幕間 きみがためあきののにいでのぎくつむ
「墨彦ぉ」
間延びした声が聞こえてきて、墨彦はゆるりと振り向いた。ひょろりとした長身の男と、ざんばら髪の男が手を振り振り歩いてくるところだった。
「仁弥、水瀬」
「生きてたかぁ?」
「生きてるわ」
冗談めかしてそう答えてから、墨彦は腰を上げる。近づいてきた二人は何かを担いでいるようだ。
「よ、久方振りって奴だ」
憎たらしいくらいに整った顔ににかっと笑みを浮かべた水瀬が、担いでいるもの―大きな籠を突き出してきた。受け取ると、びっちびっちと跳ねる…。
「うお、秋刀魚だ」
「感謝しろや、たんと釣ってきてやったぞ」
ありがとう、と礼を言えば、彼はにしし、と笑みを深めた。
「俺は無視か」
「無視はしてないよ」
拗ねたような顔をする従兄も籠を抱えている。一旦水瀬に籠を返してから、墨彦は仁弥の籠を覗いた。
「こんなたくさんの茸、初めて見たんだけど」
「だろ?」
「それにこれ、山芋?」
「ご名答!ってな訳で…」
「「飯にしようぜ!」」
やたらと楽しげな仁弥と水瀬であった。
***
炊きたての飯の香りが立ち昇る。ほわぁ、と仁弥が気の抜けるようなため息をついた。
次いで、囲炉裏に掛けた鍋の蓋を取ると、旨味を詰め込んだ良い匂いがした。仁弥の手土産の茸と取り貯めていた山菜がいい具合に煮込まれている。味が染みていて美味しそうであった。
水瀬の秋刀魚は、彼自身の手で串に刺されて一尾焼きされている。粗塩を振ればその脂と良く合うだろう。
「頂くとするか」
三人、ぱちんっと手を合わせる。
「「「頂きまっす!」」」
墨彦は木椀によそった山菜汁に口をつけた。味噌が少ないのが心配だったが、山菜の旨味がそれを補ってくれていた。控えめに言って物凄く美味しい。
仁弥は秋刀魚を頬張っている。頭からがぶりと齧った彼は「あっふあっふ」と熱そうに身悶えしながらも、幸せそうに頬を緩めている。
「あっふひは…もごもご。でもうめぇ!」
「何より何より」
「お前も食べろよ、折角自分で釣ったのに」
「俺は猫舌なんでね。もうちょい冷めてから食べるわ」
「えー、勿体ねぇ」
もう一本と秋刀魚に手を伸ばし掛け、仁弥はあれ?という顔をする。
「なぁ墨彦」
「ん?」
「俺の山芋は?」
「とろろにしようかと思ってたんだけど、それでいいか?」
きらり、と彼の目が輝く。墨彦は苦笑しつつも、包丁を準備して山芋を刻み始める。
「とっろろ、とっろろ」
「何お前、そんなにとろろ好きだったの?」
「おう」
「意外だな」
「そうか?腹持ちいいし、つるつるいけるから何杯でも食べられるし。ほら、昔は一食食べるのにも困るときがあったから、山芋一本見つけただけで大はしゃぎしたもんだよ」
「あったな、そう言えば」
懐かしそうに語る仁弥の横で、墨彦はてきぱきと刻み終えた山芋を鉢に移していった。
「水瀬、だし汁取って」
「はいよ」
ざっと注いだだし汁を取り込むようにして、すりこぎでしゃりしゃり擦っていく。墨彦の手際の良さに水瀬が「すげぇ」と感嘆の声を漏らした。
「一丁上がり」
出来上がったのは艶々、ふんわりとした、とろろの山だ。仁弥も水瀬もきらきらした目をしているが、つくった本人である墨彦もごくんと唾を飲む。
等分になるように注ぎ分けたとろろが、各々の飯茶碗の上で旨そうに光っている。三人は顔を見合わせてから、同時にとろろ飯を口に運んだ。
「うっ…めぇええ!」
しっかり粒の立った飯にとろろが良く絡む。これは仁弥の言う通り、確かに何杯でも食べられる。
さらさらと飯を掻き込んだ仁弥が、真っ先に「おかわり!」の一声を上げる。
「ひふんへよほっへ」
「何て?」
「ごくん。…自分でよそって」
「へいへい」
いそいそと仁弥が飯をよそいに席を立つ。その後ろから「俺も…」と水瀬が続く。
「あーもう、飯だけで旨いわ」
「じゃあその分俺にとろろ寄越せや」
「やなこったね」
「ん、俺もおかわり!」
賑やかに、秋の夜が更けてゆく。
***
「んー、もう食べられない」
「これ以上何もないしな」
はい、と墨彦は二人の前に茶を置く。ほわっと小さな湯気が上がった。
「で?」
「?」
「何かあったのか?」
単刀直入に、墨彦はそう訊ねた。茶を口に含んだ仁弥が何とも言えない顔をする。その、お前が言えよ、と言わんばかりの表情を受けて、水瀬が口火を切った。
「姫様が、お輿入れなさった」
「輿、入れ」
「数日前のことだ。俺達も直接見た訳じゃないから何とも言えないけど、取り敢えずは無事に発たれたそうだ」
「そうか…」
目の前に、鮮やかに翻る黒髪の幻想が浮かんで消えた。眩しく弾けた笑顔の余韻が眼裏から離れない。
そうか。あの娘はもう、いないのか。
右手に、さっき野菊を摘んだ感触がくっきりと残っている。少女の不在が実感を持ち始めるのにつれて、右手は冷えてゆくことによりその感触を消そうとしていた。
自分は今、どんな顔をしているのだろう。きっと情けない顔だ。仁弥も水瀬も厳しい面持ちでこちらを見つめている。
「よ、」
良かった、と呟き掛けた唇がひくりとひきつった。その途端、半端に浮かべた笑みがぎこちなく抜け落ちてゆく。
仁弥がためらいがちに口を開いた。
「お前、姫様を慕ってたんだろう」
墨彦は見開いた両の目を従兄に向けた。
「…何で…」
「お前を見てれば分かるよ。姫様と一緒にいるときのお前は、何つーか…お日様みたいな顔で笑ってるから」
いい笑顔してるなと思ってたよ。仁弥はそう寂しげに言った。
「姫様も、満更じゃなかったと思うぜ」
水瀬が静かに言い添えた。
「じゃなきゃ、あんな花が咲くような顔にはならねぇだろ」
水瀬は何かを堪えるようにきつく手を握り締め、きっと墨彦を睨み据えた。
「お前、何で諦めた」
ぎりぎりと弓を引き絞るように、彼の視線が鋭くなってゆく。
「そんなに姫様を慕ってたんなら、さらって逃げるくらいしてみせろよ!」
今そんな面晒すくらいなら、と叩きつけるかのように水瀬は怒鳴った。
「お前はお館様とお方様に言いくるめられて途中で引き下がった腰抜けだから知らんだろうがな、俺達は最後に見た姫様の顔、よぉく覚えてんだよ!あんな年端もいかねぇ娘が、何もかもに絶望しきった顔してたんだよ!もう何もないんだっていう硝子玉みてぇな空虚な目ぇしてたんだよ!お前は知らんだろうがな!!」
「…墨彦。水瀬の言う通りだ。お館様やお方様の言うことがいつも正しいとは限らないんじゃないか?お二人が思う姫様のためは、姫様のためにならないことだってあるんじゃないのか?」
端正な顔を般若にして叫んだ水瀬の背をさすりながら、仁弥もそう言った。
墨彦は息が詰まったような気がして、ぎゅっと胸元を掴んだ。そこに浮かぶ明るい笑顔は砕けて、代わりにあどけなくも能面のようにのっぺりとした、誰かの白い顔―。
「っ琴音…」
これは、琴音だ。俺が、琴音にこんな顔をさせたんだ。平べったくて、冷たくて、寂しくて堪らない、こんな顔を!
「うっ…ああぁあああぁぁ!!!」
自分がしてしまったことの重さに潰されるようにして、墨彦は泣き伏した。
***
水瀬は相変わらず猛禽のような目で墨彦を睨んでいたが、その美しい目尻には僅かに涙がにじんでいる。隣で茶を啜る仁弥も、目を伏せたまま何も言わない。墨彦は震えるほどに強く手を握り締めていた。
「…俺は、北園に助けられたから、その恩に背く訳にはいかねぇ」
水瀬はぽつりとそんなことを言った。
「お前らもそれは同じだろうよ。だがな、そんなことより大切なことがあんだろ」
「俺は、あれが、琴音のためになると思ってた」
反論し掛けた水瀬を遮り、墨彦は続ける。
「でも、二人のお蔭で、俺の弱さが全部壊しちまったって分かったから。やったことの蹴りは自分でつけるよ」
仁弥が呆れたようにため息をついた。
「蹴りをつけるって言っても、お前まさか将軍様のところに押し掛けるつもりじゃないよな」
「それしかない」
はあ?馬鹿なのか?と仁弥が声を上げる。しかし水瀬はいたって真面目な顔で「具体的には?」と訊き返してきた。
「将軍様のところに庭師とか、行商として行こうと思ってる」
「ふうん」
「上手く気に入られれば、琴音のことも聞けるかもしれない」
「墨彦、お前」
「俺がそうするのは琴音に幸せでいてほしいからだ。琴音が嫌がるのなら引き下がるつもりでいる。でも、俺がいいと少しでも思ってくれるなら、さらってでも取り戻すよ」
仁弥は目を丸くする。水瀬は「はん、今更か」と悪態をつきながらも目元を緩めている。
「俺は俺に従う。だから、お前が困ったときは、お館様を裏切っても助けてやるから」
安心しろや、と笑った水瀬と、眉を八の字にしつつも頷いてくれた仁弥に、墨彦は温かな安堵を覚えた。
囲炉裏から立ち昇る湯気の向こう、白い野菊が柔らかく霞んで見えていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます