綾子の家にいる、綾子の愛する人を食べなければ死んでしまう生き物の話

sato

第1話 綾子の家にいる、綾子の愛する人を食べなければ死んでしまう生き物の話

綾子の家には、綾子の愛する者を食べなければ死んでしまう生き物がいる。


その生き物は、綾子の母方の一族についてくる存在だった。


母は自分についていたその生き物を、綾子が生まれた年に死なせた。


綾子を食べさせるか、生き物を餓死させるか。母は果てなく迷った末に、綾子を選んだ。


その母は綾子の生き物に食われて、1年前に死んだ。


父親は2年前。


弟は3年前。


綾子は今、生き物とだけ、一緒に暮らしている。




生き物と綾子の生活は静かだ。


朝、目を覚ました綾子は、ベッドの上で丸くなっている生き物を起こさないよう気をつけながら起き上がる。部屋を出て、洗面所で顔を洗い、洗濯機を回す。


クイックルワイパーを手に、リビングを軽く歩き回り、キッチンまでたどり着くと、自分の朝食の準備を始める。


レシピはいつも同じ。目玉焼き、ベーコン、そして二枚のトースト。


食べ物を前にすると、綾子はいつも生き物の食事する姿を思い出す。




「誰か世話を焼いてくれる親戚はいないのかね」


1年前、母を食べながら生き物は言った。


綾子は首を横に振った。こんな生き物がついているものだから、母方の一族はほぼ全滅しているし、父方の一族とは絶縁状態だった。


生き物は綾子の母の右腕を引きちぎって口に運び、咀嚼しながら、静かに語った。


「なあ、綾子。お前はまだ、大人に世話してもらう年だよ。学校に行って、勉強して、いい大学に行く。大学に行きたくないなら、就職したって良いさ。でもとにかく、まだこれからだ。一人で生きるには、幼くて心配だ」


綾子は母の血で汚れた床を拭きながら言った。


「大丈夫よ。また、保険金が入るから」


「お金だけの問題じゃないんだよ。常識の問題さ。子供は大人に世話してもらう権利があるんだ。子供は子供らしい生活をする。そうして大人になったら、人を愛して暮らす。それが幸福というものだ」


綾子は母の骨の砕ける音に集中して、聞こえないフリをした。


生き物は綾子の母の頭を噛み砕くのに苦戦していた。


父の時も、弟の時もそうだったから、今度は手伝ってやろうかと、綾子は思った。


茹でて柔らかくしてやるとか、ハンマーで砕いてやるとか、やりようはいくらでもありそうだった。




卵をキッチンの角に叩きつけて割りながら、綾子は今の生活に思いを馳せる。


生き物はああ言ったが、今の綾子は幸福だった。自分のことは自分でして、生き物と一緒に生きている今が。


だが、この生活に問題がないわけでもないのは事実だ。


「おはよう」


生き物がキッチンにのっそり入ってきた。綾子に体を擦りつけてから、そのまま床で丸くなる。


最近の生き物は、以前よりずっと早く起きる。


腹が減っているからだ。


一年前に綾子の母を食べてから、生き物はずっとなにも食べていない。


綾子の愛した家族はみな食べてしまったし、綾子は外の人間を積極的に愛そうとしなかった。


生き物は綾子が愛する人間しか食べることしかできない。食べなければ餓死するだけだ。


綾子の幸福な日常の中で、生き物は穏やかに死につつあった。


綾子は一度だけ、何か別のモノを食べて生きられないかと生き物に尋ねたことがある。


生き物は静かに答えた。


「無理だね。我々は、こういう生き物なんだ」


綾子は床に丸まっている生き物を見下ろし、痩せこけた腹が呼吸に合わせて上下するのを見た。


生き物は、綾子に何も無理強いしない。母についていて、死んでいった生き物もそうだった。


母は、自分の生き物に、綾子を食べさせることはできないと涙を流しながら伝えた。


母の生き物は、ただ、そうか、と頷き、静かに死んでいった。


綾子はよく焼けたベーコンと目玉焼きを、大きめの皿に移した。


ちょうどよくトーストも焼き上がったので、まとめてテーブルに運ぶ。


生き物は綾子についてきて、ひょいっとテーブルに上がったが、また丸まって、くうくうと寝息のような音を立て始めた。


綾子は生き物の腹に浮いたあばら骨と、穏やかな表情を見つめながら食事をした。


すべてを綺麗に食べ終わると、綾子は言った。


「旅に出ましょう」


生き物はちらりと目を細く開けた。


「……夏休みはまだ先だろう?」


「学校はやめるわ。ううん。足がつくと困るから、誰にも、何も言わず、今日、黙ってここを離れましょう」


生き物は大きなあくびをしてから、じっと綾子を見つめた。


綾子は空の皿を手に取り、キッチンで洗おうとして、思い直した。汚れた皿がテーブルに残ったままの方が、突然失踪した感じが出ると思ったからだ。


「まずは事件を疑われないだけの現金を手に、日本のあちこちを回りましょう。それから時期を見て、海外へ渡る」


綾子は自室へと向かった。生き物は黙ってついてきた。生き物の探る視線を感じたまま、綾子は小さなリュックを手に取り、財布だけを放り込んだ。スマートフォンはゴミ箱へ捨てた。


「旅をしながら、たくさんの人と出会いましょう。そうしたらきっと、私でも愛せる人に出会えるかも。そしてあなたはその人を食べて、生きるの」


綾子はできるだけ大人に見える服に着替えると、生き物を振り向いた。


生き物は、ドアの前に立っていた。諦めにも似た色が目に浮かんでいた。


「お前も、お前の母と同じようにするべきだったんだ」


生き物は、綾子に向かってゆるく首を振った。


「愛する者と生きる日々を選ぶべきだったんだ。我々ではなく」


綾子は平然と言い返した。


「私が本当に愛しているのは、あなただけ」


生き物がこのまま死ぬのなら、自分も死のうと、綾子はずっと思っていた。


旅に出たとて、実際のところ、この生き物以上に愛せる存在には会えるとも、綾子は思っていない。


もう一度くらい、この愛しい生き物が、生き生きと話し、食事をし、自分を心配してくれる瞬間が見れたら嬉しいが、難しいだろうと綾子は自分でわかっている。




(けれどもしかしたら、誰かを愛せるかもしれない)




一人くらい、この生き物に丁寧に食べられている姿が見たくて、愛しくなるような相手が現れるかもしれない。


家族たちのように、綾子にどこか似た相手が。


「どこか行きたい場所ある?」


綾子は微笑んで尋ねた。

生き物は綾子をしばらく黙って見つめた。


やがて小さく、君が行きたい場所、と言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

綾子の家にいる、綾子の愛する人を食べなければ死んでしまう生き物の話 sato @sato1212

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ