第2話 マンデリンコーヒー

 次の日の放課後。今日も今日とて私は『ゆしま珈琲店』にやってきた。昨日あんな事があって、またオジさんが来てたらどうしようとネガティブ思考になったが、来るわけない大丈夫と直ぐに考え直した。


 いつものテーブル席に座り、通学用カバンを隣に置いて上着を膝の上に掛けた。

 昨日のカップルも、同じ席に座っていた。昨日と同じ様に、コーヒーと紅茶、それからシフォンケーキとワッフルを頼んでいた。


 ただ昨日と違う事が一つ。

 二人はスマホを持たず、お互いにメモ帳を広げていた。彼女が何か書いて見せると、彼氏が何か書いて見せて、それを繰り返していた。


 このお店に喋ってはいけないなんて規則はないし、マナーもない。小さな話し声なら誰も注意しない。それは二人も知っているだろう。新規のお客さんが全く来ない訳ではないんだから。


 そこで私は何となく察した。カップルがこのお店に来てからもうすぐ一ヶ月くらい経とうとしてるが、一度も一言も彼女の声を聞いたことがない。


 きっと、声が出ないのだろう。


 ああ、だから、いつもスマホを触っていたんだ。

 ゲームをしてたのかもしれないし、ただメール会話をしてたのかもしれない。二人にとってスマホとはお喋りする口と何ら変わらない物なんだ。


 やっぱり素敵だと思った。好きな人と好きな事をこんなに素敵な空間で楽しむこと。


 けれど、メモ帳でお話をするよりもスマホの方が楽なんじゃないのかな、と思う。実際そうだから今までスマホを使ってたんだろう。

 オジさんのせい、なのかな。

 心にもやもやの塊ができるのが分かった。


「いつもありがとうございます。ご注文はお決まりですか?」


 木下くんがいつもと変わらず丁寧な口調で聞いてきた。


「……マンデリンのフレンチってありますか?」

「確認して来ますね、少々お待ちください」

「あっ、いえ、大丈夫です! ストレートのマンデリンをお願いします」

「……かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」

「はい……すみません」

「いえ。ありがとうございます。どうぞお気になさらず」


 私を安心させる為なのか微かに笑みを浮かべて、木下くんは静かに礼をしてからカウンターの方へ戻っていった。

 消えてなくなりたい。常連だからって甘えすぎた、メニューにない事を頼むなんて。もやもやしたから、どうしようもなかったから、苦味の強いコーヒーを飲みたかった。


 メニューには大きめの文字でストレートコーヒーと、その下に少し小さめの文字で何種類ものコーヒー豆の名前、横に値段。それから各コーヒー豆の名前の下にはもっと小さな文字でざっくりとした味の説明がある。けれど焙煎度ローストについては特に触れてない。


 珈琲豆は焙煎時間によって同じ豆でも味が変わってくる。フレンチローストは八段階ある焙煎度合い中ので七番目に深い度合いだ。浅煎りだと酸味が増して、深煎りだと苦味が増す。勿論、中煎りも存在する。

 一年ほど通ってるとどんどんコーヒーに興味が沸いたし、マスターがたまに教えてくれる珈琲蘊蓄コーヒーうんちくをメモしていたら自然と知識がついてきた。


 ブラジルコーヒーの深煎りも捨て難かったけど、恥ずかしい事にあまりにも苦すぎるとまだ飲み切る事ができない。……恥ずかしい事ではないか。

 マンデリンコーヒーだって苦味とコクの深さで有名だ。有名……だろう、誰かと話したりする機会がないから私には分からない。いつか、友人とここへ来てみたい、だなんて夢を見ている。


 さっきの図々しい無遠慮で恥知らずな自分の行為を思い出さないよう、コーヒーのことや叶いっこない夢のことを考えていた。私の得意な現実逃避。私はなんて駄目な人間なんだろう。


 ああ、またネガティブが顔を覗かせる。良くない、とても良くない。そういう自分は、ここには持ってきたくない。鎮まれー、鎮まれー、と眉間に皺を寄せながら念じた。


「お待たせ致しました」

「ハッ、……はい」

「マンデリンコーヒーです」

「……ありがとうございます」


 ずっとテーブルを見ながら物思いに耽けていたせいで、木下くんに全然気づかず声が裏返ってしまった。恥ずかしいのオンパレードだ。マンデリンを頼んだのは正解だった。偉いぞ私!

 ……ヤケクソだ、早く冷静さを取り戻したい。


 目の前に置かれたソーサーとカップ。いつもならもう少し間を開けて漂うコーヒーの匂いを楽しむ所だが、余裕が無い私は直ぐに口に運んだ。少なめに一口、コーヒーを含む。

 慣れた苦味よりも強い苦味と深いコクが口の中に広がる。黒い海に浸されて、そのまま潜っていくような感覚。素敵だ。そんな世界があるなら是非行きたい。


 ようやく自分のペースを取り戻した、そんな気がした時。店の扉が開いて、お客さんの入ってくる音がした。珍しい……、そう思ってから、仰天した。


 店に入って来たのは、あのオジさんだった。


 すっかり草臥くたびれたスーツを来て黒色の靴を履き、片手には使い古された黒色の四角い鞄を持っている。薄くなり始めた頭頂部が印象的だった男の人。


 私はチラリとカップルの方を盗み見た。彼女は特に気にしていない様だったが、彼氏はムッとした口でオジさんを見ていた。しかし少しして視線を外し、彼女との会話に戻っていった。


 オジさんは木下くんに案内される前に、昨日と同じカウンター席に座り、今度はメニューを開いて目を通していた。私はホッとした。来るなり怒鳴り散らしたらどうしよう、と思ったのだ。

 木下くんはカウンターから少し出て様子を伺っていたが、問題ないと判断したのかカウンターへ戻り、何かの作業をしていた。


 私はコーヒーカップを手に取り、小さく一口含んだ。どっぷりと夜より濃い闇に浸かるような、それでいて飲み込むと小さな小さな星がほんの少しだけ顔を見せてくれるような。コーヒーの香りとコクと苦味、それから微かな甘みにゆらゆら流され酔いそうだった。


 そこでふと、私はソーサーの上にある小さな紙を見つけた。メッセージカードだ。今日はマスターのおすすめを頼んでいないのにどうして? と疑問を持ちながらカードを手に取った。


『マンデリンのフレンチロースト。私はシティローストもおすすめですよ』


 直ぐにカウンターへと顔を向けた。マスターは私の視線に気づいてにっこりと優雅な笑みを送ってくれた。恥ずかしさと、我が儘を聞いてくれた嬉しさと、色々な気持ちがごちゃごちゃになって顔が熱い。小さくぺこりと頭を下げて感謝を伝えた。


 今度はシティローストも頼んでみたい。そうしよう。メニューのストレートのマンデリンがシティなのかな。違うならそっちも頼んでみよう。

 一年ほど通っていても、最初の頃はカフェラテとかカフェモカを飲んでいた。コーヒーに手を出し始めてからもブラジルコーヒーばかりだったし、慣れてからはほとんどマスターのおすすめを頼んでいた。


 だから、メニューに載っていて飲んでないコーヒーは沢山ある。


 楽しみがまた増えた。嬉しくなって自然と笑がこぼれていた。やっぱりここは素敵な場所。驚きや楽しみ、嬉しい事が凝縮された、そんな一杯を提供してくれる。また明日を、待ち望んでいられる。


 私がそんな喜びに浸ってコーヒーを飲んでいると。


「何ですか?」


 男の人の声がお店の中に小さく響いた。決して声を荒らげたり怒鳴ったりしている訳では無いけれど、そこに含まれた小さな怒りや警戒が私の所まで届いてきた。

 見ると、オジさんがカップルの座っている席の近くに立っていた。男の人はカウンターに背を向けて座る位置の為、グッと身体を捻りオジさんを見上げていた。また心臓がキュッとなった。昨日みたいな事は止めて欲しい。


「……すまなかった」


 オジさんは小さな声でそう言うと、二人に向かってしっかりと頭を下げた。男の人はびっくりした表情でそれを見ていた。


「昨日言ったことは、八つ当たりだ。色々と気の滅入る事が重なって……。コーヒーは好きなんだ、だからここへ入ってみた。……本当にすまなかった」


 オジさんは昨日の嫌な感じが嘘のように、荒れた雰囲気なんて少しも言葉に乗っていなかった。本当に後悔していると分かった。対面で見ていた女の人は、メモ帳に何か書くとそれを顔を伏せているオジさんに見せた。


「このお店の、コーヒーは、美味しいですよ……」


 オジさんは読み上げるとゆっくりと顔を上げた。クシャッとした表情は何だか泣きそうな顔に見えた。


「すまなかった。いいんだ、携帯を触っている事も、コーヒーが、よく分からない名前でも。俺が、何も知ろうとしなかっただけで」


 女の人はその言葉を聞きながら、先程自分の書いたページをピリピリと丁寧に切って、オジさんに渡した。


「え?」

「あ、おい!」

「……」


 戸惑った表情で紙を持つオジさんと、少しムッとした表情の男の人。女の人はニコニコ笑っていた。


「貰ってやって下さい。また来て欲しいって気持ちだと思うんで。……俺だって、あんまり貰えないんすよ」


 最後の呟きはポロッと漏れた本音なのか、言葉遣いが崩れてた。オジさんはバツが悪いのか照れているのか、髪の薄い頭を搔いて笑った。


「ありがとう、また来るよ。……お嬢さんもすまなかった、嫌な気分にさせちまって」

「えっ! あ、い、いえ。大丈夫です」


 まさかこちらに声をかけるなどと露ほどにも思わず、慌ててそう答えた。お店にいる皆の視線が自分に集まっている気がした。自意識過剰だろうけど、顔が火照るのは止められなかった。


 オジさんはマスターに謝りコーヒーの代金を払ってお店から出ていった。レジで木下くんにも謝ってて、木下くんは「またのご来店お待ちしております」と相変わらず丁寧に頭を下げお見送りしていた。


 カップルはメモ帳を使ってお喋りをしていた。スマホに持ち変える気はないらしい。今日は手書きの気分なんだろうか。彼氏は少しだけ拗ねているように見えたし、彼女は少しだけ嬉しそうに見えた。

 愛の形は様々だ。そんな気持ちになった。


 顔の熱を冷ましたくて、コーヒーを飲む。すうっと気分が落ち着いていく気がした。頭の中がコーヒー色に染る。後味を楽しみながら店内を見回した。


 ゆしま珈琲店。ゆっくり、しずかに、まったり、珈琲を楽しむお店。


 私にとってこの場所はそれだけじゃない。人と少しだけ関わって温かさを受け取って、小さな小さなドラマを感じる場所。私が居ても大丈夫な場所。


 いつか、大切な人ができたら、一緒に来れますように。そんな夢を描いて、私は。


 明日もきっと、ゆしま珈琲店に訪れる。

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