ゆしま珈琲店
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第1話 モカブレンド
学校からの帰り道にある小さなカフェ『ゆしま珈琲店』。
カウンター三席と二人用テーブル三卓。焦げ茶色の木製で統一されたテーブルと椅子。床と壁は少し薄い茶色。壁には小さな絵がいくつか飾ってある。店内にはピアノのジャズ曲が心地よく流れていた。
私は放課後によくこのお店に来て、コーヒーを一杯頼む。今日もそうだ。端っこの二人用のテーブル席、カウンターが見える向きで座る。ここが私のいつもの場所。通学用カバンは自分の隣に置いて、制服の上着は脱いで膝の上に掛けた。
季節は秋。少し肌寒い日も多くなってきたけど、冬を思えば快適だ。二年生だから大学受験の事はまだ考えなくていいし、考えたくない。親は違うみたいだけど。そんな現実から逃れたくて私はこのお店に通ってる。通いだしたのは一年の夏頃だ。
ゆっくり、しずかに、まったり、珈琲を楽しむ店。『ゆしま珈琲店』にはそういう意味があるのだと、マスターに教えて貰ったのはつい最近だった。当のマスターはカウンターの中で何やら手を動かしていた。
マスターは私のお父さんよりも歳上で、でもおじいちゃんって言う程年寄りって感じがしない。何と言うか……最近読んだ本の言葉を借りるなら"仕事の出来る叔父様執事"って感じだ。
白いワイシャツに黒いベスト。その上から紺色のエプロンを身につけている。マスターの灰色がかった髪や優しく笑うと深くなる皺、心地よい低い声、言葉遣い、それら全てがチープな言い方かもしれないけどすごく格好良い。良い歳の取り方のお手本、みたいな感じだ。
「いつもありがとうございます。ご注文はお決まりですか?」
このお店でただ一人のバイトの木下くんが、丁寧な口調でそう聞いてきた。木下と書いてある名札をしているし、時折マスターに「木下くん」と呼ばれている事から、私も心の中で木下くんと呼んでいた。
「マスターのおすすめで」
「かしこまりました。以上でよろしいでしょうか?」
「はい」
「ありがとうございます」
いつものやり取りをして、木下くんは静かに礼をするとカウンターへと戻っていった。木下くんは見たところ高校生か大学生くらいだと思う。私は木下くんの方が歳上だと思っている。身長は高くスラッとしてて、髪は染めてるのか分からないけど少し茶色っぽい。顔は俗に言う塩顔で、クールな雰囲気だ。
カフェの制服もよく似合っていて、ここの雰囲気も相まって別世界に住んでる人みたいだった。
一年ほど通ってるけど、さっきのやり取りみたいな業務上の会話以外した事がない。ただ、最初の頃は『いらっしゃいませ』だったのが『いつもありがとうございます』に変わったり、『他にご注文はございませんか?』が『以上でよろしいでしょうか?』に変わったり。コーヒーを頼む時にミルクや砂糖の有無を聞かれなくなった事も。そういう小さな変化が私は楽しい。
『マスターのおすすめ』というのも、メニューにはないコーヒーを出してもらえたりする。値段はメニューに乗っている『マスターのおすすめ』と同じだ。その代わり私はマスターに感想を伝えてる。そうすると、それを元にまた違うコーヒーを出してもらえる。
すっかりここは私の居場所になっていた。
勿論、私の他にもお客さんは居る。一つテーブルを置いて、二人用のテーブル席には最近よく見かけるカップルが座っている。二人ともきっと大学生なのだと思う。来る時間はまちまちで今日は私がここへ来るよりも先に二人が席にいた。
コーヒーや紅茶の他にケーキやスコーンなどを頼んでいた。二人はいつも静かにスマホをずっと触っていた。
羨ましいなと思う。私には恋人は勿論、一緒にゲームする人やカフェに来る人なんて居ない。いつも一人だ。スマホでゲームだって殆どしない。
こんなに気持ちの良い雰囲気の中、好きな人と好きな事を楽しむ。いつか私にも経験出来るだろうか。……無理だろうなあ、そう思って苦笑いが零れそうになった。危ない危ない、一人で笑う変な子にはなりたくない。
「お待たせ致しました。マスターのおすすめです」
「ありがとうございます」
木下くんが慣れた手つきでテーブルにソーサーとコーヒーの入ったカップを置いた。ソーサーにはカップの他にメッセージの書かれた紙と小さな袋に入った二枚の丸いクッキーが乗っていた。
「ごゆっくりどうぞ」
コーヒーの良い香りがふわりと私を包む。メッセージカードを手に取って読んだ。
『モカベースのブレンド、クッキーは甘さ控えめです』
モカベースのブレンドは何度か飲んだことがあるけど、どれも少し違った覚えがある。ブレンドコーヒーも同じものを頼めば出してもらえる。気に入ったものはメニューに加わったりする。
カップを手に取りコーヒーの香りを肺に染み込ませた。徐にカップに口をつけ、一口含みこくりと飲み込んだ。温かさも苦味もほっとする。モカブレンドは独特な酸味をよく感じられた。
この前は苦味と深いコクのコロンビアベースだった。それと比べれば一目瞭然……一口瞭然だ。
もう一度コーヒーを口に運んだ。袋を開けてクッキーを取り出し、少し齧ってみる。コーヒーの後味が余計に引き立つし、クッキーの甘さも丁度よく、素敵なハーモニーを奏でていた。それに、モカブレンドの特徴なのか甘みのある香りとクッキーの甘さと二種類の甘さを感じられる。なんて贅沢、最高だ。至福の時だ。
現実の事なんてすっかり忘れられる。
そんなことを思っていた時、珍しくお店の扉が開きお客さんが来た。珍しくなんて失礼だけど、来た人は初めて見る人だったから余計に珍しい。
このカフェは大きい通りから外れて、細い道に入った途中にある。『ゆしま珈琲店』と看板に書いてあるものの、余っ程の珈琲好きか隠れ家みたいなお店を見つけ出すのが得意な人くらいしか来ないと、私は思ってた。
来店者はスーツを着た頭頂部が薄くなり始めてるオジさんだった。黒色の靴を履いて片手に黒くて四角い鞄を持っている。いかにも社会人ですっていう格好だ。
木下くんがカウンターの向こうから出てきて案内を始めた。オジさんはカウンター席の真ん中に座った。メニューをチラリとも見ずに、ブラックコーヒーと大きな声でぶっきらぼうに言った。
そんな大きな声を出す人はこのカフェでは居なかったから、私はびっくりした。少し怖い。
私は視線をコーヒーに移した。本を読む気にもならず、かと言って急いで飲み干す気にもなれない。スマホのアプリにゲームは入ってない。SNSはLINEしかしてないし、おかしな話かも知れないがネットサーフィンはやり方がわからない。勿論、勉強なんてしたくない。特にこの場所では、したくなかった。
すっかり現実に引き戻された気がして、オジさんの印象が悪くなった。それから、そんな心の器の小ささに我ながら呆れた。
ぼーっとお店の外を長めながらちびちびとコーヒーを楽しみ、時折クッキーを齧った。細い道を行く人は意外と多かった。車が通る事もあり、見ていて飽きることはなかった。小さな小さなドラマがそこにある、そう感じた。
ふとカタカタと何かが床を細かく叩く音がした。チラッと視線を移すと、オジさんが貧乏ゆすりをしている音だった。オジさんが首を動かした瞬間に私は店の外へ視線を移した。
「チッ」
オジさんの舌打ちを耳が拾い、サァッと血の気が引いていく気がした。私が見ていた事が分かったんだろうか、だから舌打ちをしたんだろうか。何か言われるんじゃないか。怖い。
どうして、この場所で、そんな思いにならないといけないんだろう。
ネガティブな思考をどうにかしたくて、コーヒーをコクコクと飲んだ。クッキーも大きく一口食べた。変わらず美味しい、けれど私の心臓は別の理由でドキドキと煩かった。
木下くんがオジさんに声をかけた。内容からコーヒーを出しているのだと分かった。私にそちらを見る勇気はなかった。店の外を見る事も止めて、テーブルの木目を視線でなぞった。
「あ? 何だって? 俺はブラックコーヒーを頼んだんだ! その、分からんコーヒーを頼んだんじゃない!」
「ミルクや砂糖は入ってませんので、ブラックコーヒーですよ」
「最初からブラックコーヒーだって出せばいいんだ!」
「失礼致しました。……ごゆっくりどうぞ」
「まったく最近の若いのは……」
オジさんは理不尽な文句を言って、最後にはよく聞く嫌味をブツブツ呟いていた。
私が怒鳴られたわけでもないのにどんどん手先が冷たくなっていく。ただ男の人のそういう声を聞いているだけで、どうしても気分が悪くなって泣きそうになってしまう。
今席を立ってオジさんに何か言われたら、そう思うと帰る気も失せていった。
気持ちを落ち着かせるようにいつもより早いペースで飲んでいた為、カップは空っぽになってしまった。クッキーも食べ終えた。仕方なし、とカバンから本とスマホを取り出した。
栞の挟まれているページを開き、続きを読み始める。高校の図書室でオススメされていた恋愛小説だ。普段読まないジャンルだからなのか、気持ちが張り詰めいるからなのか入り込めない。何度も同じ行を読み返してしまう。
これじゃあ楽しめないし、駄目だ。そう思って栞を挟み直し本を閉じた。スマホでこの本の作者を検索する事にした。今まで私は親に言われた本ばかり読んでいたから、どうにか自分で自分の好きな本を見つけたいと思っていた。読書はただの暇潰しじゃなくて、好きな事なんだと思いたかった。
「最近の若いのはずっと携帯ばっかり弄ってるな!」
そんな声が飛んできて、ピタリと指が止まった。
「馬鹿になるのも頷けるわ。全く使えん奴らばかりだ!」
頭の中がぐちゃぐちゃになる。オジさんだって携帯使うでしょ、あなたは私の何を知ってるの、使えるって何? 仕事の話は会社でしてよ。声にならない悲鳴がどんどん喉の奥に溜まっていく。胸が痛くて、目の奥が熱くなる。顔は上げられなかった。
すると、椅子が床を擦る音がした。
「……貴方は喧嘩をしにこの店へ来たんですか? 僕達がスマホを触ってても貴方には何も迷惑をかけてませんよね。仕事で部下が使えないなら、その部下の方に仰ってください」
「何だと!」
「僕達に向かって舌打ちをしたのも聞こえてましたからね。八つ当たりはみっともないですよ」
私に向かって言われてたと思っていた事は、一つ空けて隣の席に座るカップルに言っていたようだ。いや、私にも言っていたのかも知れないけれど……。
男の人はオジさんに言い返したあと彼女の手を取り、直ぐに代金を払ってお店を出ていった。オジさんとお店に二人きり。マスターと木下くんは居るけど、次は私が何か言われる番なのかもと思うと直ぐにでも帰りたい。いや、今行動したらそれこそ何か言われるのかも。
どうする事が正解なのか分からなくて、取り敢えず本とスマホはカバンに入れた。席から立つことは出来なかった。
「お客様、ここは珈琲を楽しむ所です。またのご来店はお待ちしておりますが、その時も同じ様な態度でしたらそれなりの対応をさせて頂きます」
マスターの優しいながらも厳しさの滲んだ声が空気を揺らした。暗に退店を促している。凄い、そう思うと同時にオジさんが逆ギレするじゃないかと次なる怒鳴り声に構えていた。
「……」
しかし私の心配とは裏腹にオジさんは黙ってコーヒー代を払いお店を出ていった。
しんとした空気の中、ジャズピアノの音だけが小さく流れていた。
私は手の甲でサッと目元を拭い、メッセージカードをスカートのポッケに入れてから上着を羽織ってカバンを持ち、何ともない風にレジへ向かった。カウンターからマスターが出てきて対応してくれる。
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です。……あの、今日のモカブレンド、クッキーととっても合ってました。二種類の甘さ、すごく楽しくて……」
もっとゆっくり味わいたかった、という本音は飲み込んだ。わざわざ蒸し返すことはない。だって、大丈夫だと言ったのは私なんだから。
「楽しんで頂けて何よりですよ。ありがとうございます」
「い、いえ、こちらこそ、いつもありがとうございます」
「またお待ちしております」
「はい」
カフェの扉を開けて外へ出ると、冷たい空気が肺に染み入った。マスターと木下くんとコーヒーの温かい空気が一変し、秋の夕方の独特の匂いを含んだ空気が髪を揺らして通り抜けていった。微かに金木犀の甘い匂いがした。
周りを見てもオレンジ色の小さな花は見当たらない。長い長い帰り道を歩きながら、嫌な事はあったけどそれでも今日は甘いを楽しむ日だったな、と振り返った。
今日これから来るだろう現実には結局目を背けたまま、私は家に向かって歩いていった。
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