七章 かそけくそしてのどやかに

 婚姻の儀はつつがなく終わった。

 花嫁衣装の重さにひたすら耐え、三々九度をやり過ごし、祝いの酒に酔いしれる家臣達の乱痴気騒ぎに耐え、眩しすぎるくらいの言祝ぎをやり過ごし。

 結婚という大切な儀式を、自分ほどいい加減にこなした娘はいないだろう、と琴音は自嘲した。普通の娘ならば己の恋うた男に嫁ぎ愛され、幸福に子を生み育ててゆくのだから。何の憂いも不安もなく、どんなしがらみに囚われることもなく。雪柳の色の夜着に身を包んだ琴音は褥の端に膝を揃えて座りながら、不揃いな心を持て余す。

 もし、もしも、あたくしが。

 あたくしが、平の民の娘だったら。

 平の民の娘だったら、好きな人に嫁げていたのだろうか?

 平の民の娘だったら、こんな思いを胸に燻らせることもなかったのだろうか?

 こんな、砂を噛むような、虚しい思いを―。


 すらり、と襖が開いた。


「上様」

 はっと琴音が居住まいを正すと、のどやかな笑みを浮かべた夫が、膝の触れるほど近くに胡座をかいた。琴音は作法通り三つ指をつく。

「改めまして、北園が一の姫、琴音にございます。どうぞ幾久しくよろしくお願い申し上げます」

 教えられた文言をそつなく口にした琴音は夫の言葉を待った。

 しかし束の間沈黙が続き、平静を装っていた琴音も流石に焦る。何かしでかしてしまっただろうか?

 顔を上げ掛けた琴音は、頭にぽふ、と軽い衝撃を感じて「はえ?」と間の抜けた声を漏らした。ふは、と夫が笑う気配がした。どうやら夫の手が頭に置かれているようだ。

「な、何をお笑いになるのです」

 琴音は思わず頬を膨らませる。かそけき灯りに照らされた夫は、そんな琴音に向かって珍しい、明るい色をした瞳を細めてみせた。

「からかい甲斐があるな、と思うてな」

「からかい甲斐」

「ふふ。大人びていると思うたが、年相応に可愛いところもあるようだな。安心したぞ」

 その笑顔はどこか幼くて、屈託なく眩しい。琴音はそれとよく似た笑顔を知っている。琴音の胸に彼の笑顔が去来して、解けるように消えた。

 そんな琴音の胸の内を知ってか知らずか、夫は落ち着いた様子で続けた。

「改めて、私は橋本孝弘はしもとたかひろという。よしなに頼むぞ」

「はい」

「知っていると思うが、私のもう一人の本妻は南家の二の姫で栄夏えいかという。後々挨拶に行ってほしい」

「承りましてございます」

「うむ。立場上、私はそなたのことを名で呼べぬでな。便宜上、北と呼ばせてもらう」

「承知いたしました」

 孝弘は言葉を切って微かに俯く。上様、と琴音が覗き込もうとしたとき、孝弘はくっと彼女の手首に手を掛け、押し戻すような仕草をした。

 琴音の薄く細い体はとすん、と呆気なく押し倒された。琴音に跨がり、覆い被さってきた孝弘の表情は、薄暗くてよく見えない。琴音はうなじを汗が伝うのを感じた。

 孝弘は何も言わない。しっかと琴音を押さえつけたまま焦らすようにゆっくりと顔を寄せてくる。唾を嚥下した琴音の白い喉がひく、と反った。

「…ぁ」

 震える喉が喘ぐような声を漏らす。これは何だ。怖い。分からない。あたくしはこんなの知らない。冷えていく指先に反して体の芯がひどく熱い。孝弘の手が腰の辺りの裾を掴んだ。ぞわぁっと総身が粟立つ。

「あ」

 間の抜けた孝弘の声が響いた。頼りない灯りが揺らめいた。

 孝弘はそっと裾から手を離す。次いで手首が解放される。がくがくと震えの止まらない琴音の頭を、孝弘はその手で撫でた。

「すまん」

 孝弘はそう詫びて、琴音を抱え起こしてくれた。訳が分からぬまま、琴音は裾を整える。

「そなたにはまだ、斯様なことをさせるわけにはゆかぬな」

「え…」

夜伽よとぎなどまだ早いわ」

 ぶわっと頬に朱が昇った。夜伽の意味を知らぬほど、琴音は子供ではない。

「すまぬ。怖がらせてしもうたな」

 孝弘は打って変わって穏やかな手つきで琴音を抱き寄せた。広い胸板に顔をうずめる形となり、琴音は羞恥に居たたまれない。抱いたまま、孝弘はあやすように琴音を揺する。

「う、上様」

「よいよい。あまり気を張るでない。慣れぬ地で、そなたのように若い女子がすぐ落ち着けるとは限らぬ。今は、私を頼れ」

「っあの」

「初っ端から襲ってしもうた私が言えたことではないがな」

「いえ、そうではなく…」

「?」

「あの、恥ずかしゅうございますので、お離しくださいませ…」

 琴音は孝弘の胸に手を突っ張る。きょとんとして腕を緩めてくれた彼は、しかし「ははっ」と一笑して再び琴音を抱き締めた。

いのう、照れておるのか」

「なっ」

「それになんと向こう気の強い。私相手に左様な顔をするものはおらなんだ」

 ほれほれと孝弘の指が琴音の眉間を解いた。むくれた琴音は孝弘に反論し掛けた。振り仰ぐと、瞳と同じ明るい色をした髪に瞼をくすぐられた。

 気づけば孝弘がじっとこちらを眺めている。

「…私の姿を受け入れてくれる者も初めてだ」

 孝弘はなぜかこほんと空咳をして、琴音を離した。さっさと横になってしまう。ぽかんとする琴音をどう思ったのか、孝弘は褥をちょっと持ち上げて「早う」と急かす。

「あ、はい」

 おずおずと潜り込んだ琴音に、孝弘はひたっと寄り添った。「何もせんよ」と彼は笑う。

「お休み」

「お休みなさいませ」

 肩先の温もりが不思議に温かい。琴音は次第に眠たくなってきた。


 ―しあわせにしたいのう。


 そんな声が聞こえた気がした。

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籠の鳥はいつ出やる。庭の花はいつ咲きやる。 若葉色 @cosmes4221

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