海が見たくて出掛けたけれど…。

宇佐美真里

海が見たくて出掛けたけれど…。

「海が見たいな」妻が朝食後、突然言い出した。

「これから?」当然僕は聞き返す。

「そう。これから」彼女も当然と言わんばかりの顔をして答えた。

「分かった。行こうか」僕はソファから立ち上がる。

上着を手に取り玄関へと向かう。男である僕は出掛けるのに取り立てて準備することもない。強いて言うならば、僕ではなく僕の愛車に暖機運転をさせることくらいだ。彼女も続いて立ち上がる。

「ゆっくりでいいよ。クルマを温めておくから…」スニーカーを履きながら彼女へと告げる。彼女は「うん」とだけ返事をしながら、鏡の前で準備を始めた。


ガレージの壁にあるスイッチを入れシャッターが上がっていくのを横目に、左のドアを開け愛車へと乗り込む。キーを差して回す。キュルキュルキュル…とセルの音の後にブロロロロ…と低い音を立ててエンジンが振動を開始する。シートに座って居ると身体全体に振動が伝わって来た。

アイドリングだなんて今どきの車には必要ない。電子制御によって、エンジン性能はどんなコンディションでも充分引き出せる様になっている。わざわざエンジンの温度を上げなくても充分に走る。

ところが僕の愛車はそうも行かない。古い車。何せ僕よりもずっと年上の愛車。故障も多く、特に女の子には受けが悪い。先ず見た目…。「何これ?古臭くない?」はまだマシ。乗れば「ガダカタとうるさいし乗り心地が悪い…」となる。そして結局は「さようなら…」だ。女の子の全てがそうだとは言わないけれど、大抵の女の子にとって車とは、ファッションの一部であり実用的でなければならない。それはそうだろう。デートで出掛けた先でエンジンが停まってしまったら?最悪だ。事実、その場で車を降り、僕と愛車を振り返ることもなく、それっきりになった子も過去に居た。

妻はそう云う意味では変わっていた。「古い物って良いわよね」と笑い「急ぎの用事の時は乗らなければいい」と言い切った。だから…長く続いたのかもしれない。立往生してレッカーされる愛車に手を振って、二人でドライブ先から電車で帰ってきたことも一度や二度ではなかった。それでも彼女は文句なく「逆に楽しいじゃない」と言った。そうして僕等は一緒になった。


エンジンが立てる振動がやや納まり安定する頃に、彼女はガレージに遣って来た。

「どう?今日のご機嫌は?」車の前方を回り右側のドアを開けると、ベンチシートの助手席へと腰を下ろしながら彼女は言った。

「悪くない…ハズだけど」そう答えるが、愛車のご機嫌なんて分かりはしない。その日次第。いつだってトラブルは突然やって来る。それでも一番寒い時期も過ぎ、日々徐々に暖かくなりつつあるこの季節、愛車のエンジンに無理強いをさせることも少ないだろう。僕はクラッチを踏み、ハンドルから伸びるコラムシフトを握ってギアをローに入れた。


一定のリズムでエンジンはシートを揺らす。どうやら本日の愛車の調子はすこぶる良い様だった。普段なら時々混ざる変拍子のリズムもまだ聞こえてはこない。一定のリズムは眠気を誘う。エンジンが鳴らす音、エンジンの回る揺れ。ハンドル脇に手を伸ばし僕は、ドアに嵌る三角窓をほんの僅か隙間を残す程度に閉めた。この三角窓も女の子のウケの悪い原因のひとつだった。車にエアコンは一応搭載されている。搭載されてはいるのだが、利きは悪い。下手すれば夏場にはオーバーヒート・エンストとなる。エンストを避けて三角窓を開けておく。風が車の中を通り抜けエアコンよりも格段に爽快であるハズなのだけれど、大抵の女の子は不満を口にした。風は髪を乱し、その煩い音は車内の会話を困難にした。そんな思い出に苦笑いしながら三角窓をギリギリまで閉じ、ベンチシート、僕と妻の間に転がっているブルートゥーススピーカーのボリュームを少しだけ絞った。車にラジオは搭載されているが、妻はブルートゥーススピーカーを持ち込んで、スマートフォンのソングリストを掛けるのがいつものことだった。エンジンが鳴らす音、エンジンが回る揺れ。スピーカーから流れるAOR。他所の人たちに取ってはガタガタと全て煩く感じられるのだろうけれど、そのどれもが僕等には心地良い。一定のリズムは眠気を誘い、"いつもの様に"妻はベンチシートでうたた寝をしている。僕は彼女の寝顔を横目に見ながら、ハンドルを握り海を目指した。


朝、自宅を出た時には鮮やかだった青空もいつしか雲行きが怪しくなっていた。吹く風も冷たくなる。僕は三角窓を完全に閉じ車を走らせる。


「あら?やっぱりご機嫌悪くなっちゃった?」

エンジンを止めて、スピーカーからゆったりとした曲が流れているのをただぼんやりと聞いていると妻が目を覚ました。「もう着いたの?」それが普通の寝起きの言葉なのだろうけれど、愛車の場合はそうもいかない。妻も心得たものだ。

「順調だったよ。ご機嫌斜めなのは天気の方さ」

僕はフロントガラスを指差してみる。エンジンを止めワイパーも動いていないフロントガラスには、雨が滝の様に上から下へと流れていた。

「せっかく来たのにね…」妻は笑いながら、持って来たマグボトルとマグカップを鞄から出して珈琲を注ぎ渡してくれる。


ドライブはもちろん目的地に向けて走ることだけれど、それだけではない。車の中でその行程を楽しむ。その行程を寛ぐ。今日は機嫌を損なうこともなかったけれど、そんなことを僕等の愛車はいつも思い出させてくれる。


「残念だったね…」と僕が言うと「そうね」と然程、残念でもなさそうに彼女は笑った。珈琲を飲み終えた僕はマグカップを妻へと返すと、キーを回して愛車のエンジンを掛ける。ブロロロロ…と低いエンジン音と振動が伝わって来る。始動させたワイパーが左右に振られるその隙間で雨がフロントガラスを叩く。随分と雨足は弱くなって来た様な気がする。

「もう少し止むのを待ってみる?」

「いいえ、もういいわ。行きましょう。気をつけてね」

妻は海に未練はない様だった。僕はアクセルをゆっくりと踏み愛車を発進させた。


夕方の渋滞までは、まだ少し時間があるので車の流れは順調だった。愛車もこのまま愚図らずに居てくれればよいのだけれど…と思いながら僕はハンドルを握る。妻はスピーカーから流れる曲に合わせて小さく鼻歌を歌っていた。

「ご機嫌だね?」僕がからかう様に言う。

「ご機嫌よ?いつもね」と妻も笑って返した。

いつしか雨は止み、再び太陽が姿を見せている。


「あ!」鼻歌交じりに窓の外を見ていた妻が突然声を喚げた。

「どうした?」

「ねぇ?何処かで車、停められる?」

停められないことはない…と僕は、左手前方に見えていたコンビニの駐車場にハンドルを切った。

「どうしたの?」もう一度、僕は訊いた。

シートベルトを外しながら妻は言う。

「車から出てみて?!」そう言いながら、サイドブレーキレバーを引く僕を尻目に彼女はドアを開け、車から外に出る。僕も左手に扉を開け彼女に続いた。

「ほら!見て!」彼女の指差す方向に僕も目を遣る。そこには…。


虹。


雨雲がまだ残っている処に西へと傾きかけた陽が差し込んで、鮮やかな虹がアーチを描いていた。

海を見たくて出掛けたけれど、生憎と叶わなかった。

代わりに虹がその姿を僕等に見せてくれた。

「よかったね…」と僕が言うと「そうね」と妻は満足そうな笑みを見せた。



-了-

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