由花子:ディープキス
二月十四日の日曜日、バレンタインデー。
家族に渡すためのチョコレートを家に置いて、
「はい」
一樹に会って、まずはチョコレートを渡す。ポケットに入る大きさの箱。チョコレートが四粒だけ入った、バレンタイン向けのよくあるチョコレートの箱。
「義理チョコをどうも」
そう言って、興味なさそうに受け取って、一樹はその箱をコートのポケットに突っ込んだ。
「今年はクッキーが良いな」
「期待すんなよ。どうせ買うのはあのスーパーなんだから」
そんなことを言いながらも、一樹はいつもきちんとお返しをくれる。本当に、小さい頃からずっと一緒だったから、家族みたいだ。同い年だけど、きっと一樹がお兄さんなんだろうな、なんて思う。
ケンタのことは、わたしと一樹の二人だけの秘密。内緒の友達。ケンタウロスのケンタ。
わたしと一樹の二人で山に入ると、ケンタは姿を現した。そうやって、三人で小さい頃から遊んでいた。
言葉は通じないけれど、でもケンタはいつも穏やかだったから、怖くなかった。その大きな馬の姿の下半身で、暴れ回るようなことは、一度だってなかった。駆けるところだって見たことがなかった。いつも静かに、ゆっくりと動いていた。それはきっと、ケンタに比べて体の小さいわたしたちを気遣ってくれてるんだと思う。
ケンタはきっと、わたしたちと同じくらいの歳なんじゃないかと思う。すらりと筋肉のついた上半身。少年と青年の間で揺れ動く妖しげな顔立ち。じっと佇んで遠くを見ていると、まるで彫像のようだ。それでいて、笑うと不意に子供っぽく見えたりもする。
本当はケンタにもチョコレートをあげたい。きっとケンタはバレンタインなんか知らないだろうけど。
そもそもそれ以前に、馬にチョコレートをあげてはいけない。ケンタはケンタウロスで、下半身が馬だ。馬と同じようにケンタにとってもチョコレートが毒だったら、と思うとあげることはできない。
他にも、馬が食べてはいけないものはとても多い。人間が普通に食べているものでも、馬は食べられないものがある。だからこれまで、家から何か食べ物を持ってゆくようなことはしていなかった。
それでも、今年は、何かをしたいと思った。せめて今年は。
今年、わたしと一樹は高校三年生になる。高校生活最後の一年。一樹は、どこかの大学を受験して、家を出て一人暮らしをしたいのだと言う。わたしはまだ何も決めていなかった。
高校を卒業した後の自分の姿なんか、何も浮かばなかった。でも、どこかに進学するのなら、わたしだって一人暮らしをすることになるのかもしれない。ただ何もせずに家にいるわけにはいかないのだから。
そうなったら、ケンタとはもう会えなくなってしまう。ケンタと離れるのは、嫌だった。いっそ、ケンタと一緒に暮らせないだろうか、なんてことすら考えてしまう。
何かの奇跡が起きて、想いが通じ合ったりしたら良いのに。それは無理だとしても、とにかく、小さい頃からずっと一緒に遊んでいたケンタに、なんとかして気持ちを伝えたかった、ほんの少しでも。
そう考えて用意したのが、この人参だった。食べやすいように、スティック状に切って持ってきた。これでも、わたしなりに大真面目に考えた結果だった。
山の
わたしと一樹は、一歩一歩、静かに進む。ケンタもゆっくりと歩み寄ってくる。
ケンタは、わたしと一樹を交互に見て、それからにっこりと微笑んで首を傾けた。
「ケンタ、今日はケンタにこれを渡しにきたよ」
言葉が通じないのはわかっているけど、それでもわたしは話しかけずにはいられない。言葉とともに、人参が入った袋を渡す。
ケンタは、眉を寄せてそのわたしが差し出す袋を見て、それから困ったように俯いた。
袋に入っているから、わからないのかもしれない。わたしは手袋を脱いでポケットに入れると、袋を開けた。中からスティック状になった人参を一切れ出して、それを手のひらに乗せて差し出した。
ケンタは、わたしの手のひらの上の人参を見て、それからわたしの顔を見た。そして、今度は一樹の方を見る。
一樹が、どういう意図かはわからないけど、ケンタに頷いてみせた。それでもケンタは、わたしの手の上の人参を取ろうとはしなかった。眉を寄せて、一歩あとずさりすらした。
「由花子、諦めろ。多分……食べないんだ、人参」
「そっか……そうだね」
一樹の言葉に、惨めな気持ちで人参を袋に戻す。せめて言葉が通じたら良いのに。ケンタはこうやって姿を見せてくれるけど、でも、なんのために、どうして、こうして一緒にいてくれるのか、ちっともわからない。
未練がましく、人参の袋を両手で抱えてしまう。
ケンタが不意に、二歩踏み出した。そして、上半身を傾けて、その綺麗な顔を一樹に近付ける。首筋のにおいを嗅ぐようにして、それから鎖骨、胸元、と降りてゆく。
一樹は、目を見開いたまま、動きを止めていた。多分、どうして良いのかわからないのだと思う。わたしも、ケンタの突然の行動の意味がわからなかった。
はたと、ケンタの動きが止まる。そして、一樹のポケットに手を突っ込んで、そこからチョコレートの箱を出した。さっきわたしがあげたチョコレート。ラッピングされたままの。
一樹は、その箱を取り返す。
「ケンタ、それはダメだ、お前には毒かもしれない」
一樹の声は、ケンタには届かない。ケンタは、とても悲しそうな顔で一樹を見ると、一樹が取り返したチョコレートを払って叩き落とした。
「え、なんで」
慌てて、一樹が拾おうとする。その一樹の肩をケンタが掴んだ。そして、ケンタはその綺麗な顔をまた一樹に近付けて、今度は一樹にキスをした。
ふわりと、挨拶のような、軽いキス。唇が離れた瞬間、ケンタがわたしをちらりと見た。どこか勝ち誇ったような表情で。
そしてケンタは、また一樹を見る。熱のこもった視線。
わたしはその場に座り込む。冬の地面は冷たい。でも、立ち上がることができなかった。
「は!? なっ……ん!」
一樹がもがいても、ケンタの力は強く、その拘束からは逃れられない。そしてまた、唇が重ねられる。何度も。合間に、一樹の声が聞こえる。それはきっと制止のつもりなんだろうけど、荒い呼吸で途切れ途切れに上がる声は、もう意味を持っていない。
口付けの合間に、ぼんやりと開いた一樹の唇から突き出た舌と、ケンタの唇から伸びた舌が触れ合っているのが見えて、自分が二人のキスをじっと見詰めていたことに気付く。見ていてはいけないと思うのに、それなのに、最後まで目が離せないでいた。
やがてケンタは満足そうに、これ以上ないほど綺麗に笑ったかと思うと、一樹の体を解放した。一樹はそのまま崩れ落ちるように地面に座り込んで、そしてケンタを見上げた。
赤く染まった頬と浅い呼吸、苦しげに寄せられた眉、泣き出しそうに潤んだ瞳、半開きの唇は艶々と赤い。一樹の、初めて見る表情だった。
ケンタが静かに立ち去って、一樹はまだぼんやりとしたまま、わたしの方を振り向いた。そして、わたしと目が合うと、両手で顔を覆って、大きく体を捻って顔を背けた。
「見るな……見ないでくれ」
一樹のか細い声に、さっきまでの光景を思い出して、背中がぞくりとした。冷たい地面に座り込んで、体は冷え切っているのに、自分の吐く息が熱い。
わたしたちの関係は、変わってしまった。きっともう、元には戻れない。
仲の良い秘密の友達だと思っていたけど、わたしたちはケンタのことを何一つ知らない。何を思ってあんなことをしたのか、何がしたいのか。その心を想像することだって、できやしない。
相手は人ではなかったんだと、今更に思い知った。多分、もっと早くに気付かないといけなかったんだ。でも、もう手遅れなんだと思う。
一樹とだって、これまで通りではいられない、きっと。
それでも、わたしと一樹はまた、ケンタに会いに行くような気がする。
義理チョコとディープキス くれは @kurehaa
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