罪について

スズヤ ケイ

罪について

 人と言う生き物は、なんと愚かなのだろう。


 愚鈍で傲慢で思慮浅く……そして臆病だ。


 万物の長たらんと振る舞っている癖に、自分より僅かでも勝っている者を見ると、恐れ、おののき、排除しようとする。

 相手に敵意がなくても、だ。


「出る杭は打たれる」とはよく言ったものである。


 彼らにそういった行動を取らせるには十分なのだ。自分達とはどこかが違う、ただそれだけで。


 特に人は、同族間でその行動を多く取る傾向にある。

 自分の器の卑小さを棚に上げ、理解が及ばないものを絶対に受け入れずに、徹底的に排斥しようとする。


 ただ「異なっている」というだけで、「悪魔憑き」だの「魔女」だのと呼ばわって、自分と全く変わりのない人間を殺すのだ。


 未知の物に対する恐怖は、人の常識、理性を麻痺させる。

 故に、同族殺しという恐ろしい所業を容易く為さしめたのだろう。

 同時に、自らを御しきれない未熟さをも露呈した。


 主よ……何故かくも罪深く愚かしい生き物をお創りたもうたのか……


 しかし、かく言う私こそ真に愚かなのかも知れない。

 人が人の可能性を信じてやれなくてどうするのか……




 私はそこで手を止め、切り石作りの机にペンを横たえた。


 それと同時に、私は改めて部屋をぐるりと見回した。


 三方を正方形に積まれた石の壁で覆われた、無機質な部屋だ。その内の一面に鉄格子がはめられ、出入口には幾重にも巻き付けた鎖の上から錠がかけられている。


 部屋の調度品といえば、今私が向かっていたこの石の机と、荒いつくりの便器、そして石床へ直に藁を敷いただけの粗末なベッドがあるばかりだ。


 何度見直しても、景色が変わる事はない。夢であれば、と何度思った事か。


 これも何度目となるのかわからない溜め息をつき、私は机に向き直った。




 私は今、留置場の独房でこの文を書いている。

 日課であるこの手記を、よもやこんな場所で書く事になろうとは、夢にも思わなかった。恐らくこれは遺書となるのだろう。


 私がこの部屋を寝床としてから、十日程が経った。

 最早床ずれの痛みにも慣れ、粗末で僅かな食事ですらありがたみを得て、人間の適応力について身をもって実感しているところだ。


 今の私は、裁判の結果を待つ身である。

 嫌疑は、私が魔女であるか否か。


 本人の同席を許さず、申し開きも受け付けないのに裁判とは聞いて笑わせるが、これは通常の裁判ではない。「魔女裁判」なのだ。

 要するに、裁判とは体裁を繕う為の名ばかりのもので、合法的に私を処断するための言い訳を合議をしているに過ぎない。

 その間、私は残る余生をこんな石の部屋で過ごさなければならないのだ。



 私が魔女の嫌疑をかけられた理由の根源は、大きなものに宗教改革が挙げられる。

 ある時を境に、国教以外の宗派を、邪教として徹底的に弾圧する方針が取られたのだ。


 古派の教徒である私はその波にまともに飲まれ、弾圧の手から逃れる為、町を転々と移り住む事を余儀なくされた。


 そして一月ひとつき前にこの町に流れ着き、しばらくぶりの安寧に浸っていたせいか、どうやら警戒心も薄れてしまったらしい。

 程なくして、運悪く礼拝姿を隣人に見られてしまったのだ。それが今から十日前になる。


 この頃は既に異教の神=悪魔、という思想が広まっており、それに祈っていた私は魔女として一も二もなく拘束され、この部屋に放り込まれた。

 そして現在に至っている。



 我が父たる主よ。この私が一体何の罪を犯したと言うのでしょう。あなたへの祝福の言葉を紡いでいただけなのに。



 私が今日何度目かの祈りを捧げていた時、ふと靴音が響いてきた。鉄格子の向こうの廊下からだ。


 足音は私の部屋の前で止まった。

 私はそれに対し、体ごと顔をそちらへ向ける。


 見やった先には、既に見慣れた顔が確認できた。


 この留置場の看守の一人で、名をトーマと言った。

 彼がこの十日間の食事を毎日運んで来てくれている。

 今では軽く言葉を交わし合う程度の面識はできていた。


 彼は元々人当たりが砕けているのか、魔女と称される私に対して何の気兼ねもなく話しかけてきた。

 そしてただ一人、私の弁明を真正面から聞き入れてくれた人でもあった。


 彼は私の話を聞き、他宗教の存在を認めた上、それに対する世間の仕打ちに大いに怒り、弾圧されゆく異教徒達へ同情の念をも露わにした。


 話を聞く上では、彼は非常に素晴らしい人格の持ち主だった。私の身を案じ、裁判長へ抗議してこようとさえ言った。


 しかし私は、血気にはやる彼の行動をいさめた。

 いくら彼が説得したとしても、それを裁判官が受け入れようはずがない。下手をすれば彼も同罪にされるだろう。

 これ程の人格者を、私と同じ立場に置かせるのは忍びない。


 ……しかしこれは、あくまで表の私の意見である。

 もっと深層の部分では、彼に疑いを抱いている事は否めない。

 口先だけならば何とでも言える、と。


 容易に人を信用すると痛い目に遭う……


 弾圧による流浪の日々が、知らぬ間に私をかたくなにしてしまっていたのだ。


「……エリザ。食事を持ってきたよ」


 鉄格子越しに、トーマが声をかけてきた。

 石床と格子の隙間から、盆に乗せた食事を差し出して来る。


「いつもありがとう、トーマ」


 私は出来得る限りの──しかし結局はいびつな微笑を浮かべてそれを受け取った。


「すまない……本当はすぐにでもここから出してあげたいけど、たかが一看守の俺には鍵を持ち出せないんだ」


 悔し気に歯噛みするトーマへ、宥めるように語り掛ける。


「いいのです、トーマ。そんなことをすれば、あなたも捕まってしまうわ」


 引き寄せた盆に向かい、食前の祈りを捧げる私を、トーマが悲しそうに見詰めている。


「エリザ……言いにくいんだけど」


 意を決したように、拳を握り締めるトーマ。


「何でしょう?」

「君は……を愛する事ができるかい?」


 カラン……


 取り落したスプーンが、固い石床と触れ合う音が響いた。


 遠慮したような小さな呟きだったが、確かに聞こえた。彼らの神の名だった。


「トーマ……何を……?」


 震える声で問い返すも、その先が続かない。


「聞いてくれ。今君は、異神の使徒としての罪を問われている。ならば、その教えを捨て、国の奉じる神の御心に従う事を誓えば、改心したとして嫌疑は晴れるはずだよ」

「馬鹿な事を言わないで!! 私に主を見捨てろだなんて!」


 思わず立ち上がり絶叫する私に、トーマは殴られたかのように顔をしかめる。


「辛いのはわかるよ。でも、生きる為にはこれしかないんだ……」

「そんな事……出来る訳……私達が信仰を捨てれば、主は本当に彼方へと去ってしまう……」


 両手で顔を覆いながら、私は崩れるようにうずくまった。


「もう刑が決まるまで時間はあまりない。よく考えてくれ……神への信心か、自身の命か」


 最後におやすみと告げると、トーマは沈痛な面持ちのままで立ち去った。


 遠ざかる足音が響く中、私の脳内はひどく混乱していた。


 なんという事だろう。我が主以外の神を愛せるかなど、答えは決まっているではないか。


 久しく忘れていた人の温もりを、トーマは思い出させてくれた。表の私は、淡い情さえ感じていたかも知れない。

 トーマがいてくれたおかげで、獄中での生活は、周囲の目を逃れて流転していた頃よりも、ずっと穏やかでささやかな幸福の時が感じられたからだ。

 トーマも私の中の信仰の大きさを認めた上で、私に好意を持ってくれているかも、などとどこかで期待していた。


 それなのに……よりにもよって、そのトーマが問うたのだ。

 この私に、改宗の示唆をしたのだ。


 この時、元からあったトーマへの懐疑は確固たるものとなった。


 しかし、トーマの言葉に心が揺れていたのもまた事実だった。


 死に対しては、格別恐ろしい事とは思わない。

 事実、投獄されてから今に至るまで、特に感じるところはなかった。主を見捨てるくらいならば、喜んで死を選ぼう。


 ただ、心残りなのが……「魔女」として死ななければならない事だ。

 それは、我が主が邪教の神である事を世に認知させん為に殺されるという事だ。

 それが主への冒涜となるのではないか……私はそれが心底恐ろしい。


 我が主の正当性を説く為には生き永らえなければならない。

 しかし、死の危機を回避するには改宗を迫られる。

 この二つは、大きな矛盾でしか繋ぎ目が存在しない。


「ああ、主よ……私は一体どうすれば……」


 私の信仰は揺らいでいる。父からの返答は無い。


 迷いと苦悩に満ちた祈りと共に、私にとって最後の夜は更けて行った。




 ────




 次の日、何事もなかったかのようにトーマが朝食を運んできた。

 いつも通り格子の下から盆を差し込んでくる。


 しかし、今日のトーマの様子はいつもとは違っていた。


 無言だった。


 いつもなら挨拶をするものを、私が盆を受け取ったのを確認した後も、何も話さない。


 私が食事を終えるまで立ち尽くし、盆を廊下へ押しやった頃、ようやく口を開いた。まるで巨大な岩でも押し退けるような、鈍重な開きようだった。


「……エリザ。処刑が決まった。今日の正午だそうだ……」


 散々躊躇ためらった後、トーマはそれだけを言った。


「そうですか」


 態度から察していた私は、何の感想も抱かなかった。

 昨夜の迷いはとうに通り越し、諦めが私の胸を満たしていたのだ。


「考え直す気は無いのかい?」


 トーマの呼びかけに対して、私は端的に返すだけだった。


「愚問です」


 主の元へと還るだけなのだから死は厭わない。邪教徒として散る事が残念だ、と昨日も至った想いだけを伝えた。


 それを聞いたトーマは、今までの悲壮な顔を改め、強く私の目を見据えた。


「俺も吹っ切れたよ。最後まで諦めないでくれ。俺が必ず助けてみせる」


 何かを決意した表情を浮かべて盆を手にすると、彼は立ち去った。


 しかし私は、どうせ言葉だけだろうと、虚しい気持ちで聞き流していた。




 ────




 陽の光は真上から降り注ぎ、正午の到来を告げようとしている。時間が来たのだ。


 縄で両手を縛られ、仔牛のように引かれる私は、久々に浴びる陽光を陰鬱な気分で受け止めていた。


 本来ならば主の恵みであるその陽射しも、澄み渡る青空も、私の心の暗雲を晴らす事はできなかった。

 既に主は去ってしまったのだろうか。私の信仰に迷いが生じたその時に。


 私の周りは弓矢や剣で武装した兵士達が取り囲んでいる。

 そして処刑場までの沿道は、魔女を一目見んとする観衆で溢れ返っており、彼らも隙あらば殴りかからんと、各々棒切れや石を手にして息巻いていた。


 何の力もないただの女一人に、大層な騒ぎようだ。

 私は自分事ながら、どこか別の場所からこれらを眺めているように思えて、むしろおかしくなってきてしまった。


「あいつ、笑っているぞ!」

「これから死ぬというのに笑うだなんて、尋常じゃない!」

「やはり魔女だ!」


 笑おうが、泣き喚こうが、彼らの反応は同じだ。


 何が何でも、私を魔女にしたいのだから。

 そうしなければ、彼らの中の信仰を保てないのだ。


 留置場からまだどれほども歩かない内に、私の体には幾つかの傷が付き、額から滲んだ血がしたたって片目に入ってきていた。


 兵士の隙を見て、心無い人達から罵声と共に投げ付けられた石が作った傷だ。何個命中したのかはもう覚えていない。


 私の処刑は庶民への娯楽として提供する為、闘技場で行われるのだと、留置場を出る際に兵士達が話しているのが聞こえていた。


 その闘技場までは、普通なら少し駆ければすぐの距離まで来ている。しかしその程度の道程でさえ、やけに長く遠くに感じられた。


 引き摺られるようにして歩きながら、私は今朝のトーマの言葉をぼんやりと思い出していた。


 この状況で諦めるな、とは無理な注文だ……それに、こんな中からどうやって救い出そうというのか。やっぱり口だけだったのだろう。

 それに、私の信仰は揺らいでしまった。逃げ出したとして、この先どうしろと言うのだ。


 そんな捨て鉢のような想いだけが、今にも倒れ込みそうな私の身を前に押し進めていた。


 ようやく辿り着いた処刑場の入り口を目前にして、私は父の元へと旅立つ為の心の支度を始めた。


 入り口のアーチを潜る頃には群衆の列は途切れ、うるさかった野次や罵声も遠いさざめきとなっていく。


 アーチの中程まで来ると、別の出入り口へ続くと思われる横道が交差していた。


 その交差点を通り過ぎようとした時。


 私の手を繋いだ縄を持っていた衛兵が、不意に道を逸れたのだ。


「おい、何してる。行き先は真っ直ぐだぞ」


 他の者の指摘を受けたにも関わらず、その衛兵は横道へと私を導いていく。


「貴様、命令違反だとわかっての事か!?」


 格上と思しき者が走り寄って肩を掴んだかと思うと、その瞬間に小さく呻いて膝をついた。

 私の手を引く衛兵の手に、いつの間にか剣が握られていた。


「斬り捨てろ!」


 誰かが叫ぶと、一斉に背後の衛兵達が殺到する気配がした。

 同時に、


「走るぞ!」


 兜でくぐもった声を上げながら、振り返った衛兵は私を抱き上げて駆け出した。


 男はトーマだった。

 抱えられた腕の中で間近に見上げると、兜の隙間から見覚えのある目元が見えたのだ。


 何とか追手を振り切り、別の出入口から人気の無い路地へと駆け込み身を隠すと、トーマは私をようやく地に降ろした。


 同時に崩れ落ちた彼を改めて見ると、私よりも多くの傷を負っていた。衛兵達に背を見せた瞬間に斬り付けられた上、振り切るまでに無数の矢をその身に受けていたのだ。


「すまない……もっと早く助けたかったけど、あの場でしか連れ出す機会が無かったんだ……ああ、こんなに傷だらけになって。あの清廉さが見る影もない……」


 私の幾多の傷を見て、息も絶え絶えに謝罪するトーマ。

 謝るのは私の方だと言うのに……!


「喋らないでトーマ! あなたの方が重傷でしょう!」

「俺は結局約束を守れなかった……これはその代償だよ……」


 彼は私を助けると言った。しかしそれは、この町を出るまでは叶わない。

 今頃は衛兵達が血眼になっていて、ここを見付けられるのも時間の問題だ。その事を詫びているのだろう。


 彼は、最初からわかっていたのだ。私を助け出す事など不可能だという事を。

 それなのに計画を実行に移した──自らの命を賭して。


 彼は、本気で私の身を案じてくれていたのだ。

 しかし、私は信じてあげられなかった。


 言うならば、私が彼を殺したのも同然だ。


 最も愚かだったのは私だ。


 私が素直に国教へ恭順していればこんな事には……




 ──いつしか、雨が降ってきていた。


 ぽつぽつと、急激に冷えてゆくトーマの頬へと雫が滴っていく。


 その顔を胸にかき抱き、私は黙祷を捧げた。泣き叫びたい心を制して。



 以前、トーマに尋ねた事があった。どうして罪人とされる私を受け入れる事ができるのか、と。


 トーマは何でもないように言った。


「俺は人間だから」


 人が人を信じてやれなくてどうするのだ。

 そう言い切った時の慈愛に満ちた顔が、鮮明に浮かび来る。

 思えば、今胸に抱いているこの顔と、全く同じ表情ではなかったか。


 彼は、最期まで人間であったのだ。

 神や他人に左右されることなく、己の意志に殉じたのだ。


 一刻程前の私は、汚名を着せられて死ぬ事に罪悪感を抱いていた。

 しかし、私は今、己の真の罪を悟った。そして、その罰を請うべき相手はもういない。


 私の罪を、他者が裁く事は出来ない。


 人が人を裁く事など、あってはならない。


 ならば、自らの意思で主の御前に立ってその判決を受けよう。


 トーマの救いの手のお陰で、今ならばそれが出来る。

 邪教の魔女としてではなく、愚かな一人の背信者として逝く事が出来る。


 ただその前に、トーマが天へ召されるのをきちんと見届けるのだ。

 もしも彼らの神がトーマの行いを断罪したのなら、今度は私が助ける番だ。


 私は地獄行きでもいい。彼だけは救って欲しいと懇願するのだ。彼の潔白を証明するのだ。


 それが叶うのならば、この魂までどうなっても構わない。



 私はトーマと最初にして最後の口づけを交わすと、彼が握り締めた剣を、その手ごと持ち上げた。



 願わくば、神の御慈悲があらんことを……

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