、ちょっと警戒して。なんでかっていうと最近家に帰ると、家具とかの配置が動いてる気がする時があるんですよ。何も盗られてはないんで、気のせいだといいんですけど」
「だから一旦ドアにカギをかけたんです。『あ、今鍵かけたな』って相手にバレないように、音を立てずゆっくり」
「その時はそれができる気がしたんですけどね。最後の最後に『カチッ』って音が鳴っちゃいました。そうしたら女が外でドアノブをガチャガチャ! って回し始めて」
「ヤバいね」これは私だが文字入力したわけではない。そういうスタンプだ。
「ヤバいですよね。僕もそう思って声出さずにじっとしてました。五分ぐらいガチャガチャされた上、よく聞こえないけどずっと何か言ってて。そのうち静かになったんで外見たらいなくなってました。部屋出る時なんか本当におっかなびっくりですよ」
「あんまり怖かったんで大家さんに後で相談しました。そしたら軽い感じで『あーその人たまに来るんだよね。誰かの家を訪ねて来てるんだけど、たまに人の家に間違えて入ろうとしちゃうみたい。まあ平日の昼間にしか来ないから勘弁してあげて。だって貴方その時間会社でしょ?』って…」
「ダメじゃん」
「ダメみたいです」これもスタンプだった。
以来私はEのリモートワークについてとやかく言うのをやめた。けれど会社としてはそんな細かな事情をいちいち汲んでいては仕事が回らないのである。それまで頑なだったEにもとうとう辞令が下って、仕事との兼ね合いを見て段階的にリモートワークに移行することになった。
私は事の成り行きを面白がっていたが、一方でEに同情してもいた。だからEのリモートワーク初日にWeb会議の予定を入れていたのは本当にたまたまで、抱えていた案件上の自然な成り行きと言うやつだ。面白半分にEを観察してやろうと思ったわけではない。そういう心構えでいてなお、この世の終わりのような顔をしたEが画面に現れた時には笑ってしまった。
「ビビりすぎだろう」
「おはようございます」心なし声にまで力がない。「なんでそんなに笑ってるんですか」
「いや、悪い。今のところどう? 何か変わったこと起きた?」
私の言葉にEは周囲を見渡して「何も起きてないです」と言った。背後には古びたマンションの壁と、壁にかかった時計が映っている。左側後方のドアは閉め切られていた。少なくとも映っている範囲は綺麗なものだ。今日のために片付けたのかもしれない。
「ただちょっと変な感じがしますね。寒気がするような」そう言うとEは二の腕をさすってみせた。
「なんだ。やっぱり霊感があるとか言う気か? 不動産屋に教えられてないだけで事故物件とかだったりするんじゃないか」
Eが「そういややけに家賃が安いような……」と言って笑うのと一緒に、何やら通話を通して左側から物音が聞こえた。何か重たいものを動かすような低い音だが、それだけでは何の音だとも言えない。怪訝に思ったが、イヤホンをつけているせいだろうか、肝心のEは気づいた様子がなかった。
伝えようかと思ったが、思い直した。これでは過敏になっているのは私の方だ。私はいつもしているようにブリーフィングから会議を始めた。
しかしその後も物音は続いた。床が軋む音、扉を開け閉めする音。いずれもEのすぐそばで鳴っているように思える。画面の向こうのEは私の話に熱心に耳を傾けているようだったが、これでは私の方が気になって仕方がない。
私は思いきってEに尋ねることにした。
「なあ、部屋の中で物音がしないか」
「ちょっと。いきなり何言いだすんですか」
本当の事なんだけどな。私はEにどう伝えたものか迷った。Eは私の言葉に怯えた目で部屋の中を見回していたが、そのうち「あ」と言って立ち上がった。そして画面の外へ歩いて行ってしまった。
「どこ行くんだ」
画面右から音がして、Eが窓を開けたことが分かった。何やら声がするので、人と話しているらしい。仕方なく画面を前に待っていると、いつの間にか左端に映っているドアがわずかに開いているのが目についた。確か始めは閉じていたと思うが。
そのうちにEがカメラの前に戻ってきた。手には何か黒いフワフワした物を抱えていて、それを私に見せてくれようとしているのはわかるがいまいちどこがどうなっているのかわからない。被写体がカメラに近すぎるのだ。
「ベランダにコイツがいました」
「全然見えないけどなんなの、それ」
「近所をよくうろついてる野良猫です。人懐っこいんですよ」そう言う間に黒っぽい毛玉はEの腕の中をするりと抜け出て、画面の外へと去って行った。「あっ」私はついぞその顔を拝めずじまいだ。
「あっそう」
私が聞いたのは室内を行き来する音だったように思うが。ひとまずこの場は納得したことにして、ブリーフィングを進めることにした。
それにしても。私は話しながら画面左のドアに目をやった。ドアは先ほどと比べてまた少しだけ幅が広く開いていた。気になったのは部屋の間取りだ。
先ほど開けた時の音からして、画面の右方向が窓だろう。その前に物音がした左方向は玄関か。となると、画面に映ったドアは二部屋目の居間に続いていることになる。安アパートだとばかり思っていたが、Eの住まいはそれなりに広いようだった。
気づいたことはそれだけではない。隣の部屋のドアが開いていくにつれて、かすかに何かが聞こえてきていた。
「……音楽か、これ?」
「何か言いました?」
「奥の部屋から何か聞こえるんだけど……Eさ、何か私に隠してない?」
Eは奥の扉を振り返って、「そんなことないですよ」とか「嫌だな」とか口ごもりながら繰り返した。その間にも背後のドアからは低い抑揚のない旋律が響いて来て、中には先ほど聞いたのと似た物音らしきものも混じっていた。試しに自分のつけているイヤホンを外してみたが、私の部屋で鳴っているのでないことは確かだった。
「ゲームとかつけてない?」
「してないです。誓って」
そう言うEの目が泳いでいた。私も相手を疑いたくはない。別に今の今までゲームをしていたからと言って、それを咎めたてる資格もないのだが。ゲームの音声が奥の部屋から漏れていて、それに私が過剰に反応していたのだとしたら、これほど馬鹿馬鹿しいこともあるまい。
「まあ……してないならいいけど」
相手の手前そうはいったものの、私の内心は複雑だった。そういえば、リモートワークを拒否していた件はどうだろう。仮にEがゲーマーだとして、それで説明がつかないだろうか。「リモートワークに移行したら最後、ゲームがしたいという誘惑に屈してしまう」と思って拒否していた? ……流石に邪推が過ぎるか。
「本当ですからね」
言い訳がましく付け加えるE。その時、部屋のインターホンが鳴った。Eはほんの少し怯んだ様子だった。この間の出来事を思い出したのだろう。それは私にしても同じことだった。
「……どうする。出るのか?」
「出てみます」
緊張した面持ちで答えるE。席を立つと、画面外へと歩き去って行った。私は「気を付けて」と小声で声をかけたが、Eに聞こえていたかどうかは定かでない。Eが去った後、ふと目に留まった壁掛け時計は十時を過ぎたあたりで針が止まっていた。
じきに部屋の中に鍵のかかったドアのノブを何度も回す音がし始めた。Eは気配を殺しているのか、奥の部屋から聞こえる音楽の他に物音はしない。私も声は出さない。画面の向こうで何かが起きていた。ドアノブを回す音は執拗に続いた。やがて鍵が回り、ドアが開く音がした。
床を踏みしだく音がこちらへ近づいてきた。私は壁にかかった時計の針が、十時を回った辺りで痙攣するように行ったり来たりしているのを見た。
「E?」
小声で呼んでみたものの返事はない。画面の左側からすらりと長い女の腰から下が現れて、奇妙にゆったりとした足取りでカメラの前を横切って行った。ベージュ色をした丈の長いスカートで、見間違えでなければ突き立つような黒いピンヒールがその下にあった。足元を黒いフサフサとした毛並みの動物が追い抜いていったが、果たしてこれは何の生き物なのか。
奥の間の物音は続いている。音楽もそうだ。女はまだそこにいて、恐らくはPCの背面をあの奇妙な歩き方で歩いている。コツ、コツというヒールの音と、甲高い床の軋みでそれがわかる。物音も音楽も止めてしまえるものなら止めてしまいたいが、私は部屋の中にいない。いるのはEだ。Eはどこにいるんだ?
「E?」
私は小声で呼びかけた。しばしの静寂。そして大きな音を立てて画面左のドアが閉まった。振動で壁にかかった時計が傾いて、狂ったように振れていた針が止まった。画面の前にEが戻ってきた。イヤホンを片方だけ耳に差し込むと、興奮した面持ちで言った。
「……見ました? あの女」
「見た。……そこにいないのか?」いない、とEは言った。それでは扉の奥か。それともどこか物陰に隠れているのか。「どうなってるんだ。お前が中に入れたのか」
「さあ。気が付いたら鍵が開いてて……」
「わかった。今すぐ警察に行くんだ。まだ部屋の中にいるぞ」
Eはきっと緊張した顔になり、慌てて立ち上がった。弾みでPCから引き抜かれたイヤホンのコードが顎の下にだらりと垂れた。
「わかりました。ちょっと部屋から出ます」
そして玄関の方へ向きを変え、歩き出すのと同時に前のめりに倒れた。体が床にぶつかる時どんっ、という鈍い音がした。焦るあまり何かにつまづいて転んだのかと思い、起き上がるのを少し待った。起き上がらなかった。Eのうつ伏せになった背中がカメラの前を占拠していて、ピクリとも動こうとしなかった。
「おい! 大丈夫か!?」
Eは返事をしない。代わりにその体が寝返りを打つようにごろりと転がって、こちらへと押し寄せてきた。EにぶつかられたPCがバランスを崩して天井方向を向くと、画面の隅を女が悠然と歩き過ぎていった。見下ろす目がはっきりとカメラを捉えていた。イヤホンが外れているから、私の声はそのまま向こうに届いている。
画面の中で天井が一回りした。ひっくり返ったPCが机の裾をずり落ちて床に転がったようだ。九十度近く傾いたカメラの前を、黒いふさふさとした毛並みが横切って行った。生き物がいなくなった後に映り込んだ窓の外で、ベランダに四、五人の人影が横並びに立って部屋の中を眺めていた。私は悲鳴を上げた。
座っていた椅子の上を飛びのいて、声を限りに叫んだ。一瞬喉が詰まって声が出なくなると、すぐ壁に飛びついて部屋の中を見渡した。何の変わりもなかった。PCの画面の前だけが嫌に片付いていて、床の上にはゴミでいっぱいのポリ袋だのが捨て置かれていた。窓から差し込む白っぽい昼の陽光が部屋の中に影を落としている。
Eの部屋だけだ。この部屋には奴らはいない。そう自分に言い聞かせても、心臓が早鐘を打って収まらなかった。痛む胸を抑えながらポケットから携帯を取り出したが、どこへ連絡したものかわからない。結局出社している上司に電話をかけた。
「どうかしたのか」
上司が呑気そうな声を出した。私はやっとのことで言葉を絞り出した。声を限りに叫んだ後で声量のコントロールが難しかった。
「Eが……Eが倒れました。不審者、いやストーカー? が今しがた部屋に押し入って……私、私の目の前で……いや、目の前と言ってもそれはリモートで……」
「倒れた? Eが? ついさっき会社を出たばかりだぞ」
「えあ? それはどういう……Eはリモートワークで……」上司の言っていることが理解できなかった。
「大丈夫か? 話が噛み合わないな。Eならリモートワークなのを忘れて今朝出社してきたらしい。今頃家に帰ってるところだ。それより倒れたって言うのは……」
Eは家にいるはずだ。今朝からずっと。そうでないと自分の見たものに説明がつかない。私は上司との会話を切り上げ、Eに電話をかけた。果たしてEは電話に出た。
「お疲れ様です。会議すっぽかしちゃってすいません」
「今どこだ」Eは平謝りだが、今はそれどころではない。聞けば電車の乗り換えの最中だと言う。「最寄はB駅だよな? 私もそこに行く」
私は電話を切って部屋を飛び出した。マンションのすぐ下でタクシーを捕まえてまっすぐB駅に向かう。悪い夢でも見ているかのようだ。Eの部屋は今どうなっているのか? それを確認しないことには居ても立ってもいられなかった。
Eは私の指示した通り駅前にいた。私の顔を見るなり、先ほどまで顔を合わせていたのが嘘のように謝って来るのは気味が悪かった。私は女が彼の部屋にいることを説明した。その際WebカメラにEが現れた事は言わずにおいた。
「警察を呼びましょう」
話を聞いたEが言った。ひどく動揺しているのが顔に現れている。
「そうした方が良いと思うけど……その前に一つ確認させて」私は彼にタクシーに乗るように促した。
Eの部屋のあるアパートでタクシーを降りた。部屋は二階の中部屋だった。ドアには鍵がかかっている。一体今中はどうなっているのか。鍵を開ける段になって最後に見た部屋の様子が思い浮かび、身がすくむ思いがした。
ドアを開けた先は居間まで一直線の短い廊下になっていた。中は一見して無人だった。ベランダにも人の姿はない。私とEは用心しながら踏み込んでいった。
「誰もいない……ですよね?」
洗面所やトイレへ続く扉を開けながらEが言った。
「だと思う。奥の部屋は見た?」
廊下に目を落とすが、土足のまま踏み入った跡はどこにも見当たらない。居間へ入って先ほどEが倒れていたあたりを見ても、やはり何も見つからなかった。PCは中央にある低いテーブルの下に画面を伏せて置かれている。どうもおかしい。私が見たのは本当にこの部屋だったのだろうか。
「奥の部屋ってどこのことですか? ここは一部屋だけです」
Eの言葉に私は顔を上げた。目の前にちょうどPCのカメラが映していた壁の実物があった。古びて黄色くなったマンションの壁に、傾いた時計がかかっている。時刻は十時過ぎで止まっていた。映像で見た時のままだ。
それではあの奥の部屋へ続くドアは? 視線を落とすとそこにはドアの代わりに姿見があった。鏡の中に呆然と立ち尽くす私とEが映っている。もちろん奥の部屋への出入り口などありはしない。
私はEの方を振り返って言った。
「この部屋引っ越せないの?」
「ええ? 無理ですよ」
「そうか……じゃあせめてリモートワークはよした方が良いよ。絶対に」
Eは私に言われた通り、未だにリモートワークを拒否している。
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