第48話 生まれてきて残念で賞
玄関のチャイムが鳴った。
久々の事だった。
何も注文してないので宅配ではないと思った。
新聞か宗教の勧誘かと、瀬奈は知らんぷりして寝ていると、ドアノブがガチャガチャと音を立てて動きだした。
瀬奈はゾッとして身構えた。
音が鳴り止むと、おそるおそる覗き穴を見にいった。
誰もいなかった。
もう一度目を凝らすとレンズの隅に、黒い影が見えた。
瀬奈は立ちすくみ、唾を呑んだ。
ドアを開けると、亮太が捨てられた猫のように丸くなり、しゃがみこんでいた。
一ヶ月ぶりに見た彼の顔は、とても乾燥していた。
つるつるの肌はパサついて白い粉を吹き、髭も生え、刻まれたしわが妙に目立った。
「どうぞ、入って」
瀬奈は部屋に入れた。
お茶を出すなど歓迎する態度は見せなかった。
亮太は床に正座した。
二人で住んでいた頃、正座した姿なんて見た事がなかった。
亮太の面影が根こそぎ消えたこの部屋に、彼がいるのは違和感があった。
瀬奈は、亮太がなにか言い出すのを待った。
亮太はしばらく目を泳がせていたが、足が痺れたようで、あぐらに組み替えると、ようやく口を開いた。
「あのさ、俺の為に借金返すって言ってくれてたじゃん?
そのお金ってどうしたの?」
「私の手元だけど」
「それって宣言した通りにもらえないの?」
瀬奈は、ただただ笑いがこみ上げてきた。
謝罪もなければ、ヨリを戻したい、でもなく、この場に及んでまで、直球で金を欲求出来る事が、おかしくて仕方がなかった。
「俺だってさ、お前のその言葉を信じていたし、そのつもりで動いてたからさ。申し訳ないとは思うけど、いきなり投げ出されても困るんだよね」
亮太は開き直っているようだった。
パーマをかけた黒髪もボサボサして、目も充血し、少しだけ頬がこけていた。
オールした朝帰りのような、だらしがない汚さだった。
今の亮太は、ロクに働いてないのを察した。
おそらく音楽もやっていなさそうに見えた。
プライドの高い亮太の事だ。
借金の事も、瀬奈に捨てられた事だって、きっと仲間に話せていないはずだ。
「悪いけど、お金は渡せない。ごめんね」
瀬奈は静かに言った。
「はあ?ざけんなよ」
亮太は地団駄を踏むように、床を拳で叩いた。
殺気すら感じられた。
そんな亮太を見るのが、悲しかった。
「私ね、今お腹の中に赤ちゃんがいるの。
ねぇ、りょーちゃん。父親はあんただよ」
亮太は手を止め、血走った目玉を丸くした。
信じられない、といった顔だった。
「大丈夫、私なんとか育てるから。
あんたに父親の役目は強要しない。
だからお金だけはごめんね。私のものにさせて」
「それ堕ろせないの?無理してお前が育てることないだろ」
「そんな事出来ないよ」
瀬奈はまっすぐ亮太の目を見据えた。
「マジで俺、父親やる気ないよ?」
「だからいいって。でも、一つだけお願いがあるんだけど」
「なに?」
亮太は気まずそうに目をそらした。
「名前だけ、つけてよ。お願い。
生まれてきてくれる子供を、私は一生、あんたの分まで大事にするから」
亮太だって、自分が父親になってしまった事、それを放棄する事はショックだろう、と思った。
一つでも、父親らしい事をさせてあげたい。
生まれてくる子にも、父親がいた証として。
そして自分が愛した証に、名付けて欲しかった。
亮太は頭を掻きむしった。
黒い髪から白いフケが飛んでいた。
その面倒くさそうな顔を見て、瀬奈は惨めさを噛みしめた。
「クズみたいな私たちが愛し合った、その結晶に、りょーちゃんなら、なんて名付けたい?」
「うーん。生まれてきて、、残念で賞。かな?」
瀬奈は息を飲んだ。
吸った酸素が鉛のように重く、呼吸を辞めてしまいたくなるくらいに苦しくなった。
亮太は、けたたましく笑った。
体の力が抜け、床の上で笑い転げる彼の姿は、死にかけのゴキブリのように見えた。
生まれてきて残念なのは、お前だ。
瀬奈に染みついた、亮太への愛おしさの残り香が完全に消えた。
机の上には、ゆりが買った東洋美人があった。
一升瓶の中身は、半分ほど残っている。
そっと手を伸ばした。
亮太は寝転んだままで笑いが止まらない。
瀬奈は一升瓶を両手で掴むと、彼の頭を目がけ一気に振り下ろした。
鈍い音と共に、亮太は静かになった。
ほんの一瞬だった。
瓶底の縁の角が、彼のコメカミを刺すようにぶつかっていた。
その衝撃と瓶の重さで、瀬奈は前かがみにバランスを崩した。
握りしめた一升瓶が、ゆっくり手から逃げていく。
倒れそうになる体を起こそうとすると、ゴロンと音を立て、瓶は床に転がった。
亮太の髪の生え際には、血が滲んでいた。
瀬奈は床に座りこんだ。
呼吸は荒く、心臓は音を立てて波うった。
後悔はなかった。
力を入れすぎたせいか、お腹に痛みを感じた。
赤ちゃんを心配して手でさすっていると、身体に力が満ちていくのを感じた。
ふと、何かにささかれている気がした。
言葉ではない何かだった。
この子が、急げと言っている。
瀬奈はハッとした。
フラフラの足で立ち上がり、コートを羽織ると、ポケットに財布を突っ込んだ。
動かなくなった亮太と、床に転がる東洋美人を部屋に残し、玄関から飛びだした。
切りつけるように冷たい朝の空気が、瀬奈の皮膚を突き刺した。
それでも瀬奈の血は、燃えるように熱かった。
この子と一緒に逃げきろう。
二人なら、なんだって出来る。
どこか、私たちの事を誰も知らない街で。
生まれたての朝の光は、白く眩しかった。
それを浴びると、希望が湧いてきた。
私を待つ新しい世界も、きっと光に包まれている。
瀬奈には、そうとしか思えなかった。
生まれてきて残念で賞 満月mitsuki @miley0528
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